2022.
12.
31
古事記によると、アシナヅチも稲田宮主須賀之八箇耳神で、こっちはこっちでいかにも王の名前です。
ただし、こちらのスガノヤツミミ神という名は、スサノオがアシナヅチに与えた名前だという記述になっているので、始めから持っていた名なのかどうかわかりません。
日本書紀は、本文よりも異文の方に謎解きの鍵が多い気がするので、古事記の《童女》発言と合わせると、スサノオが出雲に来てまず初めの妻としたのは、稲田宮主賛狭之八箇耳という、《稲田宮の主である須佐の女王》テナヅチだと思います。
その女王が、《1人目の稲田姫》です。
まだ童女である《2人目の稲田姫》が立派な巫女になるのを何年も待つよりは、既に存在しているヒメヒコ制の姫=女王を妻にして自分が婿として王になる方が手っ取り早い、というか、それが割と普通だと思います。
スサノオの、出雲入りする前の名前はわかりません。でも、スサノオが出雲に来る前から《スサ》が存在したのだし、それは女王が持っていた称号の一部だった。
ならば、スサノオは須佐の女王を妻にしたからスサノオは《須佐之男》と呼ばれるようになったのだと思います。
古語『を』=男(を)は、夫(を)の意味を持します。
この案を採れば、『須佐之男』は『須佐の女王の夫』という意味で、女王の方が格上感がすごい女王国。
スサノオ(ヲ)ではなく『スサノウ』になるというのを何度か見かけたことがありますが、それは『素戔嗚』表記の『嗚』の呉音が『ウ』だからかもしれませんが、日本書紀は漢音表記なので『嗚』は『ヲ』でOKです。ただ、全部漢音で『素戔嗚』を読むと『ソサノヲ』になっちゃうんですけど、出雲では『スガ』→『ソガ』の転訛もあるので誤差だと思います。
この婚姻を機に、アシナヅチは政治王の地位をスサノオに譲って臣下になったのでしょう。
スサノオはこの時に『須賀』の称号を受け継いだのかも知れません。
とりあえず、スサノオが『スガ』持ちじゃないと、出雲大社の奥宮的な素鵞社(そがのやしろ)にスサノオ様が祀られている意味がわからないので。
スガノヤツミミ=アシナヅチは、長年連れ添った姉妹にして妻、そして年端のいかない童女クシナダヒメのことを思えば、新たに妻問いするような気分になったとも思えませんから、出雲に留まり仕えたことでしょう。
この辺り、年齢はわかりませんが愛しの妹ミカシキヤヒメの元に留まった長髄彦を思い出させます。
※ 私は長髄彦は一貫して自らが統べた土地と人民を守ろうとしたヒーローだと信じて疑わない。大体、記紀が寄ってたかってボコるような人だからこそ、本来の正当性があった人物(神)だと思う
そして、女王テナヅチが妊婦という異文は、テナヅチがアシナヅチの子を身篭もっていたのではなく、テナヅチがスサノオの子を産むという暗示だと思います。
お腹の子の性別まで、普通わかりません。生まれてくる娘がヤマタノオロチに食われてしまうと嘆くよりも、まだ子を産める女であるテナヅチ自身の命の危機です。
そして、スサノオが須佐の女王(1人目の稲田姫)との間にもうけたのが、ヤシマジヌミだと思います。
ヤシマジヌミは、スサノオから見れば女王テナヅチに生ませた長男ですが、多分テナヅチ女王にしてみれば、ヤシマジヌミが最後に産んだ末子であったのではないかと思います。
童女クシナダと姉弟でヒメヒコ制になってもおかしくない立場の王子です。
でも、稲田姫が童女→少女に成長すると、スサノオは《2人目の稲田姫》を嫡妻にして、須佐の女王の座はテナヅチから末娘クシナダヒメに引き継がれ、スサノオは引き続き政治王の立場を維持したのではないでしょうか。
かといって、母系社会のこの時代、先代女王の末の王子・ヤシマジヌミを軽んじるのは得策ではありません。
だから高い地位を与えられ、日本書紀が言うようにヤシマジヌミ=オオナムチだったのではないでしょうか。
まず、八島士奴美神という表記からして、かなり偉大な感じがします。
尊称には無頓着のように見える古事記ですが、ここは八島士奴美命と書かなかったのには意味があると思います。
何しろ、迦毛大御神とかいう爆弾を突然投下してくるのが古事記ですので。不意打ちで本質を突いてきます。
出雲の神という、《たかが地祇》であるのに、ヤシマジヌミは称え名がすごいです。
【別名】 清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)、清之繁名坂軽彦八嶋手命(すがのゆいなさかかるひこやしまでのみこと)、清之湯山主三名狹漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまの)、蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴(そがのゆやまぬしみなさむるひこやしましぬ)
面倒くさがりの私が、うわぁ…と読む気を無くす感じです。
でも、こんなブログを書いちゃっている以上、わかる気配がするところを断片的にに拾いましょう。
まず、頭に『すが』とか『そが』とか付いているのは分かります。
アシナヅチが『すが』の称号をもっていましたから、『すが/そが』は男児に受け継がれるのでしょうか?
※ 蘇我氏はこっちの流れなのかな?
そして、『ゆやま』は湯山という字が当てられている程度に温泉が湧く山なんでしょうか。大己貴&少彦名コンビも温泉神ですね。
私、鳴子温泉の温泉神社で何となく「2人目の子供が授かりますように。産まれたならばお礼にもう一度お詣り致します」とお願いしたところ、割とすぐ叶っちゃったことがあります。
そちらの神社は温泉の源泉そのものが御神体なので、大己貴&少彦名コンビが御祭神なんていうのは全然知らなかった頃の話なんですけど、流石は180人の子を設けた男。ご利益はガチ。
話を戻しましょう。『彦』は時代的に王子っぽい雰囲気がします。
あと、こういう長々しい尊称を持っている人って、身分の高い人か、大きな功績のあった人か、褒めちぎらないと祟るかも知れない人か、のどれかでしょう。さあどれだ?
よいお年をお迎え下さい。
(つづく)
ただし、こちらのスガノヤツミミ神という名は、スサノオがアシナヅチに与えた名前だという記述になっているので、始めから持っていた名なのかどうかわかりません。
日本書紀は、本文よりも異文の方に謎解きの鍵が多い気がするので、古事記の《童女》発言と合わせると、スサノオが出雲に来てまず初めの妻としたのは、稲田宮主賛狭之八箇耳という、《稲田宮の主である須佐の女王》テナヅチだと思います。
その女王が、《1人目の稲田姫》です。
まだ童女である《2人目の稲田姫》が立派な巫女になるのを何年も待つよりは、既に存在しているヒメヒコ制の姫=女王を妻にして自分が婿として王になる方が手っ取り早い、というか、それが割と普通だと思います。
スサノオの、出雲入りする前の名前はわかりません。でも、スサノオが出雲に来る前から《スサ》が存在したのだし、それは女王が持っていた称号の一部だった。
ならば、スサノオは須佐の女王を妻にしたからスサノオは《須佐之男》と呼ばれるようになったのだと思います。
古語『を』=男(を)は、夫(を)の意味を持します。
この案を採れば、『須佐之男』は『須佐の女王の夫』という意味で、女王の方が格上感がすごい女王国。
スサノオ(ヲ)ではなく『スサノウ』になるというのを何度か見かけたことがありますが、それは『素戔嗚』表記の『嗚』の呉音が『ウ』だからかもしれませんが、日本書紀は漢音表記なので『嗚』は『ヲ』でOKです。ただ、全部漢音で『素戔嗚』を読むと『ソサノヲ』になっちゃうんですけど、出雲では『スガ』→『ソガ』の転訛もあるので誤差だと思います。
この婚姻を機に、アシナヅチは政治王の地位をスサノオに譲って臣下になったのでしょう。
スサノオはこの時に『須賀』の称号を受け継いだのかも知れません。
とりあえず、スサノオが『スガ』持ちじゃないと、出雲大社の奥宮的な素鵞社(そがのやしろ)にスサノオ様が祀られている意味がわからないので。
スガノヤツミミ=アシナヅチは、長年連れ添った姉妹にして妻、そして年端のいかない童女クシナダヒメのことを思えば、新たに妻問いするような気分になったとも思えませんから、出雲に留まり仕えたことでしょう。
この辺り、年齢はわかりませんが愛しの妹ミカシキヤヒメの元に留まった長髄彦を思い出させます。
※ 私は長髄彦は一貫して自らが統べた土地と人民を守ろうとしたヒーローだと信じて疑わない。大体、記紀が寄ってたかってボコるような人だからこそ、本来の正当性があった人物(神)だと思う
そして、女王テナヅチが妊婦という異文は、テナヅチがアシナヅチの子を身篭もっていたのではなく、テナヅチがスサノオの子を産むという暗示だと思います。
お腹の子の性別まで、普通わかりません。生まれてくる娘がヤマタノオロチに食われてしまうと嘆くよりも、まだ子を産める女であるテナヅチ自身の命の危機です。
そして、スサノオが須佐の女王(1人目の稲田姫)との間にもうけたのが、ヤシマジヌミだと思います。
ヤシマジヌミは、スサノオから見れば女王テナヅチに生ませた長男ですが、多分テナヅチ女王にしてみれば、ヤシマジヌミが最後に産んだ末子であったのではないかと思います。
童女クシナダと姉弟でヒメヒコ制になってもおかしくない立場の王子です。
でも、稲田姫が童女→少女に成長すると、スサノオは《2人目の稲田姫》を嫡妻にして、須佐の女王の座はテナヅチから末娘クシナダヒメに引き継がれ、スサノオは引き続き政治王の立場を維持したのではないでしょうか。
かといって、母系社会のこの時代、先代女王の末の王子・ヤシマジヌミを軽んじるのは得策ではありません。
だから高い地位を与えられ、日本書紀が言うようにヤシマジヌミ=オオナムチだったのではないでしょうか。
まず、八島士奴美神という表記からして、かなり偉大な感じがします。
尊称には無頓着のように見える古事記ですが、ここは八島士奴美命と書かなかったのには意味があると思います。
何しろ、迦毛大御神とかいう爆弾を突然投下してくるのが古事記ですので。不意打ちで本質を突いてきます。
出雲の神という、《たかが地祇》であるのに、ヤシマジヌミは称え名がすごいです。
【別名】 清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)、清之繁名坂軽彦八嶋手命(すがのゆいなさかかるひこやしまでのみこと)、清之湯山主三名狹漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまの)、蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴(そがのゆやまぬしみなさむるひこやしましぬ)
面倒くさがりの私が、うわぁ…と読む気を無くす感じです。
でも、こんなブログを書いちゃっている以上、わかる気配がするところを断片的にに拾いましょう。
まず、頭に『すが』とか『そが』とか付いているのは分かります。
アシナヅチが『すが』の称号をもっていましたから、『すが/そが』は男児に受け継がれるのでしょうか?
