2022.
08.
18
出雲の流れを引く皇后は第三代安寧天皇の時代も続きます。
皇后は鴨王(かものおおきみ。って凄い名前だな!父は皇子かよ的な。ちなみに父は大物主or都味歯八重事代主で、異名は櫛御方命)の娘、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)。
初期天皇達の皇后については、日本書紀の一書に『綏靖天皇から孝安天皇の5代の皇妃は「磯城県主の女」となっており、『書紀』本文では、孝霊天皇の皇后も該当することが次の孝元天皇の記述から分かる。』(by wiki)
※ 第八代孝元天皇の母=七代孝霊天皇皇后は磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命(細比売命)
かなり長い間、出雲&旧大和系の姫を皇后にして、その間は皇后が女王級という状態が続いたことになります。
そうでないと天皇(大王)になれなかった時代が長く続いたのです。
欠史八代とはいいますが、何代にも渡って后の出自に出雲に連なる巫女姫を求めたというのは、リアリティを感じる話だなと思います。
そして、現在女性天皇とされているのは、一応10代8人(何故かつて天皇とも言われた神功皇后と、いまひとり宮内庁曰く『履中天皇々孫女 飯豊天皇』が数に入っていないのかは謎)ですが、うち8代6人は31・33・35・41・43・44・46・48代、と明日香~奈良時代に集中しています。(残りふたりは江戸時代で中継ぎ的)
その、女帝が多く誕生した時代の最後は48代称徳天皇(孝謙天皇)です。
この女帝が紛う事なき暴君で神聖とは真逆の悪女だったので、もう女の帝は懲り懲りだ的な空気が漂い、女帝は避けるべしという不文律が約860年間、奈良時代から江戸時代に渡る不文律となったのかもしれません。
孝謙天皇が称徳天皇として重祚した時、《出家したまま即位した初めての天皇》になりました。
相変わらず銅鏡を侍らせたまま。
彼女に、神が降りることは無かったでしょう。
僧への恋に現を抜かし政を乱し、罪無き淳仁天皇を淡路廃帝とし、銅鏡を天皇にすべしという神託は虚偽であるという、宇佐八幡宮の正しいお告げに激怒した愚かな女帝が、自ら女帝達の時代を終わらせたのです。
或いは、宇佐八幡宮(現在の宇佐神宮)の神が、終わらせたのでしょうか。
宇佐神宮には以下の神々が御座します。
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)
皇后は鴨王(かものおおきみ。って凄い名前だな!父は皇子かよ的な。ちなみに父は大物主or都味歯八重事代主で、異名は櫛御方命)の娘、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)。
初期天皇達の皇后については、日本書紀の一書に『綏靖天皇から孝安天皇の5代の皇妃は「磯城県主の女」となっており、『書紀』本文では、孝霊天皇の皇后も該当することが次の孝元天皇の記述から分かる。』(by wiki)
※ 第八代孝元天皇の母=七代孝霊天皇皇后は磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命(細比売命)
かなり長い間、出雲&旧大和系の姫を皇后にして、その間は皇后が女王級という状態が続いたことになります。
そうでないと天皇(大王)になれなかった時代が長く続いたのです。
欠史八代とはいいますが、何代にも渡って后の出自に出雲に連なる巫女姫を求めたというのは、リアリティを感じる話だなと思います。
そして、現在女性天皇とされているのは、一応10代8人(何故かつて天皇とも言われた神功皇后と、いまひとり宮内庁曰く『履中天皇々孫女 飯豊天皇』が数に入っていないのかは謎)ですが、うち8代6人は31・33・35・41・43・44・46・48代、と明日香~奈良時代に集中しています。(残りふたりは江戸時代で中継ぎ的)
その、女帝が多く誕生した時代の最後は48代称徳天皇(孝謙天皇)です。
この女帝が紛う事なき暴君で神聖とは真逆の悪女だったので、もう女の帝は懲り懲りだ的な空気が漂い、女帝は避けるべしという不文律が約860年間、奈良時代から江戸時代に渡る不文律となったのかもしれません。
孝謙天皇が称徳天皇として重祚した時、《出家したまま即位した初めての天皇》になりました。
相変わらず銅鏡を侍らせたまま。
彼女に、神が降りることは無かったでしょう。
僧への恋に現を抜かし政を乱し、罪無き淳仁天皇を淡路廃帝とし、銅鏡を天皇にすべしという神託は虚偽であるという、宇佐八幡宮の正しいお告げに激怒した愚かな女帝が、自ら女帝達の時代を終わらせたのです。
或いは、宇佐八幡宮(現在の宇佐神宮)の神が、終わらせたのでしょうか。
宇佐神宮には以下の神々が御座します。
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)

2022.
08.
17
実は、ヒメタタライスズヒメが女王だった、というのが卑弥呼=ヒメタタライスズヒメ説の根拠になっています。
この時のヒメタタライスズヒメは、『夫がいない』。
卑弥呼に夫はいないという記述から、何となく独身のおばあさんっぽいイメージがありますが、既に夫に先立たれている未亡人、という解釈も出来る訳です。
この場合じゃあトヨは誰?に対する答えは、第四代懿徳天皇の皇后、天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)になります。
この場合、神武・綏靖・安寧の三代の天皇は対外的には『男弟』であって、その間の女王は未亡人のヒメタタライスズヒメ=卑弥呼だった。
卑弥呼女王の死後、男王が国を治めようとしたが国が乱れ、天豊津媛命が女王の座に就いてやっと国が治まった。…という流れです。
あくまでも、邪馬台国の謎の答えをこの時代に求めるならば、の話ですが。
出雲系の巫女姫がいないと、神武はヤマトの大王にはなれなかったのです。
出雲と旧ヤマトのヒメヒコ制が崩れて夫婦統治になっても、《イチキシマヒメ》の役割を持つ巫女王を頂く事なく格下の男王だけで好き勝手すると国が乱れるのは邪馬台国に限った話ではありません。
そのような時代が存在した証のように、ニニギから神武の流れは必ず王の娘を娶っています。
ニニギの妻はヤマツミの三姉妹の末娘=次期女王であり、山幸彦の妻はワタツミの娘・豊玉姫であり、ウガヤフキアエズの妻はまたしてもワタツミの娘。
というか、母・豊玉姫の妹の玉依姫=つまり自分の叔母で、名前からして巫女姫。
そこまでして天孫族はワタツミの勢力の後ろ盾が欲しかったのでしょう。
形式上であってもヒメタタライスズヒメは神武よりも格上の女王で、二代綏靖天皇よりもおそらく皇后・五十鈴依媛(イスズヨリヒメ。ヒメタタライスズヒメの妹)が重要な女王です。
綏靖帝もウガヤフキアエズと同じことをしているんですね。叔母を妻にしてまで出雲・旧大和系を取り込もうとした。
当時重要なのは、后=女王の血筋であり、その《敗者の血筋》を積極的に求めたのは《勝者》であるはずの天孫族の子孫たちの方です。
