2021.
05.
31
東北に住んでいると、とにかく神社や神様に関する重要な情報が入ってこないものだなあと、しばしば痛感します。
私は人生の殆どを宮城県で過ごしていて、旅行もあまり行けない貧乏な家で育ち、結婚後は貧乏を脱出するも体を壊し、山形県ですら「遠出」の部類です。
大学時代に青春18きっぷのバラ売り(大学生協で売ってた)とか、ミニ周遊券(これホント便利だったのに無くなっちゃったんだよなぁがめついなJR)とか使って行った京都・奈良辺りが一番遠いところです。
つまり、私には
有名どころの土地勘がない。
思い入れが深い出雲とか、出雲と縁が深いようなのに色々こんがらがってるっぽい熊野とか、謎の神様が集まりまくってる謎の伊勢とか、ネット情報や書籍で断片的に知る程度で、なかなかそれ以上にならない。
だから、建速須佐之男命が父で瀬織津姫が姉なんていう強烈な系図の女神様がいらっしゃったなんて、瀬織津姫の名を知って十数年経つというのに今まで知らなかったというド素人感。
このブログに辿り付くような人なら、もうとっくに御存知であろうと思われる、その名も
荒前比売命(あらさきひめ/荒前比賣・荒前姫)
いらっしゃる場所は、
荒前神社(あらさきじんじゃ):伊勢神宮 内宮末社
神前神社(こうざきじんじゃ):内宮摂社
許母利神社(くもりじんじゃ):内宮末社。粟嶋神御魂(あわしまのかみのみたま/少名毘古那神と同神だとか)も祀られている。理由は「荒ぶる荒前比賣命を抑制するため」
赤崎神社(あかさきじんじゃ):外宮末社。wikiによると「荒崎姫命」表記
ぱっと見で思うのは、荒崎も神崎もどっちも「こうざき」と読めるので、元はどっちも「あらさき」か「こうざき」で一緒だったのが、時を経て漢字表記が分かれただけなんだろうな、ということ。
そして、粟嶋神御魂=スクナヒコナ神ってのは苦しい言い訳だろということ。
スクナヒコナって、オオナムチといっつもコンビで祀られている、ちっさい神様のことだよね。
古事記では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされている高貴な(?)生まれなのに、表記は少彦名命になっていて、「尊」の尊称が与えられなかった、つまり正史では全くリスペクトされていない神。
※ 尤も高貴な血筋の天孫族でも、神武帝に繋がる男神以外のきょうだい神は「命」が付けられていて、負け犬感が満々だったりする
そんなちっさい神様に、倭姫に「恐ろし」と言わせたほどの荒ぶる女神・荒前姫を鎮める力なんてあるの?という素朴な疑問。
また、父は建速須佐之男命(命だけど建と速の神威二段重ねで敬意を表したと思われる)で瀬織津姫を姉に持つ、って、何か回りくどいっていうか、不自然な日本語って言うか、宮城県人としてはいづい言い方だと思うんだよなあ。
普通、「建速須佐之男命の娘で瀬織津姫の妹」って言いません?
こっちの方が自然な言い方で、ダイレクトに「瀬織津姫も建速須佐之男命の娘」って感じがすると思うのですが???