※ 蘇我氏はこっちの流れなのかな?
そして、『ゆやま』は湯山という字が当てられている程度に温泉が湧く山なんでしょうか。大己貴&少彦名コンビも温泉神ですね。
私、鳴子温泉の温泉神社で何となく「2人目の子供が授かりますように。産まれたならばお礼にもう一度お詣り致します」とお願いしたところ、割とすぐ叶っちゃったことがあります。
そちらの神社は温泉の源泉そのものが御神体なので、大己貴&少彦名コンビが御祭神なんていうのは全然知らなかった頃の話なんですけど、流石は180人の子を設けた男。ご利益はガチ。
話を戻しましょう。『彦』は時代的に王子っぽい雰囲気がします。
あと、こういう長々しい尊称を持っている人って、身分の高い人か、大きな功績のあった人か、褒めちぎらないと祟るかも知れない人か、のどれかでしょう。さあどれだ?
よいお年をお迎え下さい。
(つづく)

2022.
12.
30
今まで、ヒメヒコ制で統べていたであろう兄妹神を何度も語ってきましたが、同時に姫神の所に婿入りしてきた男神が新たな政治王になる、というパターンも見てきました。
例えば
大屋毘古×大屋津比売 ※抓津比売との関係は不明
アシナヅチ×テナヅチ
長髄彦×ミカシキヤヒメ(長髄姫)
射楯神(五十猛)×神屋楯比売(スセリヒメ) ※私見
大年×宇迦之御魂(スセリヒメ?) ※推定
狭穂彦×狭穂姫 ※ヒメヒコで国を治めようとしたが垂仁帝に討たれて死亡
という感じです。
このうち、宇迦之御魂=スセリヒメだとすると、政治王の地位をオオナムチに譲った大年(ニギハヤヒ)は、大和の巫女王ミカシキヤヒメは結婚し、大王(政治王)になります。
長髄彦は、妹とニギハヤヒの結婚と同時に政治王の地位をニギハヤヒに譲りますが、大和の地を離れることなく、女王と新たな大王の忠臣として留まりました。
五十猛=大屋毘古ならば、五十猛は紀国に新天地を求めて旅立ったことになりますが、大屋毘古というのは古事記の神生みでも登場する名前です。
オオゲツヒメ同様に何人もいるよくある名前なのかもしれず、混同が起こりやすいのかもしれません。
ですから、五十猛≠紀の国に行った大屋毘古、ということも考えられます。
五十猛は古事記には名が見えず、日本書紀の異文にしか登場しない神なので、父スサノオと日本~半島間の交易に出ていたことしかわかっていません。
そこで、気になることがあります。
スサノオ様は、どのような形で婿入りしたのでしょう?ということです。
そりゃ、美童女クシナダを奥さんに貰って、日本初の和歌を歌っちゃうくらい浮かれたんでしょ?
と、古事記を読んでいると思いますが、何故、古事記はクシナダヒメを《童女》と記したのでしょうか?
イザナミ様のことは《少女》と書いたのに?
※ イザナギは《少男》なので、ふたりとも若かったんですね。矛で海を掻き混ぜる髭面のイザナギと熟女のイザナミの絵があるけど、アレはちゃんと古事記読んでないな
どの辺りの年齢が当時の童女なのかわかりませんが、生々しく言っちゃえば、童女は初経が来ていない年齢だと思います。
この頃の結婚なんてとにかく子を設けるためのものなのでしょうから、童女=まだ結婚する年頃ではない、というのが古事記の隠し球だったのかもしれません。
じゃあ、スサノオは誰と結婚したの?というと、
まさかのテナヅチしかいません。
え??テナヅチって老婆じゃないの!?
って思う人多いと思うんですけど、古代ならアラフォーでがっつり老婆です。
今と違って白髪染めなんて無いんですし、現代でも早い人は20代後半には白髪が気になって来ます。何なら男性は大学生のうちから頭髪がヤバい気配の人がいる。
昭和のニュースで60代の御婦人が交通事故に遭ったりすると、『60代の老女が車に轢かれ云々』とか堂々とTVのニュースで放送してたんです。(多分老人差別ということで、単に男性・女性になったんだと思う)
熟女、という魔性の美しさ持つ麗しい年増を差す言葉がありますが、これも30代~40代のイメージでしたね。50代になると事実上『おばあちゃん』になってきます。そのくらいになると普通に孫がいたので。
脇に逸れましたが、テナヅチは老婆の年頃に設定されていますが、『童女』の娘が居る程度に、アラフォーで生殖機能は現役だった可能性があります。
初産でアラフォーの妊娠は難しいイメージですが、私の周りで子供を3人以上産んでいる人は40代でも妊娠・出産してますね。そういう人って子宮や卵巣が若い頃から『働き続けている臓器』なんだと思います。だからテナヅチ、産もうと思えばまだ埋める女だった可能性。
8人も娘がいて?と思うかも知れませんが、8は単に『たくさん』であって、子を産んだ女にして見れば半分の4人でも『たくさん』だからね。
そしてリアルでは与謝野晶子が11人産んでるから。
尚、日本書紀にはこれもまた『一書曰』の異文があるのですが、その中のひとつではテナヅチは妊婦です。胎児クシナダの衝撃。
そして、その妊婦さんの名は稲田宮主賛狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)という大物感満々の名前なのです。
これが《須佐の女王・稲田姫》の名でなくて何だというのでしょうか。
(つづく)
例えば
大屋毘古×大屋津比売 ※抓津比売との関係は不明
アシナヅチ×テナヅチ
長髄彦×ミカシキヤヒメ(長髄姫)
射楯神(五十猛)×神屋楯比売(スセリヒメ) ※私見
大年×宇迦之御魂(スセリヒメ?) ※推定
狭穂彦×狭穂姫 ※ヒメヒコで国を治めようとしたが垂仁帝に討たれて死亡
という感じです。
このうち、宇迦之御魂=スセリヒメだとすると、政治王の地位をオオナムチに譲った大年(ニギハヤヒ)は、大和の巫女王ミカシキヤヒメは結婚し、大王(政治王)になります。
長髄彦は、妹とニギハヤヒの結婚と同時に政治王の地位をニギハヤヒに譲りますが、大和の地を離れることなく、女王と新たな大王の忠臣として留まりました。
五十猛=大屋毘古ならば、五十猛は紀国に新天地を求めて旅立ったことになりますが、大屋毘古というのは古事記の神生みでも登場する名前です。
オオゲツヒメ同様に何人もいるよくある名前なのかもしれず、混同が起こりやすいのかもしれません。
ですから、五十猛≠紀の国に行った大屋毘古、ということも考えられます。
五十猛は古事記には名が見えず、日本書紀の異文にしか登場しない神なので、父スサノオと日本~半島間の交易に出ていたことしかわかっていません。
そこで、気になることがあります。
スサノオ様は、どのような形で婿入りしたのでしょう?ということです。
そりゃ、美童女クシナダを奥さんに貰って、日本初の和歌を歌っちゃうくらい浮かれたんでしょ?
と、古事記を読んでいると思いますが、何故、古事記はクシナダヒメを《童女》と記したのでしょうか?
イザナミ様のことは《少女》と書いたのに?
※ イザナギは《少男》なので、ふたりとも若かったんですね。矛で海を掻き混ぜる髭面のイザナギと熟女のイザナミの絵があるけど、アレはちゃんと古事記読んでないな
どの辺りの年齢が当時の童女なのかわかりませんが、生々しく言っちゃえば、童女は初経が来ていない年齢だと思います。
この頃の結婚なんてとにかく子を設けるためのものなのでしょうから、童女=まだ結婚する年頃ではない、というのが古事記の隠し球だったのかもしれません。
じゃあ、スサノオは誰と結婚したの?というと、
まさかのテナヅチしかいません。
え??テナヅチって老婆じゃないの!?
って思う人多いと思うんですけど、古代ならアラフォーでがっつり老婆です。
今と違って白髪染めなんて無いんですし、現代でも早い人は20代後半には白髪が気になって来ます。何なら男性は大学生のうちから頭髪がヤバい気配の人がいる。
昭和のニュースで60代の御婦人が交通事故に遭ったりすると、『60代の老女が車に轢かれ云々』とか堂々とTVのニュースで放送してたんです。(多分老人差別ということで、単に男性・女性になったんだと思う)
熟女、という魔性の美しさ持つ麗しい年増を差す言葉がありますが、これも30代~40代のイメージでしたね。50代になると事実上『おばあちゃん』になってきます。そのくらいになると普通に孫がいたので。
脇に逸れましたが、テナヅチは老婆の年頃に設定されていますが、『童女』の娘が居る程度に、アラフォーで生殖機能は現役だった可能性があります。
初産でアラフォーの妊娠は難しいイメージですが、私の周りで子供を3人以上産んでいる人は40代でも妊娠・出産してますね。そういう人って子宮や卵巣が若い頃から『働き続けている臓器』なんだと思います。だからテナヅチ、産もうと思えばまだ埋める女だった可能性。
8人も娘がいて?と思うかも知れませんが、8は単に『たくさん』であって、子を産んだ女にして見れば半分の4人でも『たくさん』だからね。
そしてリアルでは与謝野晶子が11人産んでるから。
尚、日本書紀にはこれもまた『一書曰』の異文があるのですが、その中のひとつではテナヅチは妊婦です。胎児クシナダの衝撃。
そして、その妊婦さんの名は稲田宮主賛狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)という大物感満々の名前なのです。
これが《須佐の女王・稲田姫》の名でなくて何だというのでしょうか。
(つづく)

2022.
12.
29
《速日》はさておいて、ここから本筋に戻ります。
肥国については到底私の手に負える訳がないので、國學院大學にお任せします。
また、古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【27】もお勧めです。
筑紫国由来の血筋が「クシ」で、豊国由来の血筋が「トヨ」だとしたら?