これは、後世に天皇の元へ后を送り込むことで権力を掌握していった藤原氏とその姫達とは、全く違う在り方だと思います。
(つづく)
この時のヒメタタライスズヒメは、『夫がいない』。
卑弥呼に夫はいないという記述から、何となく独身のおばあさんっぽいイメージがありますが、既に夫に先立たれている未亡人、という解釈も出来る訳です。
この場合じゃあトヨは誰?に対する答えは、第四代懿徳天皇の皇后、天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)になります。
この場合、神武・綏靖・安寧の三代の天皇は対外的には『男弟』であって、その間の女王は未亡人のヒメタタライスズヒメ=卑弥呼だった。
卑弥呼女王の死後、男王が国を治めようとしたが国が乱れ、天豊津媛命が女王の座に就いてやっと国が治まった。…という流れです。
あくまでも、邪馬台国の謎の答えをこの時代に求めるならば、の話ですが。
出雲系の巫女姫がいないと、神武はヤマトの大王にはなれなかったのです。
出雲と旧ヤマトのヒメヒコ制が崩れて夫婦統治になっても、《イチキシマヒメ》の役割を持つ巫女王を頂く事なく格下の男王だけで好き勝手すると国が乱れるのは邪馬台国に限った話ではありません。
そのような時代が存在した証のように、ニニギから神武の流れは必ず王の娘を娶っています。
ニニギの妻はヤマツミの三姉妹の末娘=次期女王であり、山幸彦の妻はワタツミの娘・豊玉姫であり、ウガヤフキアエズの妻はまたしてもワタツミの娘。
というか、母・豊玉姫の妹の玉依姫=つまり自分の叔母で、名前からして巫女姫。
そこまでして天孫族はワタツミの勢力の後ろ盾が欲しかったのでしょう。
形式上であってもヒメタタライスズヒメは神武よりも格上の女王で、二代綏靖天皇よりもおそらく皇后・五十鈴依媛(イスズヨリヒメ。ヒメタタライスズヒメの妹)が重要な女王です。
綏靖帝もウガヤフキアエズと同じことをしているんですね。叔母を妻にしてまで出雲・旧大和系を取り込もうとした。
当時重要なのは、后=女王の血筋であり、その《敗者の血筋》を積極的に求めたのは《勝者》であるはずの天孫族の子孫たちの方です。
これは、後世に天皇の元へ后を送り込むことで権力を掌握していった藤原氏とその姫達とは、全く違う在り方だと思います。
(つづく)

2022.
08.
16
天皇であって天皇ではない。
謎かけみたいな言い方をしてしまいましたので、説明します。
その時代は大王で、天皇は天武からでしょ?とかいう話じゃなくて、神武天皇は彼単体では大王にはなれなかったんです。
筑紫の日向で産まれ『15歳で立太子した』とありますが、何処の王に認められた立太子だよ。
ヒコホホデミ(神武)は吾平津媛(あひらつひめ)という次代の巫女姫を娶らなければ、日向の阿多の王候補にもなれなかったということです。
でも、45歳になったヒコホホデミは、兄や子を引き連れて各地へ侵攻開始。
そして、ヤマトを手に入れるとオッサンの癖に若き美女ヒメタタライスズヒメ(旧ヤマト=出雲の血筋)の巫女姫を皇后にしてヤマトの大王に即位しました。
自動的に、存命であれば三十年ヒコホホデミを支え続けたアヒラツヒメは后ではなく単なる夫人となり、今まで父を支え頑張って戦ってきたアヒラツヒメの息子達は庶子に転落します。
権力者としてはそれが普通だった時代だったことは理解していますが(オオナムチも子まで為したヤガミヒメを放り出してスセリヒメを嫡后にしてる)。
何なら私はスセリヒメ様を推しまくってるんですが。でも私、
出世すると糟糠の妻を捨ててセレブな女を後妻にする男って、カスだと思うんだよね。
この頃は天孫サイドにも末子相続ルールが残っていた(ニニギ~神武まで一貫して末子かひとりっ子)ので、皇后ヒメタタライスズヒメが産んだ末の息子が二代目の綏靖天皇となる。……前に、一悶着あります。
庶子に転落したタシギミミは、自分が大王に選ばれないのは我慢ならないと思ったのでしょう。
なんと、神武の未亡人・ヒメタタライスズヒメを妻にしました。
特に結婚式なんてものはなく、夜這い婚だったこの時代、ヒメタタライスズヒメは無理矢理に妻にさせられた、ことになります。
神武の片腕として、長く政務や軍事に携わってきた有能な男だったのかも知れませんし、オッサンの神武よりもタシギミミの方がヒメタタライスズヒメと歳が釣り合っていただろうとは思いますが、この一件は間違いなく
タシギミミがkz。
※ 今回言いたい放題だな自分。
でも、タシギミミはどうして義理の母と略奪婚しようなどと思い付いたのか?
義母が美人過ぎて横恋慕に思い詰めていたのか?
…かもしれませんが、タシギミミの一番の目的は自分が亡き父の跡目になることです。
《男王》である神武帝は崩御。でも、男王よりも格上の《女王》はまだ生きているという状況。
だから、
《女王》を手に入れた者が男王になれるという構図があった。
そして、タシギミミはその手を使って男王になろうとしたのです。
(つづく)
謎かけみたいな言い方をしてしまいましたので、説明します。
その時代は大王で、天皇は天武からでしょ?とかいう話じゃなくて、神武天皇は彼単体では大王にはなれなかったんです。
筑紫の日向で産まれ『15歳で立太子した』とありますが、何処の王に認められた立太子だよ。
ヒコホホデミ(神武)は吾平津媛(あひらつひめ)という次代の巫女姫を娶らなければ、日向の阿多の王候補にもなれなかったということです。
でも、45歳になったヒコホホデミは、兄や子を引き連れて各地へ侵攻開始。
そして、ヤマトを手に入れるとオッサンの癖に若き美女ヒメタタライスズヒメ(旧ヤマト=出雲の血筋)の巫女姫を皇后にしてヤマトの大王に即位しました。
自動的に、存命であれば三十年ヒコホホデミを支え続けたアヒラツヒメは后ではなく単なる夫人となり、今まで父を支え頑張って戦ってきたアヒラツヒメの息子達は庶子に転落します。
権力者としてはそれが普通だった時代だったことは理解していますが(オオナムチも子まで為したヤガミヒメを放り出してスセリヒメを嫡后にしてる)。
何なら私はスセリヒメ様を推しまくってるんですが。でも私、
出世すると糟糠の妻を捨ててセレブな女を後妻にする男って、カスだと思うんだよね。
この頃は天孫サイドにも末子相続ルールが残っていた(ニニギ~神武まで一貫して末子かひとりっ子)ので、皇后ヒメタタライスズヒメが産んだ末の息子が二代目の綏靖天皇となる。……前に、一悶着あります。
庶子に転落したタシギミミは、自分が大王に選ばれないのは我慢ならないと思ったのでしょう。
なんと、神武の未亡人・ヒメタタライスズヒメを妻にしました。
特に結婚式なんてものはなく、夜這い婚だったこの時代、ヒメタタライスズヒメは無理矢理に妻にさせられた、ことになります。
神武の片腕として、長く政務や軍事に携わってきた有能な男だったのかも知れませんし、オッサンの神武よりもタシギミミの方がヒメタタライスズヒメと歳が釣り合っていただろうとは思いますが、この一件は間違いなく
タシギミミがkz。
※ 今回言いたい放題だな自分。
でも、タシギミミはどうして義理の母と略奪婚しようなどと思い付いたのか?
