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2020. 03. 27  
今回は『その3』なのですが、中三日空きましたので、『その2』は20/03/23、因みに『その1』は3/22になります。

という訳で。
前回は、2度も雷公が降臨(結果的には火事で災害になったのですが)するという栄誉のある強烈な天神社を、どうして鬼門の守りから外しちゃったの政宗公!!

…というところで終わりましたので、続きと参ります。

尤も、少なくとも2回目の落雷は、現在の位置に遷座してからなんですけどね。
有名な落雷と火災は寛政7年(1795)2月25日のことで、社殿だけでは済まずに鳥居まで焼ける大火事でした。
その後建て直したのが現在の社殿その他であるようです。

宮司さんが2度落雷したと仰っているのですからそうなのだと思いますが、もう1回がいつで、どのような被害であったのか、ぐぐっても見当たらなかったので、そちらの方はよくわかりません。
1795年に消失した資料に書いてあったものの、1度目の落雷については詳細は不明、というところなのだと思います。

私は、長い間わかりませんでした。
1回目の落雷がいつかということではありません。

どうして鬼門封じが天神社ではダメだったのか、ということです。

確かに、現在東照宮がある場所は、実際に家康公が来たことのある土地で、つまり「家康公ゆかりの地に東照宮を勧請したい」という理由付けはとてもナチュラルで、まさかそれを鬼門封じにしますなんて考えているなどとは疑われることはありませんでした。

実際、仙台城の鬼門封じは、現在の定禅寺通りの辺りにある寺社群がそれであるというのが、公式でした。

と、鬼門封じを公式情報として幕府に伝えなければならない程度に、各地の大名が《呪術都市》を作ることを幕府が警戒していたのが驚きです。

それに、東照宮の勧請は、当時の各藩武将達の間で流行?していまして、競うように東照宮を建てていましたから、伊達家もそうであっても何の不思議もありません。
そして、晩年の家康公の信頼を得ていた政宗公(信頼を得るまでには色々あった訳ですが)の跡継ぎ・忠宗公が、仙台にも是非東照宮を、と徳川幕府3代目・家光公に申し出た所、とても喜んでくれて費用まで出してくれたほどです。

だから、まあ鬼門封じを疑われない程度の理由付けとしては役に立ちましたけど、別に家康公ゆかりの地だとか理由を付けなくても、わざわざ天神社を遷座するという手間をかけなくても、現在榴岡天満宮がある場所に東照宮を勧請したとしても、家光公は普通に歓迎してくれたと思うんですね。

だから、実は、私の疑問は当初、『どうして鬼門封じを東照宮にこだわったの?』だったんです。
でも、よく考えたら、

ソレ順序が違う。

ことに気付いたんです。

仙台城と城下町の結界の計画は、初代政宗公とそのブレーンによるものです。
仙台に東照宮を勧請したいと徳川家光公に申し出たのは、2代伊達忠宗公なのですが、天神社を現在地に移し(榴ヶ岡天満宮)、鬼門封じは《別の寺社》に取り替えよう考えていたのは、政宗公の可能性が高い

漠然と別の寺社、と言いますのは、まず結界6ポイントの要・仙台城築城年が1601年。
対して
日光東照宮が建てられたのが1617年。(家康公は1616年没)

仙台城築城が16年も先んじていて、始めから結界の構想に、東照宮を勧請しようという発想を入れるのは時系列的に無理なんです。

だから、天神社を鬼門封じから《外したい》という発想の方が先だった、ということになります。

(つづき)
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chikaru414

Author:chikaru414
日本の神話と神社仏閣、それにまつわる歴史が好きです。
スサノオ様、スセリヒメ様はじめ出雲の神様と水神様推し。
定義山西方寺を崇敬。伊達政宗公を尊敬する伊達家家臣末裔です。透明水彩絵師。

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