私は、諸々の理由で、蘇我氏は出雲の系譜なんじゃないかと思っていたんですが、どうしてもその仮説を阻むものがあったのです。
それが「豊」。
蘇我氏は皇族の妃に娘を送り込み、その血を引く皇族の別名や諡号には「豊」が付くんです。
蘇我稲目の子は、堅塩媛(欽明天皇妃。7男6女)、馬子、小姉君(欽明天皇妃。4男1女)、石寸名(用明天皇妃)、境部摩理勢、小祚臣、という具合ですので、孫以降の世代がトヨだらけです。
用明天皇:橘豊日天皇 ←豊国の神名豊日別と酷似
聖徳太子:厩戸豊聡耳皇子
田目皇子:豊浦皇子
推古天皇:豊御食炊屋姫天皇 ←《櫛》のカシキヤヒメは饒速日妃(ナガスネヒコ妹・トミヤビメ)
崇峻天皇:長谷部若雀天皇 ←トヨが付いていない。馬子に殺されたから?しかし蘇我氏は大きな?鳥と縁が深く、物部守屋が馬子を「雀」と揶揄したことがあるので、「若雀」の諡号には闇を感じる。
皇極(斉明)天皇:天豊財重日足姫天皇
(両親が「王」で皇位と遠そうだけれども、母方の祖父が桜井皇子/母は蘇我堅塩媛/祖父は蘇我稲目 に行き着く。皇極天皇の夫の舒明天皇は蘇我の血を引かないので、意地でも蘇我系の姫を皇后にしたんだろうか…もっと蘇我に近い山背大兄王/聖徳太子の長男 の一族を滅ぼしてまで)
という感じなのですが、
この流れを蘇我氏の血を引きながら天智天皇がぶった切ります。
諡号は天命開別天皇で「豊」がありません。
天智天皇の母は斉明天皇ですから蘇我系です。
しかし、天智(当時中大兄皇子)は入鹿を殺しクーデターを起こした張本人です。これをきっかけに馬子が自害し蘇我氏の宗家が滅びます。(分家は生き延び後世に続く)
そのくせ、天智天皇は皇后に倭姫王という、宗家ではありませんが蘇我系の姫を皇后にします。
恐ろしいことに、倭姫王の父親は古人大兄皇子(母は馬子の娘)で、後ろ盾だった馬子を失い、即位を促されるも辞退して出家し吉野へ隠退したのにも関わらず、中大兄皇子は謀反の疑いを理由に古人大兄皇子を殺させます。
つまり、自ら殺した男の娘を皇后に据えたという鬼の所業。天智ろくでもねえ。←不敬
ただ、大海人皇子(天智の同母の弟。…のはずだが兄の可能性もあり)が即位を辞退して出家、という同じ事をした時も、「虎に翼をつけて放つようなもの」と警戒した者もいたとかで、実際に大友皇子と戦い大友皇子は死亡、そして大海人皇子が即位して天武天皇になりました。
出家したからって安心出来ないという証明をやってのけてくれちゃったので、天智が殊更に残虐だったかどうかは現代人の私が判断出来ることではないのかも知れません。
天智・天武・そして持統天皇の3人は、諡号に「豊」を用いません。
持統天皇に至っては諡号が2つあって
大倭根子天之廣野日女尊
高天原廣野姫天皇
と、アマテラス感が満々です。これで無関係と言う方が無理。
そして、アマテラスがニニギ=天孫降臨させたように、文武天皇が14歳で即位。
ここで、不思議なことに文武天皇の諡号が、これもふたつで
「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)
「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)
何故か「トヨ」が復活してるんですね。確かに、既に祖父母からして蘇我系なんですけど三代無視された「トヨ」がどうしてここで出てきたのか。
そして、「真宗」なんて本家感が満々で、「祖父天皇」もこれからの天皇の祖は文武天皇ですよ的な諡号です。
というかこの字面では、もろに持統がアマテラス(皇祖神)で文武はニニギ(天孫)でしょうよ。
それ以外の何だって言うんだ。
文武天皇の次は草壁皇子の皇太子妃であった 元正天皇。
この女帝も父が天智、母が蘇我姪娘(祖父が蝦夷の異母弟)というバリバリ蘇我系。
和風諡号は、日本根子天津御代豊国成姫天皇、と豊(国)が戻って来ます。
とにかく、蘇我宗家が滅んでも皇族はこぞって蘇我氏の娘を妃にしたんですよね。
トヨの一族蘇我氏が、どれだけ高貴な血筋と見なされていたのかがわかります。
実は蘇我氏が大王だったんじゃねーのと蘇我王朝説が出てくるのもわかります。
初期の天皇が賀茂(出雲系のクシの系統)の姫を皇后に据え続けたのと同じ構図です。
本当、『櫛/奇/クシ』は、どこに消えてしまったんだろう?
私の推し女神の一柱、櫛名田比売の『クシ』は。
でも、国生み神話を読み返したら、この神は隠れていた『クシ』なのでは?という神様を見付けたのです。
それは、オオトシ神の子・白日神(しらひのかみ)です。
オオトシ=ニギハヤヒであれば、ニギハヤヒは《櫛玉》の名を持っています。
そして、筑紫国の神名は白日別です。
白日は明るい太陽、と見なされることが多いようですが、それでも構いません。
父であるニギハヤヒは天照国照彦火明櫛玉饒速日命という名の太陽神なのですから。
白日神は、性別不明で配偶者や子の有無も不明です。
でも、この筑紫の神、クシの神の系譜が、何処にも記されていなくても、続いていてくれたらなぁと、思います。
肥国については到底私の手に負える訳がないので、國學院大學にお任せします。
また、古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【27】もお勧めです。
筑紫国由来の血筋が「クシ」で、豊国由来の血筋が「トヨ」だとしたら?
私は、諸々の理由で、蘇我氏は出雲の系譜なんじゃないかと思っていたんですが、どうしてもその仮説を阻むものがあったのです。
それが「豊」。
蘇我氏は皇族の妃に娘を送り込み、その血を引く皇族の別名や諡号には「豊」が付くんです。
蘇我稲目の子は、堅塩媛(欽明天皇妃。7男6女)、馬子、小姉君(欽明天皇妃。4男1女)、石寸名(用明天皇妃)、境部摩理勢、小祚臣、という具合ですので、孫以降の世代がトヨだらけです。
用明天皇:橘豊日天皇 ←豊国の神名豊日別と酷似
聖徳太子:厩戸豊聡耳皇子
田目皇子:豊浦皇子
推古天皇:豊御食炊屋姫天皇 ←《櫛》のカシキヤヒメは饒速日妃(ナガスネヒコ妹・トミヤビメ)
崇峻天皇:長谷部若雀天皇 ←トヨが付いていない。馬子に殺されたから?しかし蘇我氏は大きな?鳥と縁が深く、物部守屋が馬子を「雀」と揶揄したことがあるので、「若雀」の諡号には闇を感じる。
皇極(斉明)天皇:天豊財重日足姫天皇
(両親が「王」で皇位と遠そうだけれども、母方の祖父が桜井皇子/母は蘇我堅塩媛/祖父は蘇我稲目 に行き着く。皇極天皇の夫の舒明天皇は蘇我の血を引かないので、意地でも蘇我系の姫を皇后にしたんだろうか…もっと蘇我に近い山背大兄王/聖徳太子の長男 の一族を滅ぼしてまで)
という感じなのですが、
この流れを蘇我氏の血を引きながら天智天皇がぶった切ります。
諡号は天命開別天皇で「豊」がありません。
天智天皇の母は斉明天皇ですから蘇我系です。
しかし、天智(当時中大兄皇子)は入鹿を殺しクーデターを起こした張本人です。これをきっかけに馬子が自害し蘇我氏の宗家が滅びます。(分家は生き延び後世に続く)
そのくせ、天智天皇は皇后に倭姫王という、宗家ではありませんが蘇我系の姫を皇后にします。
恐ろしいことに、倭姫王の父親は古人大兄皇子(母は馬子の娘)で、後ろ盾だった馬子を失い、即位を促されるも辞退して出家し吉野へ隠退したのにも関わらず、中大兄皇子は謀反の疑いを理由に古人大兄皇子を殺させます。
つまり、自ら殺した男の娘を皇后に据えたという鬼の所業。天智ろくでもねえ。←不敬
ただ、大海人皇子(天智の同母の弟。…のはずだが兄の可能性もあり)が即位を辞退して出家、という同じ事をした時も、「虎に翼をつけて放つようなもの」と警戒した者もいたとかで、実際に大友皇子と戦い大友皇子は死亡、そして大海人皇子が即位して天武天皇になりました。
出家したからって安心出来ないという証明をやってのけてくれちゃったので、天智が殊更に残虐だったかどうかは現代人の私が判断出来ることではないのかも知れません。
天智・天武・そして持統天皇の3人は、諡号に「豊」を用いません。
持統天皇に至っては諡号が2つあって
大倭根子天之廣野日女尊
高天原廣野姫天皇
と、アマテラス感が満々です。これで無関係と言う方が無理。
そして、アマテラスがニニギ=天孫降臨させたように、文武天皇が14歳で即位。
ここで、不思議なことに文武天皇の諡号が、これもふたつで
「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)
「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)
何故か「トヨ」が復活してるんですね。確かに、既に祖父母からして蘇我系なんですけど三代無視された「トヨ」がどうしてここで出てきたのか。
そして、「真宗」なんて本家感が満々で、「祖父天皇」もこれからの天皇の祖は文武天皇ですよ的な諡号です。
というかこの字面では、もろに持統がアマテラス(皇祖神)で文武はニニギ(天孫)でしょうよ。
それ以外の何だって言うんだ。
文武天皇の次は草壁皇子の皇太子妃であった 元正天皇。
この女帝も父が天智、母が蘇我姪娘(祖父が蝦夷の異母弟)というバリバリ蘇我系。
和風諡号は、日本根子天津御代豊国成姫天皇、と豊(国)が戻って来ます。
とにかく、蘇我宗家が滅んでも皇族はこぞって蘇我氏の娘を妃にしたんですよね。
トヨの一族蘇我氏が、どれだけ高貴な血筋と見なされていたのかがわかります。
実は蘇我氏が大王だったんじゃねーのと蘇我王朝説が出てくるのもわかります。
初期の天皇が賀茂(出雲系のクシの系統)の姫を皇后に据え続けたのと同じ構図です。
本当、『櫛/奇/クシ』は、どこに消えてしまったんだろう?