義母が美人過ぎて横恋慕に思い詰めていたのか?
…かもしれませんが、タシギミミの一番の目的は自分が亡き父の跡目になることです。
《男王》である神武帝は崩御。でも、男王よりも格上の《女王》はまだ生きているという状況。
だから、
《女王》を手に入れた者が男王になれるという構図があった。
そして、タシギミミはその手を使って男王になろうとしたのです。
(つづく)

2022.
08.
15
仮に応神は孫だった説が当たっているとすると、それは失われた国記や帝紀に記されていて、おそらく日本書紀の編纂に口を出し放題だったはずの持統天皇は、それを知ることが出来る立場です。
持統天皇は息子の草壁皇子を天皇にする事が出来ぬまま亡くしてしまい、孫の軽皇子(本来は『王』だけど持統の意向で皇子扱い)を企みます。
記紀神話では、天照大御神という《女神》が皇祖神で、天孫降臨と呼ばれるように地上に降り立ったのは女神アマテラスの孫ニニギ尊で、何故かここからは男系による万世一系になる不思議。
これは、持統天皇が《孫》の軽皇子を天皇にするという前例のない野望を正当化する為に創作した神話、という説は結構有力視されていると思うんですけど、ひょっとする天孫降臨のモデルは神功皇后→応神天皇であり、神功皇后がアマテラスで応神天皇がニニギで、地上の正当な後継者は応神の子孫なのよ!的な話なのかもしれない。
だとしたら、持統帝は孫の軽皇子を天皇にするという異例について、思っていたんじゃないか。
仲哀×神功(祖父母が帝)→応神(孫)という前例が大昔にあるじゃろがい!!
という訳で、女帝といえば推古天皇が初の女帝と言われていますが、実は違う、と私は思っています。
まず、神功皇后は神功帝でしょう。
エピソード的に仲哀天皇は《男弟》を彷彿とさせる扱いです。
例えば、神功皇后に神降ろしさせる為に、仲哀天皇は琴を弾かせられたのです。それで出たお告げが、(仲哀天皇が欲しいと思った)九州なんて攻めても痩せた土地で得るものなんぞ無いから(神功が欲しい)朝鮮を攻めよ、という内容。
1年後に再度神降ろしをする事になったんですが、仲哀天皇は三韓征伐は気が乗らないので、天皇の代わりに武内宿禰が神降ろしの琴を弾いたのです。
何この、仲哀天皇に漂う下僕感?
そして、
琴を弾くの(天皇でもないのに)武内宿禰でもいいのかよ!
……というのが、第14代仲哀天皇の時代の不敬な出来事であり、神功皇后の無双女王っぷりです。
それほどに、巫女が言い出したら巫女が至上。そういう時代が存在したのでしょう。
いっそ、もっと遡って、初代まで行きましょう。万世一系の始まり・神武帝です。
多分、
神武帝は天皇であって天皇じゃありません。(私は私で不敬)
(つづく)
持統天皇は息子の草壁皇子を天皇にする事が出来ぬまま亡くしてしまい、孫の軽皇子(本来は『王』だけど持統の意向で皇子扱い)を企みます。
記紀神話では、天照大御神という《女神》が皇祖神で、天孫降臨と呼ばれるように地上に降り立ったのは女神アマテラスの孫ニニギ尊で、何故かここからは男系による万世一系になる不思議。
これは、持統天皇が《孫》の軽皇子を天皇にするという前例のない野望を正当化する為に創作した神話、という説は結構有力視されていると思うんですけど、ひょっとする天孫降臨のモデルは神功皇后→応神天皇であり、神功皇后がアマテラスで応神天皇がニニギで、地上の正当な後継者は応神の子孫なのよ!的な話なのかもしれない。
だとしたら、持統帝は孫の軽皇子を天皇にするという異例について、思っていたんじゃないか。
仲哀×神功(祖父母が帝)→応神(孫)という前例が大昔にあるじゃろがい!!
という訳で、女帝といえば推古天皇が初の女帝と言われていますが、実は違う、と私は思っています。
まず、神功皇后は神功帝でしょう。
エピソード的に仲哀天皇は《男弟》を彷彿とさせる扱いです。
例えば、神功皇后に神降ろしさせる為に、仲哀天皇は琴を弾かせられたのです。それで出たお告げが、(仲哀天皇が欲しいと思った)九州なんて攻めても痩せた土地で得るものなんぞ無いから(神功が欲しい)朝鮮を攻めよ、という内容。
1年後に再度神降ろしをする事になったんですが、仲哀天皇は三韓征伐は気が乗らないので、天皇の代わりに武内宿禰が神降ろしの琴を弾いたのです。
何この、仲哀天皇に漂う下僕感?
そして、
琴を弾くの(天皇でもないのに)武内宿禰でもいいのかよ!
……というのが、第14代仲哀天皇の時代の不敬な出来事であり、神功皇后の無双女王っぷりです。
それほどに、巫女が言い出したら巫女が至上。そういう時代が存在したのでしょう。
いっそ、もっと遡って、初代まで行きましょう。万世一系の始まり・神武帝です。
多分、
神武帝は天皇であって天皇じゃありません。(私は私で不敬)
(つづく)

2022.
08.
14
推古-聖徳時代に、神降ろしという巫女性が歴代の皇女達に受け継がれていたのかどうかわかりませんが、祟りを恐れた天皇から八咫鏡を押し付けられた倭姫が、天照大神に相応しい祭祀の場所を探し求めて流浪したように、後の世で未婚の皇女が斎宮や斎院として神社に送られたように、女性の持つ神秘性や神に仕えることの出来る特殊な力は長い間信じられており、それが令和の世でも黒田清子様に受け継がれているというのは、何とも気の遠くなるような話です。
今でこそ、黒田清子様は単に巫女としてお仕えになっているだけですが、女性天皇が続出した時代は、まだ《皇后》という地位に天皇と並ぶ何らかの権威が与えられていたのではないか。
単なる中継ぎにしては女帝達は結構能動的に動いているような気がします。
遡り、神功皇后という女傑がいらっしゃいますが、この方は歴代天皇に数えられていたこともあるのに、どうしてか外されました。
でも、エピソードを見る限り、力関係は 仲哀天皇<神功皇后 であるのが明らかです。
神功皇后の神懸かりのお告げに従わなかった罰に、仲哀天皇は命を落とします。
強烈なエピソードを持つ神功皇后と比べ、その漢風諡号のように仲哀天皇は目立たず可哀想な感じです。
そして、異様に長い妊娠期間の後にホムダワケ(応神天皇)を産み落とし、その後異様に長い期間摂政として君臨します。
いや、これもう女帝でしょ。
ヒメヒコの変形だとすると、ヒメが神功皇后で、ヒコが息子の応神天皇?
……な訳がない。妊娠期間が3年もあってたまるかよ!!