(つづく)
私は人生の殆どを宮城県で過ごしていて、旅行もあまり行けない貧乏な家で育ち、結婚後は貧乏を脱出するも体を壊し、山形県ですら「遠出」の部類です。
大学時代に青春18きっぷのバラ売り(大学生協で売ってた)とか、ミニ周遊券(これホント便利だったのに無くなっちゃったんだよなぁがめついなJR)とか使って行った京都・奈良辺りが一番遠いところです。
つまり、私には
有名どころの土地勘がない。
思い入れが深い出雲とか、出雲と縁が深いようなのに色々こんがらがってるっぽい熊野とか、謎の神様が集まりまくってる謎の伊勢とか、ネット情報や書籍で断片的に知る程度で、なかなかそれ以上にならない。
だから、建速須佐之男命が父で瀬織津姫が姉なんていう強烈な系図の女神様がいらっしゃったなんて、瀬織津姫の名を知って十数年経つというのに今まで知らなかったというド素人感。
このブログに辿り付くような人なら、もうとっくに御存知であろうと思われる、その名も
荒前比売命(あらさきひめ/荒前比賣・荒前姫)
いらっしゃる場所は、
荒前神社(あらさきじんじゃ):伊勢神宮 内宮末社
神前神社(こうざきじんじゃ):内宮摂社
許母利神社(くもりじんじゃ):内宮末社。粟嶋神御魂(あわしまのかみのみたま/少名毘古那神と同神だとか)も祀られている。理由は「荒ぶる荒前比賣命を抑制するため」
赤崎神社(あかさきじんじゃ):外宮末社。wikiによると「荒崎姫命」表記
ぱっと見で思うのは、荒崎も神崎もどっちも「こうざき」と読めるので、元はどっちも「あらさき」か「こうざき」で一緒だったのが、時を経て漢字表記が分かれただけなんだろうな、ということ。
そして、粟嶋神御魂=スクナヒコナ神ってのは苦しい言い訳だろということ。
スクナヒコナって、オオナムチといっつもコンビで祀られている、ちっさい神様のことだよね。
古事記では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされている高貴な(?)生まれなのに、表記は少彦名命になっていて、「尊」の尊称が与えられなかった、つまり正史では全くリスペクトされていない神。
※ 尤も高貴な血筋の天孫族でも、神武帝に繋がる男神以外のきょうだい神は「命」が付けられていて、負け犬感が満々だったりする
そんなちっさい神様に、倭姫に「恐ろし」と言わせたほどの荒ぶる女神・荒前姫を鎮める力なんてあるの?という素朴な疑問。
また、父は建速須佐之男命(命だけど建と速の神威二段重ねで敬意を表したと思われる)で瀬織津姫を姉に持つ、って、何か回りくどいっていうか、不自然な日本語って言うか、宮城県人としてはいづい言い方だと思うんだよなあ。
普通、「建速須佐之男命の娘で瀬織津姫の妹」って言いません?
こっちの方が自然な言い方で、ダイレクトに「瀬織津姫も建速須佐之男命の娘」って感じがすると思うのですが???
(つづく)

2021.
05.
26
アマテラスについては、これは金色に輝く鏡というものが、鏡作坐天照御魂神社の原正朝宮司が
>「今と昔では明かりの意味が大きく違いました。明かりとは太陽であり火。鏡作神社の祭神・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)は、この大切な“明かり”そのものなのです」
>「空で照り輝いていた神がこうしてはじめて地上に降られ、国を照らされることとなったんです」
※ 『記紀・万葉でたどる奈良』サイト様の中の『Column 歴史の行間 05』から引用
と仰っているように、太陽神・火神の男神がアマテラスです。
火の男神(彦とついていますから)の妻神が水神というのは、正反対だからこそありそうな組み合わせではあります。
それに、古い日本語では海と空の区別が無い。
『あま』も『あめ』もどっちも海で空です。
また、神が空を船で渡るという概念もあります。
天皇が田植えの神事を行う程度に、今の皇統が農耕メインの人々の流れであることは明白ですが、それ以前に島国日本で力を持っていたのは海人族なのだと思います。
一対となる男神から引き離され、祓戸大神という四神として、ある意味封じ込まれた形になっているのが、同神かは脇に置いても瀬織津比売・速秋津比売という偉大な女神なのだと思います。
気吹戸主については、まだあまり考察が進んでいないのでここでは述べませんが、祓戸大神の最後の女神、速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)も気になります。
瀬織津比売は早瀬に、速秋津比売は河口に留められましたが、
速佐須良比売については、ひたすらさすらうばかりで安住の地を与えられてさえいない。
大祓詞は、最も威力の有る最も神聖な祝詞であるはずなのに、瀬織津比売と速秋津比売はその神威を限定され、速佐須良比売はもはや呪われているかのようです。
速佐須良比売とはスセリヒメのことではないかという説があり、私はかつては懐疑的だったのですけれども、こうして自分で文章を綴ってみると、速佐須良比売とは、出雲、そして須佐之男様の須佐をさかさまにした呪いを被せられたスセリヒメ様であるような気がしてきました。
※ 神事や仏事の『さかさま』は呪いです