私の推し女神の一柱、櫛名田比売の『クシ』は。
でも、国生み神話を読み返したら、この神は隠れていた『クシ』なのでは?という神様を見付けたのです。
それは、オオトシ神の子・白日神(しらひのかみ)です。
オオトシ=ニギハヤヒであれば、ニギハヤヒは《櫛玉》の名を持っています。
そして、筑紫国の神名は白日別です。
白日は明るい太陽、と見なされることが多いようですが、それでも構いません。
父であるニギハヤヒは天照国照彦火明櫛玉饒速日命という名の太陽神なのですから。
白日神は、性別不明で配偶者や子の有無も不明です。
でも、この筑紫の神、クシの神の系譜が、何処にも記されていなくても、続いていてくれたらなぁと、思います。

2022.
12.
28
以前、ある情報を得て「豊」と「櫛」の元はこれだ!!
…と思っていたのにすっかり忘れていて、先日別経路から同じ情報に再度出会ったので、もうコレ運命かもしれない。
古事記の国生み神話なんですが、
次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。
訳:(隠岐と壱岐の)次に、筑紫島(九州)を生んだ。この島は体がひとつで4つの顔があり、それぞれ名前がある。故に筑紫国は白日別といい、豊国は豊日別、肥国は建日向日豊久士比泥別といい、熊曽国を建日別と言う。
特に思い付かなくても、古事記にちゃんとあったんですね……「トヨ」と「クシ」。
まず、九州全体を筑紫島というんだけど、4つに分かれているんですね。
「筑紫国/つくし」「豊国/とよ」「肥国/ひ」「熊曾国/熊襲/くまそ」
あるじゃん!クシとトヨが!!
しかし、謎なのが肥国の顔の名前、「建日向日豊 久士比泥別」
(たけひむかひとよくじひねわけ)
長いっての……
しかも、4つの国のうち、残り3つの国の名前「タケ・トヨ・クシ」が全部入ってるし。くしがクジになって濁って言うらしいけど。
《建》の一族もいるのかなぁ?《速》の一族とか。
例:建速須佐之男命 饒速日
……あれ?
私今、横道に逸れたこと思い出した。
饒速日の《速日》って、よくある尊称でしたっけ?
スサノオ×オオヒルメの息子に、びびって降臨出来なくて息子を行かせたとかいうヘタレな長男がいたと思うんですけど。
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)っていう立派な名前なのですが。
私は別の記事で書いた通り、オシホミミを始めとする5柱の男神は、基本的にスサノオのダミーだと思っている(つまり天孫ニニギはアマテラスの孫ではなく息子だということ)ので、あまり重要視してこなかったのですが…
でも、ダミーのはずのオシホミミが《速日》を持っている。
そして、スサノオの息子オオトシと同一疑惑の饒速日も《速日》じゃんね。
これって、オオトシが父スサノオから《速日》を継いだって事でOKですか?
(つづく)
…と思っていたのにすっかり忘れていて、先日別経路から同じ情報に再度出会ったので、もうコレ運命かもしれない。
古事記の国生み神話なんですが、
次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。
訳:(隠岐と壱岐の)次に、筑紫島(九州)を生んだ。この島は体がひとつで4つの顔があり、それぞれ名前がある。故に筑紫国は白日別といい、豊国は豊日別、肥国は建日向日豊久士比泥別といい、熊曽国を建日別と言う。
特に思い付かなくても、古事記にちゃんとあったんですね……「トヨ」と「クシ」。
まず、九州全体を筑紫島というんだけど、4つに分かれているんですね。
「筑紫国/つくし」「豊国/とよ」「肥国/ひ」「熊曾国/熊襲/くまそ」
あるじゃん!クシとトヨが!!
しかし、謎なのが肥国の顔の名前、「建日向日豊 久士比泥別」
(たけひむかひとよくじひねわけ)
長いっての……
しかも、4つの国のうち、残り3つの国の名前「タケ・トヨ・クシ」が全部入ってるし。くしがクジになって濁って言うらしいけど。
《建》の一族もいるのかなぁ?《速》の一族とか。
例:建速須佐之男命 饒速日
……あれ?
私今、横道に逸れたこと思い出した。
饒速日の《速日》って、よくある尊称でしたっけ?
スサノオ×オオヒルメの息子に、びびって降臨出来なくて息子を行かせたとかいうヘタレな長男がいたと思うんですけど。
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)っていう立派な名前なのですが。
私は別の記事で書いた通り、オシホミミを始めとする5柱の男神は、基本的にスサノオのダミーだと思っている(つまり天孫ニニギはアマテラスの孫ではなく息子だということ)ので、あまり重要視してこなかったのですが…
でも、ダミーのはずのオシホミミが《速日》を持っている。
そして、スサノオの息子オオトシと同一疑惑の饒速日も《速日》じゃんね。
これって、オオトシが父スサノオから《速日》を継いだって事でOKですか?
(つづく)

2022.
12.
27
祇園信仰の八坂神社がスサノオ様の八王子として挙げるのは以下の順です。
・八島士奴美命 - オオナムチ自身かオオナムチの先祖
・五十猛命 - 大屋毘古命と同一神とされることもある
・大屋津比売命 - 五十猛命の妹
・抓津比売命 - 五十猛命の妹
・大歳神 - ニギハヤヒ
・宇迦之御魂神 - 稲荷神
・大屋毘古命 - 五十猛と同一神とされることもある
・須勢理比売命 - スサノヲの愛娘として登場するオオクニヌシの正妻
これ、確かにスセリヒメが末子になっていますが、全体的に見ると生まれ順っぽくない?という気がしましたが、違いました。
八坂神社では以下の設定なのです。
正妻・櫛稲田姫の子 - 八島士奴美(男)・五十猛(男)・大屋津比売(女)・抓津比売(女)
側妃・神大市比売の子 - 大歳神(男)・宇迦之御魂神(女)
側妃・左美良比売の子 - 大屋毘古命(男)・須勢理比売命(女)
この分類について、私は異論がありますが、ここでは引っ込めておきます。
重要なのは、母神別に、必ず男神が先(兄に見える)、その次に女神(妹に見える)という並び順になっているということです。
そして、末子相続ですから、正統な継承者は必ず女児で、権力者の場合は末の妹になるし、女児がひとりの場合は下に男児が何人生まれようとも、そのたったひとりの姫が次の女王になるのです。
少なくともその時代では、末子相続にプラスして、母系社会であったということです。
必ず女児が跡継ぎになるように、このように記載されていた。
我が娘よ!どうやら男尊女卑じゃなかったぞ!!
出雲が末子相続であるだけでなく、巫女が力を持つ《女王国》でもあったということは、記紀が必ず隠さなければいけない事柄だったと思います。
何故なら、神武帝がヒメタタライスズヒメを皇后にしたという事は、出雲・旧ヤマト勢力にとっては、ヒメタタライスズヒメ女王にイワレヒコが婿入りしてきて政治を司る男王になることで折り合いを付けた、という構図が暴露されるからです。
日本書紀によると、第5代孝昭天皇までは出雲&旧ヤマト王家の地を引く姫を皇后に迎えています。
ただし、第2代綏靖天皇~第5代孝昭天皇は記紀で『皇后』の名が異なります。日本書紀の記述通りであれば、ちょうどその綏靖~孝昭の次期は、出雲&旧ヤマト系の后が続いたことになります。
また、初期天皇達の皇后については、日本書紀の一書に『綏靖天皇から孝安天皇の5代の皇妃は「磯城県主の女」となっており、『書紀』本文では、孝霊天皇の皇后も該当することが次の孝元天皇の記述から分かる。』(by wiki)
※ 第八代孝元天皇の母=七代孝霊天皇皇后は磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命(細比売命)
皇后ではなく《皇妃》なのが訳ありのような気がしますが、磯城県主というのは元々旧ヤマトの豪族で、代々娘を入内させていたのかも知れません。
つまり、記紀に記載がされていなくても、記紀の記載に相違があっても、皇后の他にも皇妃がいて、天皇の妻が複数人存在したというのはごく当たり前のことです。
でも、実態としては天皇も皇后もありはしなかったのです。
単に、
出雲系の女王とヤマト王が並立することでひとつのクニを統治していたに過ぎない期間が存在したのですから。
……なーんて、記紀は絶対にあからさまには書けないよなあ。
そうであっても、嘘の中に事実や暗示を紛れ込ませて、どうにかして後世に歴史を残そうとしていた、記紀を読んでいるとそんな気がするのです。
・八島士奴美命 - オオナムチ自身かオオナムチの先祖
・五十猛命 - 大屋毘古命と同一神とされることもある
・大屋津比売命 - 五十猛命の妹
・抓津比売命 - 五十猛命の妹
・大歳神 - ニギハヤヒ
・宇迦之御魂神 - 稲荷神
・大屋毘古命 - 五十猛と同一神とされることもある
・須勢理比売命 - スサノヲの愛娘として登場するオオクニヌシの正妻
これ、確かにスセリヒメが末子になっていますが、全体的に見ると生まれ順っぽくない?という気がしましたが、違いました。
八坂神社では以下の設定なのです。
正妻・櫛稲田姫の子 - 八島士奴美(男)・五十猛(男)・大屋津比売(女)・抓津比売(女)
側妃・神大市比売の子 - 大歳神(男)・宇迦之御魂神(女)
側妃・左美良比売の子 - 大屋毘古命(男)・須勢理比売命(女)
この分類について、私は異論がありますが、ここでは引っ込めておきます。
重要なのは、母神別に、必ず男神が先(兄に見える)、その次に女神(妹に見える)という並び順になっているということです。
そして、末子相続ですから、正統な継承者は必ず女児で、権力者の場合は末の妹になるし、女児がひとりの場合は下に男児が何人生まれようとも、そのたったひとりの姫が次の女王になるのです。
少なくともその時代では、末子相続にプラスして、母系社会であったということです。
必ず女児が跡継ぎになるように、このように記載されていた。
我が娘よ!どうやら男尊女卑じゃなかったぞ!!