と3人産んだ私はキレそうです。
だって、このエピソードは神代じゃないんです。
神代は神武帝がヤマトを手に入れるところまでで、その先は《歴史》なんですから。
ところで、応神天皇には古事記にしか記載のない兄皇子がいらっしゃいまして、その方を品夜和気命(ほむやわけのみこと)と言います。
ホムヤワケは同母兄だというのに、何故天皇になれなかったのか?
その天皇になれなかった皇子を、どうして日本書紀は記さなかったのか?
多分これ、《兄皇子じゃなかったから》ですよね。
そして、《応神天皇は神功皇后の息子じゃないから》だと思います。
息子じゃないなら何よ、ってそれは、仲哀×皇后の《孫》なんじゃない?かと。
つまり、流れとしては仲哀天皇(父)→ホムヤワケ皇子(息子)→ホムダワケ王(孫・応神天皇)となれば、神功皇后の武内宿禰の不倫説は消えるし、男系男子の系譜も守られます。
じゃー何でホムヤワケ皇子の存在そのものを日本書紀は消しちゃったんだろ?という新たな謎が発生してしまうんですけども。
応神が孫ってことにすると、神功皇后&幼い応神の帰還を、仲哀天皇の真性息子・麛坂皇子と忍熊皇子がおとなしく認める訳がないですよね。
きっと弟でも揉めるのに、先帝の息子である俺達を差し置いて孫に継がせるのか!!とキレるのはまあ当然。
それに、子供であろうと孫であろうと、神功皇后が出産したのは海の向こうで、応神の血筋の正当性を証言出来る人間が誰もいません。
仲哀天皇が『朕の息子である』と断言してくれればそれで済んだのですが、仲哀天皇は既に崩御していて死人に口なし。
神功皇后は長い歴史の中で非常に人気のある御方で、お札の絵柄にもなった皇后(女帝かも知れないけど)でいらっしゃいます。
やはり、神懸かって勇ましい感じがいいんですかね。女性だけど英雄って感じで。
三韓征伐は成功したことになってますし、
人間って結局自分の国が勝ち組の時には戦争を賛美して侵略者を誉め讃えますよね。
私は、不敬ながらこの侵略者である女帝のことは好きではありません。
夫でありお腹の子の父親であるはずの仲哀天皇を粗末にしている感が満々で、武内宿禰との距離が近すぎる感は否めず、銅鏡と称徳天皇の上位互換みたいに見える。
男女の仲を勘ぐりたくなるのも人間です。
女帝はどうしても部下が異性である男性になりますから、そういうだらしない噂が流れないように気を付ける責任があると思います。
推古天皇が聖徳太子や蘇我馬子と怪しかったとかいう不名誉な噂は流れていません。ご立派な未亡人でいらしたのでしょう。
(つづく)
今でこそ、黒田清子様は単に巫女としてお仕えになっているだけですが、女性天皇が続出した時代は、まだ《皇后》という地位に天皇と並ぶ何らかの権威が与えられていたのではないか。
単なる中継ぎにしては女帝達は結構能動的に動いているような気がします。
遡り、神功皇后という女傑がいらっしゃいますが、この方は歴代天皇に数えられていたこともあるのに、どうしてか外されました。
でも、エピソードを見る限り、力関係は 仲哀天皇<神功皇后 であるのが明らかです。
神功皇后の神懸かりのお告げに従わなかった罰に、仲哀天皇は命を落とします。
強烈なエピソードを持つ神功皇后と比べ、その漢風諡号のように仲哀天皇は目立たず可哀想な感じです。
そして、異様に長い妊娠期間の後にホムダワケ(応神天皇)を産み落とし、その後異様に長い期間摂政として君臨します。
いや、これもう女帝でしょ。
ヒメヒコの変形だとすると、ヒメが神功皇后で、ヒコが息子の応神天皇?
……な訳がない。妊娠期間が3年もあってたまるかよ!!
と3人産んだ私はキレそうです。
だって、このエピソードは神代じゃないんです。
神代は神武帝がヤマトを手に入れるところまでで、その先は《歴史》なんですから。
ところで、応神天皇には古事記にしか記載のない兄皇子がいらっしゃいまして、その方を品夜和気命(ほむやわけのみこと)と言います。
ホムヤワケは同母兄だというのに、何故天皇になれなかったのか?
その天皇になれなかった皇子を、どうして日本書紀は記さなかったのか?
多分これ、《兄皇子じゃなかったから》ですよね。
そして、《応神天皇は神功皇后の息子じゃないから》だと思います。
息子じゃないなら何よ、ってそれは、仲哀×皇后の《孫》なんじゃない?かと。
つまり、流れとしては仲哀天皇(父)→ホムヤワケ皇子(息子)→ホムダワケ王(孫・応神天皇)となれば、神功皇后の武内宿禰の不倫説は消えるし、男系男子の系譜も守られます。
じゃー何でホムヤワケ皇子の存在そのものを日本書紀は消しちゃったんだろ?という新たな謎が発生してしまうんですけども。
応神が孫ってことにすると、神功皇后&幼い応神の帰還を、仲哀天皇の真性息子・麛坂皇子と忍熊皇子がおとなしく認める訳がないですよね。
きっと弟でも揉めるのに、先帝の息子である俺達を差し置いて孫に継がせるのか!!とキレるのはまあ当然。
それに、子供であろうと孫であろうと、神功皇后が出産したのは海の向こうで、応神の血筋の正当性を証言出来る人間が誰もいません。
仲哀天皇が『朕の息子である』と断言してくれればそれで済んだのですが、仲哀天皇は既に崩御していて死人に口なし。
神功皇后は長い歴史の中で非常に人気のある御方で、お札の絵柄にもなった皇后(女帝かも知れないけど)でいらっしゃいます。
やはり、神懸かって勇ましい感じがいいんですかね。女性だけど英雄って感じで。
三韓征伐は成功したことになってますし、
人間って結局自分の国が勝ち組の時には戦争を賛美して侵略者を誉め讃えますよね。
私は、不敬ながらこの侵略者である女帝のことは好きではありません。
夫でありお腹の子の父親であるはずの仲哀天皇を粗末にしている感が満々で、武内宿禰との距離が近すぎる感は否めず、銅鏡と称徳天皇の上位互換みたいに見える。
男女の仲を勘ぐりたくなるのも人間です。
女帝はどうしても部下が異性である男性になりますから、そういうだらしない噂が流れないように気を付ける責任があると思います。
推古天皇が聖徳太子や蘇我馬子と怪しかったとかいう不名誉な噂は流れていません。ご立派な未亡人でいらしたのでしょう。
(つづく)

2022.
08.