夫神、或いは兄弟神と引き離された姫神達を、こんなにも犠牲にしてなり立っている現在残されている神話や神社の祭り方に、悲しみを覚えます。
このような形で、かつて皇統に敵対する勢力の神であったか、実在の人物であった王や女王が祀られている、それでこの日本という国は、本当に千代に八千代に続いてゆけるのでしょうか。
どうか、封印された神々に光が差しますように。
疑問を持って封じられた神様に気付く人々が増えてゆきますようにと祈る次第です。
>「今と昔では明かりの意味が大きく違いました。明かりとは太陽であり火。鏡作神社の祭神・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)は、この大切な“明かり”そのものなのです」
>「空で照り輝いていた神がこうしてはじめて地上に降られ、国を照らされることとなったんです」
※ 『記紀・万葉でたどる奈良』サイト様の中の『Column 歴史の行間 05』から引用
と仰っているように、太陽神・火神の男神がアマテラスです。
火の男神(彦とついていますから)の妻神が水神というのは、正反対だからこそありそうな組み合わせではあります。
それに、古い日本語では海と空の区別が無い。
『あま』も『あめ』もどっちも海で空です。
また、神が空を船で渡るという概念もあります。
天皇が田植えの神事を行う程度に、今の皇統が農耕メインの人々の流れであることは明白ですが、それ以前に島国日本で力を持っていたのは海人族なのだと思います。
一対となる男神から引き離され、祓戸大神という四神として、ある意味封じ込まれた形になっているのが、同神かは脇に置いても瀬織津比売・速秋津比売という偉大な女神なのだと思います。
気吹戸主については、まだあまり考察が進んでいないのでここでは述べませんが、祓戸大神の最後の女神、速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)も気になります。
瀬織津比売は早瀬に、速秋津比売は河口に留められましたが、
速佐須良比売については、ひたすらさすらうばかりで安住の地を与えられてさえいない。
大祓詞は、最も威力の有る最も神聖な祝詞であるはずなのに、瀬織津比売と速秋津比売はその神威を限定され、速佐須良比売はもはや呪われているかのようです。
速佐須良比売とはスセリヒメのことではないかという説があり、私はかつては懐疑的だったのですけれども、こうして自分で文章を綴ってみると、速佐須良比売とは、出雲、そして須佐之男様の須佐をさかさまにした呪いを被せられたスセリヒメ様であるような気がしてきました。
※ 神事や仏事の『さかさま』は呪いです
夫神、或いは兄弟神と引き離された姫神達を、こんなにも犠牲にしてなり立っている現在残されている神話や神社の祭り方に、悲しみを覚えます。
このような形で、かつて皇統に敵対する勢力の神であったか、実在の人物であった王や女王が祀られている、それでこの日本という国は、本当に千代に八千代に続いてゆけるのでしょうか。
どうか、封印された神々に光が差しますように。
疑問を持って封じられた神様に気付く人々が増えてゆきますようにと祈る次第です。

2021.
05.
25
2021/05/21 の記事の続編です。
秋津洲・秋津島(あきつしま)についての詳細は、
Wikipedia 秋津島
Wikipedia トンボ の中の日本語名称
の説明を参照して下さい。ざっくり言うと、アキツシマとは河口ではなくて本州もしくは日本という意味です。
じゃー、どーしてアキツヒメとアキツヒコという一対の神は、本州の姫神もしくは日本の大神という意味にならないんですか?
…っていうの、私はかねてから不思議で引っ掛かっていたのです。
大祓詞の記述にしても、「荒潮の潮の八百道の 八潮道の潮の八百曾に坐す」神なのであって、どう読んでも大海原の女神であって河口の神ではない。
瀬織津姫が川の神、滝の神のほかに海神として信仰されている例に以前言及しましたが、島国日本でかつて大きな力を持っていた海人族にとっては、海も川もどっちも水でどっちも道なんです。
海人族は、川を遡ってかなり内陸に入り込みます。阿曇氏の末裔が山頂に神社を築く程度に。
瀬織津姫の名が多く残る宮城~岩手でも、北上川を船が盛んに行き来しており、海人族が入り込んだ形跡が見られます。
荒潮の潮の八百道というのは、複雑な海流という、海を行く者にとっては《道》以外のなにものでもありません。
ニニギ尊の元に現れて道案内をする塩土老翁(シオツチノオジ)は、塩の神様であると同時に道案内の神として知られ道祖神的な性格があるとされていますが、名前からして元々海神で、海流という道を知る神なのでしょう。
瀬織津姫については、男神アマテラスの妻神説がありますが、速秋津比売と支配領域が被っていることを考えれば、
瀬織津姫=速秋津比売=本州or日本の頂点の女神
という図式が成り立つかもしれません。
(つづく)
秋津洲・秋津島(あきつしま)についての詳細は、
Wikipedia 秋津島
Wikipedia トンボ の中の日本語名称
の説明を参照して下さい。ざっくり言うと、アキツシマとは河口ではなくて本州もしくは日本という意味です。
じゃー、どーしてアキツヒメとアキツヒコという一対の神は、本州の姫神もしくは日本の大神という意味にならないんですか?