出雲が末子相続であるだけでなく、巫女が力を持つ《女王国》でもあったということは、記紀が必ず隠さなければいけない事柄だったと思います。
何故なら、神武帝がヒメタタライスズヒメを皇后にしたという事は、出雲・旧ヤマト勢力にとっては、ヒメタタライスズヒメ女王にイワレヒコが婿入りしてきて政治を司る男王になることで折り合いを付けた、という構図が暴露されるからです。
日本書紀によると、第5代孝昭天皇までは出雲&旧ヤマト王家の地を引く姫を皇后に迎えています。
ただし、第2代綏靖天皇~第5代孝昭天皇は記紀で『皇后』の名が異なります。日本書紀の記述通りであれば、ちょうどその綏靖~孝昭の次期は、出雲&旧ヤマト系の后が続いたことになります。
また、初期天皇達の皇后については、日本書紀の一書に『綏靖天皇から孝安天皇の5代の皇妃は「磯城県主の女」となっており、『書紀』本文では、孝霊天皇の皇后も該当することが次の孝元天皇の記述から分かる。』(by wiki)
※ 第八代孝元天皇の母=七代孝霊天皇皇后は磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命(細比売命)
皇后ではなく《皇妃》なのが訳ありのような気がしますが、磯城県主というのは元々旧ヤマトの豪族で、代々娘を入内させていたのかも知れません。
つまり、記紀に記載がされていなくても、記紀の記載に相違があっても、皇后の他にも皇妃がいて、天皇の妻が複数人存在したというのはごく当たり前のことです。
でも、実態としては天皇も皇后もありはしなかったのです。
単に、
出雲系の女王とヤマト王が並立することでひとつのクニを統治していたに過ぎない期間が存在したのですから。
……なーんて、記紀は絶対にあからさまには書けないよなあ。
そうであっても、嘘の中に事実や暗示を紛れ込ませて、どうにかして後世に歴史を残そうとしていた、記紀を読んでいるとそんな気がするのです。

2022.
12.
26
……と、タイトル通りのことを、私は予てから思っていました。
名前がお揃いの場合がわかりやすいのですが、別の場合も有ります。
兄:大屋毘古(オオヤビコ/五十猛)
妹:大屋津比売(オオヤツヒメ)
妹:抓津比売(ツマツヒメ)
兄:長髄彦(別/トミヤビコ)
妹:長髄比売(別/トミヤヒメ・ミカシキヤヒメ)
兄:大年
妹:宇迦之御魂(性別不明だが女神像がある)
兄:阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)
妹:下照比売(シタテルヒメ/高比売)
他にもあるかも知れませんが、今思い付くのはこのくらいです。
兄弟だけ、姉妹だけという同性の組み合わせなら、こっちが兄でそっちが弟、そっちが姉であっちが妹と明言されているのですが、異性のきょうだいの場合、
実は、兄妹ではなく「姉弟」だと明言しているのはオオヒルメとスサノオだけだと思います。
※ ツクヨミは性別不明
※ 私が知らないだけでほかにもあるかもしれない
この傾向は、初期の皇族(生年不詳)にも受け継がれます。
まず皇子の名が挙がり、皇女の名は後に来る。
だから年少の「妹」のように見える。
何故神代や古代は兄と妹ばかりで姉と弟の組み合わせがないのか?
ずっと疑問だったんですが、つい最近思い出したのですが、確か榊を捧げる時の我が家の地鎮祭の子供たちの順序です。
うちは長男・長女・次男という組み合わせなので、長女は「自分は真ん中だ」とか「私は2番目だ」とか信じて疑ったこともなかったのです。
それはどう考えても正しい。長女はいつだって、上から数えても下から数えても真ん中で2番目なんですから。
だから子供達は当然に生まれ順に並んだのですが、神主さんが
「ごめんねお姉ちゃん。弟君を先にしてね」と言ったのです。
長女は、「え?」言って、何だかわからんけどという顔をしながら、弟の次に並びました。
つまり、榊を捧げる順番は、家長・妻・兄・弟・長女、となり、長女は2番目の子なのに最後にされてしまった訳です。
長女は聞き分けがいい子供だったのでその場では何も言いませんでしたが、地鎮祭が終わってから
男女差別だーーー!!!と叫んでました。
うん、まあそう思うよね。
私は差別じゃなくて単に「そういうしきたり」なんだろうと思いつつ、長女の頭を撫でてよしよししましたけど。
でも、今考えてみる。
「そういうしきたり」って、どういう意味のしきたりだ?
現代人にもわかりやすく男女差別なのか?
それとも別の理由が有るのか?
でも、ですね。
実際に兄弟姉妹を長兄~末弟、長姉~末妹、の順に並べてみると、どうなります?
そう。必ず末子は女児になるのです。
(つづく)
名前がお揃いの場合がわかりやすいのですが、別の場合も有ります。
兄:大屋毘古(オオヤビコ/五十猛)
妹:大屋津比売(オオヤツヒメ)
妹:抓津比売(ツマツヒメ)
兄:長髄彦(別/トミヤビコ)
妹:長髄比売(別/トミヤヒメ・ミカシキヤヒメ)
兄:大年
妹:宇迦之御魂(性別不明だが女神像がある)
兄:阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)
妹:下照比売(シタテルヒメ/高比売)
他にもあるかも知れませんが、今思い付くのはこのくらいです。
兄弟だけ、姉妹だけという同性の組み合わせなら、こっちが兄でそっちが弟、そっちが姉であっちが妹と明言されているのですが、異性のきょうだいの場合、
実は、兄妹ではなく「姉弟」だと明言しているのはオオヒルメとスサノオだけだと思います。
※ ツクヨミは性別不明
※ 私が知らないだけでほかにもあるかもしれない
この傾向は、初期の皇族(生年不詳)にも受け継がれます。
まず皇子の名が挙がり、皇女の名は後に来る。
だから年少の「妹」のように見える。
何故神代や古代は兄と妹ばかりで姉と弟の組み合わせがないのか?
ずっと疑問だったんですが、つい最近思い出したのですが、確か榊を捧げる時の我が家の地鎮祭の子供たちの順序です。
うちは長男・長女・次男という組み合わせなので、長女は「自分は真ん中だ」とか「私は2番目だ」とか信じて疑ったこともなかったのです。
それはどう考えても正しい。長女はいつだって、上から数えても下から数えても真ん中で2番目なんですから。
だから子供達は当然に生まれ順に並んだのですが、神主さんが
「ごめんねお姉ちゃん。弟君を先にしてね」と言ったのです。
長女は、「え?」言って、何だかわからんけどという顔をしながら、弟の次に並びました。
つまり、榊を捧げる順番は、家長・妻・兄・弟・長女、となり、長女は2番目の子なのに最後にされてしまった訳です。
長女は聞き分けがいい子供だったのでその場では何も言いませんでしたが、地鎮祭が終わってから
男女差別だーーー!!!と叫んでました。
うん、まあそう思うよね。
私は差別じゃなくて単に「そういうしきたり」なんだろうと思いつつ、長女の頭を撫でてよしよししましたけど。
でも、今考えてみる。
「そういうしきたり」って、どういう意味のしきたりだ?
現代人にもわかりやすく男女差別なのか?
それとも別の理由が有るのか?
でも、ですね。
実際に兄弟姉妹を長兄~末弟、長姉~末妹、の順に並べてみると、どうなります?
そう。必ず末子は女児になるのです。
(つづく)

2022.
12.
25
という訳で、
1.コノハナサクヤヒメの火中出産
2.その息子ヒコホデミミ尊が妻を失う話
3.その息子ウガヤフキアエズの養育に豊玉姫の妹(玉依姫)が当たる。
4.養育係で叔母の玉依姫がウガヤフキアエズの妻にスライドする
…という三世代に渡る4つのエピソードを、垂仁天皇と狭穂姫、そして謀反を起こした狭穂彦とで、一代で全部やっているのです。
この類似は、何かを暗示しているのか、単にテンプレなのか。
垂仁天皇の後日談ですが、狭穂姫を失った後、天皇は古事記によると4人の姉妹、日本書紀では5人の娘を呼び寄せます。
記紀共に長女を皇后するのは共通しているのですが、古事記では次女は妃にしますが2人の妹姫は容姿が醜かったので送り返し、うちひとりは自死。
日本書紀では5人のうち末の姫が不器量という理由で里に帰し、恥じた姫は道中で自死、というどっかの皇孫みたいなkzっぷりを発揮しています。
あのー。垂仁帝とニニギ尊って、どっちかがダミーなんですか?←適当な思い付き
取り敢えず、ニニギ尊と垂仁天皇の醜女嫌いエピソードは、ラストに違いが出ます。
送り返されたイワナガヒメは、千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、の偉大な女神なので、ニニギ尊よりも遥かに長生きしていると思いますが、垂仁帝の後妻に推挙された姫達はただの人間なので、辱めに耐えられず死んでしまった、ということです。
イワナガヒメが実在の人物の反映だとした場合、亡くなっていたらイヤだな……
kzの所為で死んじゃうなんて絶対にイヤだよ、イワナガヒメ様……
しかし、狭穂姫は垂仁天皇の寵愛を一身に浴びていたようですが、ニニギ尊に見初められ選ばれたはずのコノハナサクヤヒメの方は、たかが一夜の契りで子が授かる訳がないだろう、と夫に嘲笑されるという非常なる屈辱を受けます。
そして命懸けの出産に臨み(火中じゃなくても現代でもお産は全て命懸けです)、産んだ子供達の名前をひとりで付けたサクヤヒメの悲しみが伝わってくるような気がします。
本当、記紀は何で一応皇孫設定なのにニニギ尊をどうしてこんなカスに書いたんだろ?(←結局言ってる不敬)
こんな男じゃいくら高貴であろうと、サクヤ様は口も利かないし共寝なんて二度としないとお怒りになり心を閉ざすのはごもっともなことです。
寧ろ、よく我慢して、富士山を噴火させないでいて下さったと思います。
っていうか火中出産そのものが富士山噴火を暗示しているんですか?(当てずっぽう)
子供の名前…と、ふとウガヤフキアエズの子の名前を古事記で追ってみたところ、何かが、おかしい。
古事記の現代語訳を端折りつつ書きますが
この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)が、その叔母である玉依毘売を妻として生んだ御子の名は、
五瀬命(いつせ)
稲氷命(いなひ)
御毛沼命(みけぬ)、