13
尤も、トミヤビメには推古天皇とは決定的な違いがあって、ミカシキヤヒメ以外の異名は
櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命
という、『豊/トヨ』ではなく『櫛/クシ』の女王だという事です。
クシの女王の代表例は櫛名田比売(奇稲田姫)でしょうか。
そして、饒速日自身も、先代旧事本紀によれば、皆さん御存知の所の
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)
という異名、…というよりも、これだけ仰々しければ諡号なのかも知れない。
ここにも『櫛玉』が入り、ミカシキヤヒメと対になる存在であったことと、彼が『櫛』サイドであったことがわかる。
それを考えると、籠神社のイチキシマヒメは、『櫛玉』をニギハヤヒと分かち合ったミカシキヤヒメなのかもしれない。
クシとトヨについては、玄松子の記憶というページの考察が詳しいので、そちらを見て頂きたいと思います。
その後、『蘇我王朝』と呼ばれるほど蘇我氏が権勢を誇り大王家と血筋を絡めていた時代には、和風諡号に『豊』が付く人物がわんさかいます。
具体的には、蘇我堅塩媛を母とする用明天皇の辺りから、諡号は豊だらけになります。どうやら、蘇我氏は『豊/トヨ』に関係する血筋のようです。
聖徳太子も『豊聡耳/とよとみみ』の異名を持っています。
子供の頃の私は、聖徳太子VS蘇我氏のイメージを持っていた(山背大兄王一族が蘇我入鹿に滅ぼされたので)、聖徳太子ってバリバリに蘇我の血筋です。父方を辿っても母方を辿っても祖母は蘇我稲目の娘です。もうガッツリ蘇我。
因みに、十人の言うことを一度に聞き分けた、などと言うのは後付けの伝承でしょう。
聡をどうして『と』と読むのかわかりませんが、現在の人名訓でもアリらしいです。
私が気になるのは、この異名に『耳/ミミ』が付くことです。
神話では族長クラスかと思われる人物、もしくはそれをモデルにした神の神威の甚だしさを表す為に『耳/ミミ』が付きます。(『ミ』で既に神威を表しているので『ミミ』は二連打の威力)
聖徳太子の異名に『耳/ミミ』が付き、
豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)
というすごい異名も残っているのは、非常に気になるところです。
私の推測ですが、推古天皇と聖徳太子の関係はヒメヒコ制の変則バージョンではないか?
だって、聖徳太子がまだ年若いからと推古天皇が即位したというのに、その年若い=未熟な聖徳太子が推古天皇の摂政だなんて、どう考えてもおかしい。
このふたりの関係は、伯母と甥によるヒメヒコ制的な構図で、様々な改革をした聖徳太子が政治王に相当し、推古天皇が《神聖な女王》だったのではないか。
(つづく)
櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命
という、『豊/トヨ』ではなく『櫛/クシ』の女王だという事です。
クシの女王の代表例は櫛名田比売(奇稲田姫)でしょうか。
そして、饒速日自身も、先代旧事本紀によれば、皆さん御存知の所の
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)
という異名、…というよりも、これだけ仰々しければ諡号なのかも知れない。
ここにも『櫛玉』が入り、ミカシキヤヒメと対になる存在であったことと、彼が『櫛』サイドであったことがわかる。
それを考えると、籠神社のイチキシマヒメは、『櫛玉』をニギハヤヒと分かち合ったミカシキヤヒメなのかもしれない。
クシとトヨについては、玄松子の記憶というページの考察が詳しいので、そちらを見て頂きたいと思います。
その後、『蘇我王朝』と呼ばれるほど蘇我氏が権勢を誇り大王家と血筋を絡めていた時代には、和風諡号に『豊』が付く人物がわんさかいます。
具体的には、蘇我堅塩媛を母とする用明天皇の辺りから、諡号は豊だらけになります。どうやら、蘇我氏は『豊/トヨ』に関係する血筋のようです。
聖徳太子も『豊聡耳/とよとみみ』の異名を持っています。
子供の頃の私は、聖徳太子VS蘇我氏のイメージを持っていた(山背大兄王一族が蘇我入鹿に滅ぼされたので)、聖徳太子ってバリバリに蘇我の血筋です。父方を辿っても母方を辿っても祖母は蘇我稲目の娘です。もうガッツリ蘇我。
因みに、十人の言うことを一度に聞き分けた、などと言うのは後付けの伝承でしょう。
聡をどうして『と』と読むのかわかりませんが、現在の人名訓でもアリらしいです。
私が気になるのは、この異名に『耳/ミミ』が付くことです。
神話では族長クラスかと思われる人物、もしくはそれをモデルにした神の神威の甚だしさを表す為に『耳/ミミ』が付きます。(『ミ』で既に神威を表しているので『ミミ』は二連打の威力)
聖徳太子の異名に『耳/ミミ』が付き、
豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)
というすごい異名も残っているのは、非常に気になるところです。
私の推測ですが、推古天皇と聖徳太子の関係はヒメヒコ制の変則バージョンではないか?
だって、聖徳太子がまだ年若いからと推古天皇が即位したというのに、その年若い=未熟な聖徳太子が推古天皇の摂政だなんて、どう考えてもおかしい。
このふたりの関係は、伯母と甥によるヒメヒコ制的な構図で、様々な改革をした聖徳太子が政治王に相当し、推古天皇が《神聖な女王》だったのではないか。
(つづく)

2022.
08.
12
前回挙げたうちの後者・天知迦流美豆比売(ミズヒメと読む)は、名前からして明らかに水神です。
人気の瀬織津姫がニギハヤヒ嫡后で、瀬織津姫=イチキシマヒメであるのならば、水神属性の天知迦流美豆比売の可能性が一歩先んじる気もします。
でも、トミヤビメ=ナガスネヒコの妹神も捨てがたい。
何故なら、兄ナガスネヒコはトミビコとも言い、つまり巫女王トミヤビメと共にヒメヒコ制で国を治めていた政治王であると考えられるからです。
となれば、政治と戦の物語で前面に出て来るのはナガスネヒコですが、隠された真の権力者は妹のトミヤビメの方です。
そして、ヤマトのトミヤビメ女王の所に出雲の大年=ニギハヤヒが婿入りしてきたことで、ニギハヤヒはヤマトのオオクニヌシ(大物主とも言う)になって王となり、ナガスネヒコは共同統治を妹夫婦に任せてニギハヤヒの家臣になった、という流れです。
これは、出雲のスセリヒメを得てオオナムチがオオクニヌシになったのと同じ流れです。
出雲国風土記では、オオクニヌシを所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)と連呼して讃美しますが、それはスサノオの末娘・スセリヒメという女王の婿という地位があってこそです。
先代旧事本紀では、ニギハヤヒは国譲り事件より前に亡くなっていたとのことで、もしこれが本当ならナガスネヒコが王に返り咲いていたのかもしれません。
記紀にはニギハヤヒ×トミヤビメの唯一の息子(ウマシマジ。天孫には功臣として扱われているけれども、政治王である伯父貴を『性格が悪い』とかいう何だそりゃ的な理由で殺すとか、性格悪いのウマシマジの方じゃないか?この裏切り者がミカシキヤヒメの唯一の子かと思うと涙が出そうだよ)がおり、ウマシマジの裏切りによって旧ヤマトは崩れ去ったことは記されていますが、隠された女王トミヤビメがどうなったかについては語っていません。
でも、何らかの形で語り継がれていたのではないか?と思うのです。
それは、聖徳太子と蘇我馬子が編纂していたという『国記』と『天皇記』が消失或いは行方不明になっている(焼け残った国記の一部を中大兄皇子が受け取ったとされているのにもかかわらず)ので、その頃には記紀とは違う常識と歴史を伝承を、当時の人々は覚えていたのではないか。
そうでなければ、推古天皇の和風諡号が、こうなる訳がない。
豊御食炊屋姫天皇(とよみかしきやひめのすめらみこと)
又は
豊御食炊屋姫尊(とよみかしきやひめのみこと)
豊御食炊屋比売命(同上)
炊屋姫尊(かしきやひめ)
『豊/トヨ』という美称を外してしまえば、『みかしきやひめ』となり、旧ヤマトの女王にして后、トミヤビメこと御炊屋姫と全く同じになるのです。
※ 『カシキヤ』は台所のこと。現代の我々が思うよりもかなり神聖且つ命に関わる重要な場所だったと思われる
このふたりの女性の共通項は、女王であり大王の后である、というふたつの条件を満たしていることです。
(つづく)
人気の瀬織津姫がニギハヤヒ嫡后で、瀬織津姫=イチキシマヒメであるのならば、水神属性の天知迦流美豆比売の可能性が一歩先んじる気もします。
でも、トミヤビメ=ナガスネヒコの妹神も捨てがたい。
何故なら、兄ナガスネヒコはトミビコとも言い、つまり巫女王トミヤビメと共にヒメヒコ制で国を治めていた政治王であると考えられるからです。
となれば、政治と戦の物語で前面に出て来るのはナガスネヒコですが、隠された真の権力者は妹のトミヤビメの方です。
そして、ヤマトのトミヤビメ女王の所に出雲の大年=ニギハヤヒが婿入りしてきたことで、ニギハヤヒはヤマトのオオクニヌシ(大物主とも言う)になって王となり、ナガスネヒコは共同統治を妹夫婦に任せてニギハヤヒの家臣になった、という流れです。
これは、出雲のスセリヒメを得てオオナムチがオオクニヌシになったのと同じ流れです。
出雲国風土記では、オオクニヌシを所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)と連呼して讃美しますが、それはスサノオの末娘・スセリヒメという女王の婿という地位があってこそです。
先代旧事本紀では、ニギハヤヒは国譲り事件より前に亡くなっていたとのことで、もしこれが本当ならナガスネヒコが王に返り咲いていたのかもしれません。
記紀にはニギハヤヒ×トミヤビメの唯一の息子(ウマシマジ。天孫には功臣として扱われているけれども、政治王である伯父貴を『性格が悪い』とかいう何だそりゃ的な理由で殺すとか、性格悪いのウマシマジの方じゃないか?この裏切り者がミカシキヤヒメの唯一の子かと思うと涙が出そうだよ)がおり、ウマシマジの裏切りによって旧ヤマトは崩れ去ったことは記されていますが、隠された女王トミヤビメがどうなったかについては語っていません。
でも、何らかの形で語り継がれていたのではないか?と思うのです。
それは、聖徳太子と蘇我馬子が編纂していたという『国記』と『天皇記』が消失或いは行方不明になっている(焼け残った国記の一部を中大兄皇子が受け取ったとされているのにもかかわらず)ので、その頃には記紀とは違う常識と歴史を伝承を、当時の人々は覚えていたのではないか。
そうでなければ、推古天皇の和風諡号が、こうなる訳がない。
豊御食炊屋姫天皇(とよみかしきやひめのすめらみこと)
又は
豊御食炊屋姫尊(とよみかしきやひめのみこと)
豊御食炊屋比売命(同上)
炊屋姫尊(かしきやひめ)
『豊/トヨ』という美称を外してしまえば、『みかしきやひめ』となり、旧ヤマトの女王にして后、トミヤビメこと御炊屋姫と全く同じになるのです。
※ 『カシキヤ』は台所のこと。現代の我々が思うよりもかなり神聖且つ命に関わる重要な場所だったと思われる
このふたりの女性の共通項は、女王であり大王の后である、というふたつの条件を満たしていることです。
(つづく)

2022.
08.
11
ニギハヤヒと同一とされるのが『大年』なのですが、子が『御年/ミトシ』で孫が『若年/ワカトシ』なのです。
※ ワカトシの父はミトシ神ではなく羽山戸神なのですが、重要な系譜が御年神から羽山戸神に移ったのかも知れません
つまり、全員名前は同じ『トシ』なのですが、区別する為に世代が上のトシを『大年』と呼び、子神は『トシ』と呼び捨ては憚られるので丁寧に『御/ミ』を付け、孫は『大』に対する呼称として『若』を付けたのだと思います。
だからきっと、『和加須世理比売命/ワカスセリヒメ』がいるのなら、ただの『スセリヒメ命』(ヒメとミコトが付くので『御』は要らない)か、『大須世理比売命/オオスセリヒメ』がいたのだと思います。
だから、大市比売とは、『大市寸島比売/オオイチキシマヒメ』の略で『大市比売/オオイチヒメ』ではないでしょうか。
接頭語に『神』が付いて『神大市比売』なのは、産んだ子が大年=ニギハヤヒという超大物である故に敬ったのかもしれないし、大市比売自身がかなりの権力者の娘であったのかもしれません。
或いは、スサノオ様がクシナダヒメという童女神(古事記表記で幼女、日本書紀だと少女だけど異文ではまだ生まれていない胎児だったりする)と巡り会い嫡妻にする前に、既に五十猛という立派な息子と新羅から航海して日本に帰還している訳で、クシナダヒメ以前に嫡妻がいたはずです。
スサノオ様の最初の嫡妻が、神大市比売であり、スサノオ様の末娘スセリヒメが和加須世理比売=(ワカ)イチキシマヒメとなったのかもしれません。
或いは『スサノオ』もまた称号であり、何代か受け継がれた名前であるならば、神大市比売を娶ったスサノオ様とクシナダヒメを娶ったスサノオ様は別人(親族だと思いますが)だったのかも知れません。
ここまで書いて、思ったことがあります。
スセリヒメは出雲女王であり、オオナムチの嫡后です。
神大市比売も、スサノオ様の嫡妻であり、ならば何処かのクニの女王だったのでしょう。
すると、籠神社の絵馬のイチキシマヒメも、ニギハヤヒの単なる妻ではなく、共に立つ女王だったのではないでしょうか。
可能性が高いのは、ニギハヤヒの妻として最初に登場する姫神、トミヤビメ、又の名はミカシキヤヒメ、です。
もう一柱、可能性の高い姫神は、天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ/アメシルカルミズヒメ)です。
(つづく)
※ ワカトシの父はミトシ神ではなく羽山戸神なのですが、重要な系譜が御年神から羽山戸神に移ったのかも知れません
つまり、全員名前は同じ『トシ』なのですが、区別する為に世代が上のトシを『大年』と呼び、子神は『トシ』と呼び捨ては憚られるので丁寧に『御/ミ』を付け、孫は『大』に対する呼称として『若』を付けたのだと思います。
だからきっと、『和加須世理比売命/ワカスセリヒメ』がいるのなら、ただの『スセリヒメ命』(ヒメとミコトが付くので『御』は要らない)か、『大須世理比売命/オオスセリヒメ』がいたのだと思います。
だから、大市比売とは、『大市寸島比売/オオイチキシマヒメ』の略で『大市比売/オオイチヒメ』ではないでしょうか。
接頭語に『神』が付いて『神大市比売』なのは、産んだ子が大年=ニギハヤヒという超大物である故に敬ったのかもしれないし、大市比売自身がかなりの権力者の娘であったのかもしれません。
或いは、スサノオ様がクシナダヒメという童女神(古事記表記で幼女、日本書紀だと少女だけど異文ではまだ生まれていない胎児だったりする)と巡り会い嫡妻にする前に、既に五十猛という立派な息子と新羅から航海して日本に帰還している訳で、クシナダヒメ以前に嫡妻がいたはずです。
スサノオ様の最初の嫡妻が、神大市比売であり、スサノオ様の末娘スセリヒメが和加須世理比売=(ワカ)イチキシマヒメとなったのかもしれません。
或いは『スサノオ』もまた称号であり、何代か受け継がれた名前であるならば、神大市比売を娶ったスサノオ様とクシナダヒメを娶ったスサノオ様は別人(親族だと思いますが)だったのかも知れません。
ここまで書いて、思ったことがあります。
スセリヒメは出雲女王であり、オオナムチの嫡后です。
神大市比売も、スサノオ様の嫡妻であり、ならば何処かのクニの女王だったのでしょう。
すると、籠神社の絵馬のイチキシマヒメも、ニギハヤヒの単なる妻ではなく、共に立つ女王だったのではないでしょうか。
可能性が高いのは、ニギハヤヒの妻として最初に登場する姫神、トミヤビメ、又の名はミカシキヤヒメ、です。
もう一柱、可能性の高い姫神は、天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ/アメシルカルミズヒメ)です。
(つづく)

2022.