若御毛沼命(わかみけぬ)のみこと、またの名を豊御毛沼命(とよみけぬ)、またの名を神倭伊波礼毘古命(かむらやまといわれびこのみこと)
合わせて四柱。
御毛沼(三男)は、波の上を踏んで常世国にお渡りになり、稲氷(次男)は、亡き母の国がある海原に入った。
いい度胸だなぁ。お上に気付かれなくて本当に良かった。
絶対、古事記ライターは意識して書いたね。
イザナギ神から大海原を統治せよと仰せつかった高貴な神がいることを。
その神が、亡き母を慕って根の国に行きたいと言ったことを。
加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬ)
『神々の祖であり熊野大神である霊妙なる食の神』という意味のご尊名で称えられる御方がいらっしゃることを。
素戔嗚尊って言うんですけどね。
そして、
神武が《豊/トヨ》のミケヌ。
スサノオ様が《櫛/クシ》のミケヌ、と来たか。
この考察は、またの機会に。
1.コノハナサクヤヒメの火中出産
2.その息子ヒコホデミミ尊が妻を失う話
3.その息子ウガヤフキアエズの養育に豊玉姫の妹(玉依姫)が当たる。
4.養育係で叔母の玉依姫がウガヤフキアエズの妻にスライドする
…という三世代に渡る4つのエピソードを、垂仁天皇と狭穂姫、そして謀反を起こした狭穂彦とで、一代で全部やっているのです。
この類似は、何かを暗示しているのか、単にテンプレなのか。
垂仁天皇の後日談ですが、狭穂姫を失った後、天皇は古事記によると4人の姉妹、日本書紀では5人の娘を呼び寄せます。
記紀共に長女を皇后するのは共通しているのですが、古事記では次女は妃にしますが2人の妹姫は容姿が醜かったので送り返し、うちひとりは自死。
日本書紀では5人のうち末の姫が不器量という理由で里に帰し、恥じた姫は道中で自死、というどっかの皇孫みたいなkzっぷりを発揮しています。
あのー。垂仁帝とニニギ尊って、どっちかがダミーなんですか?←適当な思い付き
取り敢えず、ニニギ尊と垂仁天皇の醜女嫌いエピソードは、ラストに違いが出ます。
送り返されたイワナガヒメは、千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、の偉大な女神なので、ニニギ尊よりも遥かに長生きしていると思いますが、垂仁帝の後妻に推挙された姫達はただの人間なので、辱めに耐えられず死んでしまった、ということです。
イワナガヒメが実在の人物の反映だとした場合、亡くなっていたらイヤだな……
kzの所為で死んじゃうなんて絶対にイヤだよ、イワナガヒメ様……
しかし、狭穂姫は垂仁天皇の寵愛を一身に浴びていたようですが、ニニギ尊に見初められ選ばれたはずのコノハナサクヤヒメの方は、たかが一夜の契りで子が授かる訳がないだろう、と夫に嘲笑されるという非常なる屈辱を受けます。
そして命懸けの出産に臨み(火中じゃなくても現代でもお産は全て命懸けです)、産んだ子供達の名前をひとりで付けたサクヤヒメの悲しみが伝わってくるような気がします。
本当、記紀は何で一応皇孫設定なのにニニギ尊をどうしてこんなカスに書いたんだろ?(←結局言ってる不敬)
こんな男じゃいくら高貴であろうと、サクヤ様は口も利かないし共寝なんて二度としないとお怒りになり心を閉ざすのはごもっともなことです。
寧ろ、よく我慢して、富士山を噴火させないでいて下さったと思います。
っていうか火中出産そのものが富士山噴火を暗示しているんですか?(当てずっぽう)
子供の名前…と、ふとウガヤフキアエズの子の名前を古事記で追ってみたところ、何かが、おかしい。
古事記の現代語訳を端折りつつ書きますが
この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)が、その叔母である玉依毘売を妻として生んだ御子の名は、
五瀬命(いつせ)
稲氷命(いなひ)
御毛沼命(みけぬ)、
若御毛沼命(わかみけぬ)のみこと、またの名を豊御毛沼命(とよみけぬ)、またの名を神倭伊波礼毘古命(かむらやまといわれびこのみこと)
合わせて四柱。
御毛沼(三男)は、波の上を踏んで常世国にお渡りになり、稲氷(次男)は、亡き母の国がある海原に入った。
いい度胸だなぁ。お上に気付かれなくて本当に良かった。
絶対、古事記ライターは意識して書いたね。
イザナギ神から大海原を統治せよと仰せつかった高貴な神がいることを。
その神が、亡き母を慕って根の国に行きたいと言ったことを。
加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬ)
『神々の祖であり熊野大神である霊妙なる食の神』という意味のご尊名で称えられる御方がいらっしゃることを。
素戔嗚尊って言うんですけどね。
そして、
神武が《豊/トヨ》のミケヌ。
スサノオ様が《櫛/クシ》のミケヌ、と来たか。
この考察は、またの機会に。

2022.
12.
24
山幸彦と豊玉姫の別れとよく似ているというのは、第11代垂仁天皇の御代、《狭穂彦王の叛乱》と呼ばれる事件です。
また、このエピソードは、ニニギ尊×コノハナサクヤヒメ、ウガヤフキアエズ×玉依姫、の時代のお話とも不思議なくらい被っています。
記紀どちらも大筋は同じなのですが、古事記の方がよく纏まっていると思うので、《狭穂彦王の叛乱》の要点を書き出してみましょう。
尚、サホヒコ&サホヒメ兄妹の漢字表記は日本書紀に寄せます。(読み易いので)
~以下要約~
垂仁天皇が狭穂姫を皇后となさっていた時、狭穂姫の同母の兄の狭穂彦が妹に尋ねた。
兄「夫の天皇と兄の自分とでは、どちらを愛しく思うか」 ←!?
妹「兄上を愛しく思います」 ←!!!
すると狭穂彦は反逆を計画して、
兄「貴女が本当に私を愛しいと思うなら、私と貴女とで天下を治めよう」 ←既に第11代垂仁天皇の御代なのに、何故かヒメヒコ制を知っていて誘う兄
兄はすぐに幾度も鍛えた紐小刀(短刀/随分念入りに作ったんですね。呪いでもかけたんでしょうか)を作り、妹狭穂姫に与えて、その短刀で天皇の寝首を掻くように言います。
何も知らない垂仁天皇は、皇后(狭穂姫)のお膝を枕としてねんね。
狭穂姫は、天皇の首を刺そうとして、その手を三度も振り上げたけれども、悲しくて泣いてしまい出来ません。
垂仁帝は目覚めると、不思議な夢を見たと言いました。
その夢は、まさに狭穂彦の謀反を暗示していると理解した姫は、とうとう垂仁帝に打ち明けます。
垂仁帝は、貴女に罪は無いと言い、危うく騙し討ちに遭うところだったと狭穂彦を討ちに行きます。
この時、狭穂姫は垂仁帝の子を身篭もっていたのですが、なんと兄狭穂彦の稲城へ去ってしまうのです。
※ 稲城(いなき/敵に急襲された場合など、藁の束を家の周囲に積み上げて胸壁とし矢や石などを防いだもの)
当然、皇后狭穂姫を寵愛して止まない垂仁帝は、どうにかして狭穂姫を取り戻そうとします。
でも、もう帝の元には戻らないと決めた狭穂姫の意志は固く、自分が産んだ皇子だけはと、垂仁帝に託します。
負けを悟った狭穂彦の稲城には、既に火が放たれていました。
別れのシーンで天皇は愛する后に問います。
垂仁帝「すべて子の名は必ず母親が名づけるものであるが、何とこの子の名前をつけたらよかろうか」 ←普通に読めば「我が子(と私)には貴女が必要なのだ、戻って来てくれ」という意味だと思うのだが
狭穂姫「今、火が稲城を焼く時に火(ヒ→ホ)の中でお生まれになりました。だからその御子の名はホムチワケと名づけましょう」 ←マジレス&まさかの火中出産
垂仁天皇は続けて狭穂姫に問います。誰が皇子を養育するのか、誰を私の愛しい后にすれば良いというのか(原文が官能的なので意訳)と聞き、現代の感覚では「貴女でなければ駄目なのだ!どうか戻って来てくれ!!」という意味にしか聞こえないのですが、姫は一貫してマジレスで乳母に養育させましょう、後妻は誰々がよろしいでしょう、と返事をして皇子の名前・養育係・次の妻という問題を全部解決(?)させてから、燃えさかる城の中で兄・狭穂彦と運命を共にするのです。
この時のふたりの会話は、何とかして狭穂姫を救い出そうとして垂仁帝が時間稼ぎをしていたと見られているらしいのですが、私は違うと思っています。
当時の重要な決まりごとを、記紀がこのシーンで書き残したのでしょう。
※ 母が子の名を付ける、高貴な身分の場合は母が養育係を定める、死にゆく本妻が後妻を遺言することがある、等
記紀共に、狭穂彦に「兄と帝とどちらを愛しているか」と問われた狭穂姫が、どういう意味かわからなくて「お兄様かしら?」と取り敢えず答えてしまったら謀反に誘われてしまった、だから帝も狭穂姫は悪くないのだと言った、などと庇っていますが、何だかんだ言って狭穂姫は兄の元へ走っているので、本命は兄だったと思われます。
狭穂姫なりに情が移っていて天皇を殺せなかったけれども、三度も短刀を振り上げているし、基本的に狭穂姫の心は兄にあり、これは同母の兄妹の悲恋の物語です。
※ でも短い間でも共に生きて共に死んだ、ドラマチックなメリバとも言える。例えば
狭穂姫「お兄様、申し訳ございません。私がお役目を果たせなかったばかりに…」
狭穂彦「もうよいのだ、心優しい妹よ。愛しい貴女と共に逝けるのならば、悔いは無い」
狭穂姫「私も同じ気持ちです、お兄様。共に常世の国へ参りましょう」
……とか何とか言ってたんだよきっと!!(←物書きの妄想癖)
この時に生まれたホムチワケは、重要な祟りのエピソードを持つ皇子で、似た名前に応神天皇の和風諡号があったり、上宮紀では継体天皇の先祖として凡牟都和希王(ほむつわけのみこ。要するにイコール応神)と記されているので色々秘密がある模様で、記紀としては皇后が同母兄と共にヒメヒコ制を企み禁忌の恋を全うしましたとか書く訳にはいかなかったんだと思います。
(つづく)
また、このエピソードは、ニニギ尊×コノハナサクヤヒメ、ウガヤフキアエズ×玉依姫、の時代のお話とも不思議なくらい被っています。
記紀どちらも大筋は同じなのですが、古事記の方がよく纏まっていると思うので、《狭穂彦王の叛乱》の要点を書き出してみましょう。
尚、サホヒコ&サホヒメ兄妹の漢字表記は日本書紀に寄せます。(読み易いので)
~以下要約~
垂仁天皇が狭穂姫を皇后となさっていた時、狭穂姫の同母の兄の狭穂彦が妹に尋ねた。
兄「夫の天皇と兄の自分とでは、どちらを愛しく思うか」 ←!?