08.
10
ところで、突然ですが、宗像三女神は元々一柱の『比売神』に集約され、それが現世に出るとき一身となりスセリヒメ又は道主貴と呼ばれるという説があります。
私が見付けたのは『神別系譜』という書物ですが、この『神仏系譜』は、様々な言い伝えを記録しているので、スセリヒメはスサノオ様の五世の孫(しかも五十猛から見て四世の孫)でオオナムチの伯母という衝撃の系図も載っています。
※ つまりこの系図ではオオナムチはスサノオ様の六世の孫ということになる
※ そして、跡を継ぐことが出来るのは五世までというルールが有るらしく(継体天皇も五世の孫だった)、スサノオ様の六世の孫のオオナムチはスサノオ様の後継者にはなれない、という罠
話を戻しますが、イチキシマヒメには『サヨリヒメ』という別名があります。
サ=神聖な ヨリ=依代、で神降ろしが出来る巫女姫、という意味でしょう。
イチキシマヒメの『イチキ』も『斎/イツキ』と思われるので、さほど意味の違いはありません。
宗像のイチキシマヒメは、ニニギの養育係であったという伝承があるものの結婚したかどうかは不明、でも出雲女王スセリヒメもイチキシマヒメであり、籠神社伝承のようにニギハヤヒ妃がイチキシマヒメとして太陽と月の印まで付いているならば、とにかくニギハヤヒの妻の少なくとも誰かひとりはイチキシマヒメの別名を持っていたという事になります。
流石に私も、スセリヒメがニニギの養育をしてニギハヤヒの妻にもなった、と全部くっつけるのは苦しいです。
『イチキシマヒメ』『サヨリヒメ』は特定の条件を満たすヒメが授かる称号のようなものだと思った方がいい。
例えば、オオトシとウカノミタマの母神は『神大市比売/カムオオイチヒメ』です。
神名の頭に『神』の文字が来るのは異例で、古事記では神産巣日神(タカミムスビと対を成す神)、神大市比売(スサノオ妃でオオトシ&ウカノミタマ母)、神屋楯比売神(コトシロヌシ母)、神活須毘神(オオトシ妃イヌヒメの親神)、という大物ラインナップです。
オオイチヒメは大市比売という表記であるため、市場の女神であるというのが通説であるようです。
その『大/オオ』が『市』にかかり『大きな市』or『大いなる市』になるのか、それとも『比売』にかかって『偉大な姫神』になるのか、私にはわかりませんが。
私は個人的に、スセリヒメがイチキシマヒメの称号を持っているのであれば、スサノオ妃のひとりである神大市比売とは、
神(神威の強い)・大(年長の)・イチ(イツ=斎=神を祀る、神聖な)・比売(高貴な女性)
だと思っています。
例えば、『大姫』と呼ばれた歴史上の多くの女性は、ほぼ長女です。実名ではなく、通称や愛称ですね。
上代語だと大郎女・大嬢・大娘(おほいらつめ)が似たような感じです。
ただし、大市比売の『大』は、必ずしも長女という意味ではないと思います。
例えば、出雲国風土記に『和加須世理比売命/ワカスセリヒメ』という姫神が出てきて、エピソードから古事記のスセリヒメと同一神と思われるのですが、風土記の方には『ワカ』が付いている。
これは、単に『若々しい』という意味に取られているようですが、違うんじゃないですか?
若々しいのは若い時だけです。
そして、大昔の『若い』は初経~二十歳前後なんじゃないかと思います。三十路でワカヒメは、かなり苦しい。
この答えのひとつが、『トシ』という名の神です。
私が見付けたのは『神別系譜』という書物ですが、この『神仏系譜』は、様々な言い伝えを記録しているので、スセリヒメはスサノオ様の五世の孫(しかも五十猛から見て四世の孫)でオオナムチの伯母という衝撃の系図も載っています。
※ つまりこの系図ではオオナムチはスサノオ様の六世の孫ということになる
※ そして、跡を継ぐことが出来るのは五世までというルールが有るらしく(継体天皇も五世の孫だった)、スサノオ様の六世の孫のオオナムチはスサノオ様の後継者にはなれない、という罠
話を戻しますが、イチキシマヒメには『サヨリヒメ』という別名があります。
サ=神聖な ヨリ=依代、で神降ろしが出来る巫女姫、という意味でしょう。
イチキシマヒメの『イチキ』も『斎/イツキ』と思われるので、さほど意味の違いはありません。
宗像のイチキシマヒメは、ニニギの養育係であったという伝承があるものの結婚したかどうかは不明、でも出雲女王スセリヒメもイチキシマヒメであり、籠神社伝承のようにニギハヤヒ妃がイチキシマヒメとして太陽と月の印まで付いているならば、とにかくニギハヤヒの妻の少なくとも誰かひとりはイチキシマヒメの別名を持っていたという事になります。
流石に私も、スセリヒメがニニギの養育をしてニギハヤヒの妻にもなった、と全部くっつけるのは苦しいです。
『イチキシマヒメ』『サヨリヒメ』は特定の条件を満たすヒメが授かる称号のようなものだと思った方がいい。
例えば、オオトシとウカノミタマの母神は『神大市比売/カムオオイチヒメ』です。
神名の頭に『神』の文字が来るのは異例で、古事記では神産巣日神(タカミムスビと対を成す神)、神大市比売(スサノオ妃でオオトシ&ウカノミタマ母)、神屋楯比売神(コトシロヌシ母)、神活須毘神(オオトシ妃イヌヒメの親神)、という大物ラインナップです。
オオイチヒメは大市比売という表記であるため、市場の女神であるというのが通説であるようです。
その『大/オオ』が『市』にかかり『大きな市』or『大いなる市』になるのか、それとも『比売』にかかって『偉大な姫神』になるのか、私にはわかりませんが。
私は個人的に、スセリヒメがイチキシマヒメの称号を持っているのであれば、スサノオ妃のひとりである神大市比売とは、
神(神威の強い)・大(年長の)・イチ(イツ=斎=神を祀る、神聖な)・比売(高貴な女性)
だと思っています。
例えば、『大姫』と呼ばれた歴史上の多くの女性は、ほぼ長女です。実名ではなく、通称や愛称ですね。
上代語だと大郎女・大嬢・大娘(おほいらつめ)が似たような感じです。
ただし、大市比売の『大』は、必ずしも長女という意味ではないと思います。
例えば、出雲国風土記に『和加須世理比売命/ワカスセリヒメ』という姫神が出てきて、エピソードから古事記のスセリヒメと同一神と思われるのですが、風土記の方には『ワカ』が付いている。
これは、単に『若々しい』という意味に取られているようですが、違うんじゃないですか?
若々しいのは若い時だけです。
そして、大昔の『若い』は初経~二十歳前後なんじゃないかと思います。三十路でワカヒメは、かなり苦しい。
この答えのひとつが、『トシ』という名の神です。

2022.
08.
09
私はさほど邪馬台国については調べていないのですが、邪馬台国はどうやらヒメヒコ制だったようです。
そして、卑弥呼は姿を見せないのに国が治まっていたのは、男弟なる人物が卑弥呼の神託を聞きつつ政治を担当していたからでしょう。
そして、卑弥呼の死後男王だけで国を治めようとしたけれども国が乱れたので、卑弥呼の血筋の少女を女王に据えて(複数のクニの『協議して共に』決めたのではなく、『男王と共に』男女統治にした、と私は思っていますが)やっと国は治まった。という程度に、
ヒコよりもヒメの方が格上。
何しろ邪馬台国という記述は1度だけで、ほかは女王国。
中華様はウン千年の歴代王朝の歴史の中で、唐代に則天武后という『三大悪女』に名を連ねる女帝が唯一である程度に女性を王になるというのは有り得ないことであったので、やはり蛮族よと驚きと呆れを以て女王国を連呼したのかも知れません。
私は、魏志倭人伝という書物の誠実性は結構疑わしい(中華様が東夷という野蛮人の国、しかも朝貢してくる子分ごときに細かく気を払う必要は無く、しかし朝貢を仲介する中華様のお役人は『私ははるばる遠くまで行ってこんなにいい朝貢国(貿易相手)を見付けてきたんですよ!』とアピールする為に話を盛るのに決まっています。白髪三千丈の国なので)と思っていますが、とにかく邪馬台国が本当に日本に存在するのであれば、女王国というものも日本にあったのでしょう。
そして、女王国というのは、ムラ~クニのレベルまで、数多あったと思います。
ヒメヒコ制という程度に、兄妹・姉弟統治は古代に良く見られる統治形態であり、ヒメが祭祀王でヒコが政治王で、祭祀(神のお告げ)が政治に介入することはあっても、その逆は無かったと推測されるからです。
古代は「姉や妹は男姉弟に神聖な力を授けてくれる」存在であるという信仰があったので、王族クラスでなくても兄弟は姉妹を大切にする風習で、沖縄辺りにその名残があった……というのを何かの本で読んだのですが忘れましたすみません。
神のお告げを曲げるなんていう不敬と不遜には神の祟りがやって来るのに決まっている(と当時の人々は信じていた)ので、ヒコはヒメに従うしかないし、ヒメとヒコが対立すれば民草は神の依代であるヒメの言い分を指示するでしょう。
それは、兄妹・姉弟のヒメヒコ制ではなく、夫婦統治であってもさほど変わらなかったと思います。
神を降ろせるのは巫女だけなのですから。
だから、天孫族はオオクニヌシを幽界に追いやっても(これ殺してるよね多分)、神聖な巫女王スセリヒメを始末することまでは出来なかった。
オオクニヌシのポジションを継ぐ資格のある、誰かは知りませんが古事記が大物主と呼ぶ誰かにタカミムスビの娘・ミホツヒメをあてがい、スセリヒメに対しては女王と男王の嫡后の地位から降りて、静かに余生を送るようにさせるのがせいぜいだったのでしょう。
(つづく)
そして、卑弥呼は姿を見せないのに国が治まっていたのは、男弟なる人物が卑弥呼の神託を聞きつつ政治を担当していたからでしょう。
そして、卑弥呼の死後男王だけで国を治めようとしたけれども国が乱れたので、卑弥呼の血筋の少女を女王に据えて(複数のクニの『協議して共に』決めたのではなく、『男王と共に』男女統治にした、と私は思っていますが)やっと国は治まった。という程度に、
ヒコよりもヒメの方が格上。
何しろ邪馬台国という記述は1度だけで、ほかは女王国。
中華様はウン千年の歴代王朝の歴史の中で、唐代に則天武后という『三大悪女』に名を連ねる女帝が唯一である程度に女性を王になるというのは有り得ないことであったので、やはり蛮族よと驚きと呆れを以て女王国を連呼したのかも知れません。
私は、魏志倭人伝という書物の誠実性は結構疑わしい(中華様が東夷という野蛮人の国、しかも朝貢してくる子分ごときに細かく気を払う必要は無く、しかし朝貢を仲介する中華様のお役人は『私ははるばる遠くまで行ってこんなにいい朝貢国(貿易相手)を見付けてきたんですよ!』とアピールする為に話を盛るのに決まっています。白髪三千丈の国なので)と思っていますが、とにかく邪馬台国が本当に日本に存在するのであれば、女王国というものも日本にあったのでしょう。
そして、女王国というのは、ムラ~クニのレベルまで、数多あったと思います。
ヒメヒコ制という程度に、兄妹・姉弟統治は古代に良く見られる統治形態であり、ヒメが祭祀王でヒコが政治王で、祭祀(神のお告げ)が政治に介入することはあっても、その逆は無かったと推測されるからです。
古代は「姉や妹は男姉弟に神聖な力を授けてくれる」存在であるという信仰があったので、王族クラスでなくても兄弟は姉妹を大切にする風習で、沖縄辺りにその名残があった……というのを何かの本で読んだのですが忘れましたすみません。
神のお告げを曲げるなんていう不敬と不遜には神の祟りがやって来るのに決まっている(と当時の人々は信じていた)ので、ヒコはヒメに従うしかないし、ヒメとヒコが対立すれば民草は神の依代であるヒメの言い分を指示するでしょう。
それは、兄妹・姉弟のヒメヒコ制ではなく、夫婦統治であってもさほど変わらなかったと思います。
神を降ろせるのは巫女だけなのですから。
だから、天孫族はオオクニヌシを幽界に追いやっても(これ殺してるよね多分)、神聖な巫女王スセリヒメを始末することまでは出来なかった。
オオクニヌシのポジションを継ぐ資格のある、誰かは知りませんが古事記が大物主と呼ぶ誰かにタカミムスビの娘・ミホツヒメをあてがい、スセリヒメに対しては女王と男王の嫡后の地位から降りて、静かに余生を送るようにさせるのがせいぜいだったのでしょう。
(つづく)