妹「兄上を愛しく思います」 ←!!!
すると狭穂彦は反逆を計画して、
兄「貴女が本当に私を愛しいと思うなら、私と貴女とで天下を治めよう」 ←既に第11代垂仁天皇の御代なのに、何故かヒメヒコ制を知っていて誘う兄
兄はすぐに幾度も鍛えた紐小刀(短刀/随分念入りに作ったんですね。呪いでもかけたんでしょうか)を作り、妹狭穂姫に与えて、その短刀で天皇の寝首を掻くように言います。
何も知らない垂仁天皇は、皇后(狭穂姫)のお膝を枕としてねんね。
狭穂姫は、天皇の首を刺そうとして、その手を三度も振り上げたけれども、悲しくて泣いてしまい出来ません。
垂仁帝は目覚めると、不思議な夢を見たと言いました。
その夢は、まさに狭穂彦の謀反を暗示していると理解した姫は、とうとう垂仁帝に打ち明けます。
垂仁帝は、貴女に罪は無いと言い、危うく騙し討ちに遭うところだったと狭穂彦を討ちに行きます。
この時、狭穂姫は垂仁帝の子を身篭もっていたのですが、なんと兄狭穂彦の稲城へ去ってしまうのです。
※ 稲城(いなき/敵に急襲された場合など、藁の束を家の周囲に積み上げて胸壁とし矢や石などを防いだもの)
当然、皇后狭穂姫を寵愛して止まない垂仁帝は、どうにかして狭穂姫を取り戻そうとします。
でも、もう帝の元には戻らないと決めた狭穂姫の意志は固く、自分が産んだ皇子だけはと、垂仁帝に託します。
負けを悟った狭穂彦の稲城には、既に火が放たれていました。
別れのシーンで天皇は愛する后に問います。
垂仁帝「すべて子の名は必ず母親が名づけるものであるが、何とこの子の名前をつけたらよかろうか」 ←普通に読めば「我が子(と私)には貴女が必要なのだ、戻って来てくれ」という意味だと思うのだが
狭穂姫「今、火が稲城を焼く時に火(ヒ→ホ)の中でお生まれになりました。だからその御子の名はホムチワケと名づけましょう」 ←マジレス&まさかの火中出産
垂仁天皇は続けて狭穂姫に問います。誰が皇子を養育するのか、誰を私の愛しい后にすれば良いというのか(原文が官能的なので意訳)と聞き、現代の感覚では「貴女でなければ駄目なのだ!どうか戻って来てくれ!!」という意味にしか聞こえないのですが、姫は一貫してマジレスで乳母に養育させましょう、後妻は誰々がよろしいでしょう、と返事をして皇子の名前・養育係・次の妻という問題を全部解決(?)させてから、燃えさかる城の中で兄・狭穂彦と運命を共にするのです。
この時のふたりの会話は、何とかして狭穂姫を救い出そうとして垂仁帝が時間稼ぎをしていたと見られているらしいのですが、私は違うと思っています。
当時の重要な決まりごとを、記紀がこのシーンで書き残したのでしょう。
※ 母が子の名を付ける、高貴な身分の場合は母が養育係を定める、死にゆく本妻が後妻を遺言することがある、等
記紀共に、狭穂彦に「兄と帝とどちらを愛しているか」と問われた狭穂姫が、どういう意味かわからなくて「お兄様かしら?」と取り敢えず答えてしまったら謀反に誘われてしまった、だから帝も狭穂姫は悪くないのだと言った、などと庇っていますが、何だかんだ言って狭穂姫は兄の元へ走っているので、本命は兄だったと思われます。
狭穂姫なりに情が移っていて天皇を殺せなかったけれども、三度も短刀を振り上げているし、基本的に狭穂姫の心は兄にあり、これは同母の兄妹の悲恋の物語です。
※ でも短い間でも共に生きて共に死んだ、ドラマチックなメリバとも言える。例えば
狭穂姫「お兄様、申し訳ございません。私がお役目を果たせなかったばかりに…」
狭穂彦「もうよいのだ、心優しい妹よ。愛しい貴女と共に逝けるのならば、悔いは無い」
狭穂姫「私も同じ気持ちです、お兄様。共に常世の国へ参りましょう」
……とか何とか言ってたんだよきっと!!(←物書きの妄想癖)
この時に生まれたホムチワケは、重要な祟りのエピソードを持つ皇子で、似た名前に応神天皇の和風諡号があったり、上宮紀では継体天皇の先祖として凡牟都和希王(ほむつわけのみこ。要するにイコール応神)と記されているので色々秘密がある模様で、記紀としては皇后が同母兄と共にヒメヒコ制を企み禁忌の恋を全うしましたとか書く訳にはいかなかったんだと思います。
(つづく)

2022.
12.
23
今回のお話は、『歴史』カテゴリに入れようと思います。
古代日本にあって、姉もしくは妹という存在は、彼女たちの兄弟にとってとても重要で神聖な存在でした。
というのは、姉妹が兄弟に神秘的な力を授けてくれる、という信仰があったからです。
その信仰の延長線上にあるのが、男女神ペアで祀られていたはずの女神の方が迫害されるという現象です。
有名どころでは瀬織津姫様ですね。ネットの普及で封印どころか大人気の女神様に返り咲くことが出来て何よりです。
私の地元では、そのような《神隠し》からまだ出て来られない女神様がいらっしゃいます。県内に3つもある『志波姫神社』から志波姫様の名が無くなり、祭神がサクヤヒメやウズメ姐さんに入れ替えられています。
上書きするなら天孫サイドの女神が良いということなのでしょう。
ヤマト朝廷にとって《まつろわぬ者》というのは蛮族であり、彼らを守る地主神は脅威であり、絶対に葬りたいのです。
でも、丸ごと打ち消したらその蛮族が怒り暴れそうなので、取り敢えず姫神を消すのです。
何故男神ではなく女神の方がターゲットになるかというと、女神が男神に力を与える存在であるからでしょう。
つまり、女神を打ち消しついでに、男神の力をも削いでしまう、というやり方です。
私は、魏志倭人伝の記述はあまり当てにならないと思っていますが、それでも女王卑弥呼の死後に男王だけで治めようとしたら国が乱れたので、卑弥呼の宗女・トヨを女王に立てたら国が鎮まった、という話にはリアリティを感じます。
トヨを共に立てた、となっていますが、戦乱状態で会議して合意、なんて出来ないでしょうから、男王がトヨを共同統治者にして、女王トヨを男王よりも格上に据えたのでしょう。
そのくらい、巫女は重要な存在で、神懸かりするというのは巫女が神そのものになると見なしていたのだと思います。
権力を持つ家に生まれた兄弟姉妹は、ペアとなってヒメヒコ制で統治をしていました。例えば
アシナヅチ&テナヅチ(夫婦でもある)
長髄彦(別名トミビコ)&長髄姫(トミヤビメ)
大屋毘古&大屋津比売
このように、同じ名前を持っているヒメヒコは同母の兄妹(姉弟)である可能性が高いです。
何故なら、通い婚なので夫は『やって来る』存在であって、余程寵愛を受けている妻以外は夫は夜しか来ないし、基本的に子供は母親の家系に属していたであろうからです。
必然的に、子供の名付け親は母親になります。
この風習を感じさせるのが、山幸彦と豊玉姫の別れの場面です。(日本書紀異文3)
山幸彦「子の名前を何とつけたら良いだろうか?」
豊玉姫「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)とつけましょう」
そして豊玉姫は海へと去って行き、ふたりは二度と会うことはありませんでした。
…というのが海幸山幸の昔話のエンドです。
実は、これとよく似た、且つもっと具体的なエピソードがあります。
神代ではなく、第11代垂仁天皇と皇后・狭穂姫(沙本毘売/さほひめ)の別れのエピソードで、この時代になってもまだ、「子供の名前は母親が付ける」というルールが存在していたことが記されています。
(つづく)
古代日本にあって、姉もしくは妹という存在は、彼女たちの兄弟にとってとても重要で神聖な存在でした。
というのは、姉妹が兄弟に神秘的な力を授けてくれる、という信仰があったからです。
その信仰の延長線上にあるのが、男女神ペアで祀られていたはずの女神の方が迫害されるという現象です。
有名どころでは瀬織津姫様ですね。ネットの普及で封印どころか大人気の女神様に返り咲くことが出来て何よりです。
私の地元では、そのような《神隠し》からまだ出て来られない女神様がいらっしゃいます。県内に3つもある『志波姫神社』から志波姫様の名が無くなり、祭神がサクヤヒメやウズメ姐さんに入れ替えられています。
上書きするなら天孫サイドの女神が良いということなのでしょう。
ヤマト朝廷にとって《まつろわぬ者》というのは蛮族であり、彼らを守る地主神は脅威であり、絶対に葬りたいのです。
でも、丸ごと打ち消したらその蛮族が怒り暴れそうなので、取り敢えず姫神を消すのです。
何故男神ではなく女神の方がターゲットになるかというと、女神が男神に力を与える存在であるからでしょう。
つまり、女神を打ち消しついでに、男神の力をも削いでしまう、というやり方です。
私は、魏志倭人伝の記述はあまり当てにならないと思っていますが、それでも女王卑弥呼の死後に男王だけで治めようとしたら国が乱れたので、卑弥呼の宗女・トヨを女王に立てたら国が鎮まった、という話にはリアリティを感じます。
トヨを共に立てた、となっていますが、戦乱状態で会議して合意、なんて出来ないでしょうから、男王がトヨを共同統治者にして、女王トヨを男王よりも格上に据えたのでしょう。
そのくらい、巫女は重要な存在で、神懸かりするというのは巫女が神そのものになると見なしていたのだと思います。
権力を持つ家に生まれた兄弟姉妹は、ペアとなってヒメヒコ制で統治をしていました。例えば
アシナヅチ&テナヅチ(夫婦でもある)
長髄彦(別名トミビコ)&長髄姫(トミヤビメ)
大屋毘古&大屋津比売
このように、同じ名前を持っているヒメヒコは同母の兄妹(姉弟)である可能性が高いです。
何故なら、通い婚なので夫は『やって来る』存在であって、余程寵愛を受けている妻以外は夫は夜しか来ないし、基本的に子供は母親の家系に属していたであろうからです。
必然的に、子供の名付け親は母親になります。
この風習を感じさせるのが、山幸彦と豊玉姫の別れの場面です。(日本書紀異文3)
山幸彦「子の名前を何とつけたら良いだろうか?」
豊玉姫「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)とつけましょう」
そして豊玉姫は海へと去って行き、ふたりは二度と会うことはありませんでした。
…というのが海幸山幸の昔話のエンドです。
実は、これとよく似た、且つもっと具体的なエピソードがあります。
神代ではなく、第11代垂仁天皇と皇后・狭穂姫(沙本毘売/さほひめ)の別れのエピソードで、この時代になってもまだ、「子供の名前は母親が付ける」というルールが存在していたことが記されています。
(つづく)

2022.
12.
22
~注意喚起~
ウガヤフキアエズの存在を信じている方は、静かにページを閉じて下さい。
不快になっても当方は責任を負いません。
コメントもご遠慮下さい。
---------------------------
何故、ウガヤフキアエズが消えるのか。
Wikipediaを引用しますが、
>『日本書紀』によれば、鸕鶿草葺不合尊が誕生した産屋は全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。これにより、母親の豊玉姫が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあえず)」と名付けたという。
>事績は『日本書紀』『古事記』ともになく、系譜上のみの存在である。(引用ここまで)
まず、初代天皇の父をウガヤフキアエズなんて可哀想な名前にします?
ほかの神々には、これでもかと言うほど別称異称尊号があるんだから、産まれたときの事情なんて脇に置いて、もっとご立派な名を付けて然るべきでしょう。本当に神武天皇の父だというのなら、もっとリスペクトしろよと思います。
それさえせずに、ただ玉依姫を娶ってイワレヒコを含む4人の兄弟を設けたというエピソードしか出していない。
この存在感の無さは、一体何なのか。
それは、存在した人物じゃないから。に尽きます。
ある意味、本当の神様だとも言えます。
皇統の歴史とは全く関係無く、地域伝承のような神話に登場し信仰されてきた神様。
どうして、その神様を皇統の系譜に入れる必要があったのか?
それは、まさに『山幸彦と海幸彦』という皇統とは無関係に存在していた昔話を神話に取り込んでしまったからです。
その目的は、ホオリ(ヒコホデミミ尊)をアゲアゲして、天火明/火照(ニギハヤヒ)と火須勢理(不明だが、皇統にとっては非常に邪魔な敵勢力。実際に隼斗の可能性もある)は皇統よりも格下だという話を展開したかったからです。
でも、『山幸彦と海幸彦』という昔話は、
1.山幸彦(弟)が海幸彦(兄)の釣り針をなくして、許して貰えなかった。
2.海の神の元へ行き、その娘(豊玉姫)と結ばれた。
3.ウハウハ3年楽しく暮らすも、地上が恋しくなって戻り、兄・海幸彦をとことんとっちめた。
4.豊玉姫は身篭もっており、地上でお産をするためにやって来た。
5.そのお産を絶対に見ないで欲しいと豊玉姫が頼んだのに、山幸彦は出来心で覗いてしまった。
6.豊玉姫の正体はワニ(鮫のこと)で、お産で悶え這い回っているところを見られた事を恥じ、夫を恨んだ。
7.子を産み落とすも、豊玉姫は赤子を渚に捨てて海の底に帰ってしまい、二度と会うことは無かった。
…というここまでが、昔話のストーリーだと思います。
「いい子のみんな、約束は守りましょうね!」というオチでしょうか。
つまり、ヒコホデミミ尊を山幸彦に当てはめて活躍させ、兄を惨めに負けさせて(実際には兄弟じゃない可能性もある。とにかく敵)雑魚に貶めるも、本来の山幸海幸のストーリー沿いに行くと、豊玉姫を失うストーリーになってしまいます。
でも、「だから海神の後ろ盾を失いました」、では格好が付きません。
だから、もうひとり海の女神・玉依姫を召喚して(豊玉姫のダミー)、ウガヤフキアエズの養育をさせたついでに妃の座も演じて貰うという、つじつま合わせをしなければいけなくなってしまったのです。
狭穂彦の反乱のストーリーでは、「火中出産」「皇子を天皇に託す」「皇子の名前を付ける」「自分が去る代わりに養育係を決める」「次の皇后を指名する」というのを狭穂姫ひとりで片付けているのですが、神代ではこれらの項目クリアするまでにニニギ尊・山幸彦・ウガヤフキアエズの3代に引き伸ばして語っているのです。
整理すると、地神五代は、
オオヒルメ→ニニギ尊→ヒコホデミミ尊(=神武/山幸彦と同一でウガヤフキアエズのエピソードを含む)という地神三代まで短縮されます。
尤も、地神五代は神武天皇を含まない(ウガヤフキアエズまで)の系譜ですので、地神二代になってしまったのかもしれませんが。
私は、出雲の神の系譜はもっと長いかも知れない、例えばスサノオが出雲入りする前に《オオナムチ》の称号を持つ人物が何人か居たとか、スサノオ自身も何人かいたかもしれない、という可能性も考えています。まだ考察し切れていませんが。
※ この場合、最後のスサノオの娘・スセリヒメと最後のオオナムチが《国譲り》の悲劇の王となります
でも、女神アマテラスから神武に至る系譜は、実はそんなに長くない。
長くないのに長く見せたかったのでしょう。
遠く遙かな神代から、女神アマテラスから何代も続いてきた正当なる太陽神の末裔が、神武天皇だと。
それでも、女神アマテラスの孫が神武なら、これはこれで天孫降臨です。
スサノオに負けて、嫡妻ではなく《夫人》となるという屈辱に打ち震えたオオヒルメの復讐は、孫の代で達成されたのかもしれません。
ウガヤフキアエズの存在を信じている方は、静かにページを閉じて下さい。
不快になっても当方は責任を負いません。
コメントもご遠慮下さい。
---------------------------
何故、ウガヤフキアエズが消えるのか。
Wikipediaを引用しますが、
>『日本書紀』によれば、鸕鶿草葺不合尊が誕生した産屋は全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。これにより、母親の豊玉姫が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあえず)」と名付けたという。
>事績は『日本書紀』『古事記』ともになく、系譜上のみの存在である。(引用ここまで)
まず、初代天皇の父をウガヤフキアエズなんて可哀想な名前にします?
ほかの神々には、これでもかと言うほど別称異称尊号があるんだから、産まれたときの事情なんて脇に置いて、もっとご立派な名を付けて然るべきでしょう。本当に神武天皇の父だというのなら、もっとリスペクトしろよと思います。
それさえせずに、ただ玉依姫を娶ってイワレヒコを含む4人の兄弟を設けたというエピソードしか出していない。
この存在感の無さは、一体何なのか。
それは、存在した人物じゃないから。に尽きます。
ある意味、本当の神様だとも言えます。
皇統の歴史とは全く関係無く、地域伝承のような神話に登場し信仰されてきた神様。
どうして、その神様を皇統の系譜に入れる必要があったのか?
それは、まさに『山幸彦と海幸彦』という皇統とは無関係に存在していた昔話を神話に取り込んでしまったからです。
その目的は、ホオリ(ヒコホデミミ尊)をアゲアゲして、天火明/火照(ニギハヤヒ)と火須勢理(不明だが、皇統にとっては非常に邪魔な敵勢力。実際に隼斗の可能性もある)は皇統よりも格下だという話を展開したかったからです。
でも、『山幸彦と海幸彦』という昔話は、
1.山幸彦(弟)が海幸彦(兄)の釣り針をなくして、許して貰えなかった。
2.海の神の元へ行き、その娘(豊玉姫)と結ばれた。
3.ウハウハ3年楽しく暮らすも、地上が恋しくなって戻り、兄・海幸彦をとことんとっちめた。
4.豊玉姫は身篭もっており、地上でお産をするためにやって来た。
5.そのお産を絶対に見ないで欲しいと豊玉姫が頼んだのに、山幸彦は出来心で覗いてしまった。
6.豊玉姫の正体はワニ(鮫のこと)で、お産で悶え這い回っているところを見られた事を恥じ、夫を恨んだ。
7.子を産み落とすも、豊玉姫は赤子を渚に捨てて海の底に帰ってしまい、二度と会うことは無かった。
…というここまでが、昔話のストーリーだと思います。
「いい子のみんな、約束は守りましょうね!」というオチでしょうか。
つまり、ヒコホデミミ尊を山幸彦に当てはめて活躍させ、兄を惨めに負けさせて(実際には兄弟じゃない可能性もある。とにかく敵)雑魚に貶めるも、本来の山幸海幸のストーリー沿いに行くと、豊玉姫を失うストーリーになってしまいます。
でも、「だから海神の後ろ盾を失いました」、では格好が付きません。
だから、もうひとり海の女神・玉依姫を召喚して(豊玉姫のダミー)、ウガヤフキアエズの養育をさせたついでに妃の座も演じて貰うという、つじつま合わせをしなければいけなくなってしまったのです。
狭穂彦の反乱のストーリーでは、「火中出産」「皇子を天皇に託す」「皇子の名前を付ける」「自分が去る代わりに養育係を決める」「次の皇后を指名する」というのを狭穂姫ひとりで片付けているのですが、神代ではこれらの項目クリアするまでにニニギ尊・山幸彦・ウガヤフキアエズの3代に引き伸ばして語っているのです。
整理すると、地神五代は、
オオヒルメ→ニニギ尊→ヒコホデミミ尊(=神武/山幸彦と同一でウガヤフキアエズのエピソードを含む)という地神三代まで短縮されます。
尤も、地神五代は神武天皇を含まない(ウガヤフキアエズまで)の系譜ですので、地神二代になってしまったのかもしれませんが。
私は、出雲の神の系譜はもっと長いかも知れない、例えばスサノオが出雲入りする前に《オオナムチ》の称号を持つ人物が何人か居たとか、スサノオ自身も何人かいたかもしれない、という可能性も考えています。まだ考察し切れていませんが。
※ この場合、最後のスサノオの娘・スセリヒメと最後のオオナムチが《国譲り》の悲劇の王となります
でも、女神アマテラスから神武に至る系譜は、実はそんなに長くない。
長くないのに長く見せたかったのでしょう。
遠く遙かな神代から、女神アマテラスから何代も続いてきた正当なる太陽神の末裔が、神武天皇だと。
それでも、女神アマテラスの孫が神武なら、これはこれで天孫降臨です。
スサノオに負けて、嫡妻ではなく《夫人》となるという屈辱に打ち震えたオオヒルメの復讐は、孫の代で達成されたのかもしれません。