…っていうの、私はかねてから不思議で引っ掛かっていたのです。
大祓詞の記述にしても、「荒潮の潮の八百道の 八潮道の潮の八百曾に坐す」神なのであって、どう読んでも大海原の女神であって河口の神ではない。
瀬織津姫が川の神、滝の神のほかに海神として信仰されている例に以前言及しましたが、島国日本でかつて大きな力を持っていた海人族にとっては、海も川もどっちも水でどっちも道なんです。
海人族は、川を遡ってかなり内陸に入り込みます。阿曇氏の末裔が山頂に神社を築く程度に。
瀬織津姫の名が多く残る宮城~岩手でも、北上川を船が盛んに行き来しており、海人族が入り込んだ形跡が見られます。
荒潮の潮の八百道というのは、複雑な海流という、海を行く者にとっては《道》以外のなにものでもありません。
ニニギ尊の元に現れて道案内をする塩土老翁(シオツチノオジ)は、塩の神様であると同時に道案内の神として知られ道祖神的な性格があるとされていますが、名前からして元々海神で、海流という道を知る神なのでしょう。
瀬織津姫については、男神アマテラスの妻神説がありますが、速秋津比売と支配領域が被っていることを考えれば、
瀬織津姫=速秋津比売=本州or日本の頂点の女神
という図式が成り立つかもしれません。
(つづく)

2021.
05.
23
由緒
養老2年(718年)の頃に多賀城に鎮守府将軍として大野東人が着任しておりましたが、東人は蝦夷の勢力による反抗・反乱に悩まされていました。蝦夷勢力の反乱を沈めるには神々の助けを借りるしかないと考えた東人は、霊験あらたかである紀州牟婁郡に鎮座する熊野本宮神の東北への勧請願いを時の天皇である元正天皇に奏上しました。元正天皇もこの東人の願いを聞き入れ、蝦夷勢力鎮圧のために紀伊国國造や県主に対して東北へ熊野神の分霊社を建立することを命じました。
元正天皇の命を受けた紀州名草藤代県主である従三位中将・鈴木左衛門尉穂積重義と湯浅県主である正四位下・湯浅権太夫玄晴は、熊野神の御分霊をお守りしながら、家臣数百名を連れて船団を組み東北の地へと旅立ちました。4月19日に紀州を出港し、5ヶ月後の9月9日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)に上陸しました。初めて熊野本宮神の御分霊が上陸された鮪立地区には、現在も業除神社(ごうのけじんじゃ)という神社が鎮座しています。
その後、熊野本宮神は大野東人や地元の人々に迎えられました。熊野本宮神の仮宮に供物を清めてお供えし、どこに熊野本宮神が鎮座されたいのかを占うために湯立神事を行ったところ「磐井郡鬼首山(現在の室根山)は日本武尊が皇業を始めた地なので、そこに祀ってほしい」という託宣があったので、鈴木家の家臣団や白馬17頭に乗った地元の長たちは熊野本宮神の御分霊とともに室根山へと向かいました。現在の室根山8合目に鎮座する室根神社では、御祭神として熊野本宮神(伊弉冊命)や熊野新宮神(速玉男命・事解男命)など熊野の神々をお祀りしています。
こちらの瀬織津姫神社は、熊野本宮神の仮社殿を設けて供物を塩水で清めて捧げ、熊野本宮神の託宣を受けた場所に瀬織津姫神をお祀りした神社なのだそうです。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による大津波で被災し、1300年の歴史を持つ神社も流失しました。現在の社殿は広島県呉市の宮大工の方が寄進された総ケヤキ造りの一間社流造の御本殿で、室根神社より御分霊を受けて、2012年に元の鎮座地より内陸側に400メートル離れた場所に建立されました。
----------------
以下Wikipedia 瀬織津姫より引用
熊野神社を遡り調べると熊野権現は瀬織津姫なりという説がある。大和政権がエミシ征伐の際、熊野権現を守り神とし北へ向かった。制圧した後、気仙沼市唐桑町に瀬織津姫神社、熊野神社などが鎮座した。東日本大震災の津波により流されたが、現在は再建されている。
----------------
私見
つまり、唐桑には瀬織津姫神社も瀬織津姫も残ったものの、熊野本宮神(現在の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも呼ばれる。須佐之男命ということになっているが、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係するとの説もあるが、やはりその素性は不詳)は現在の室根神社の地に祀られたものの、現在の室根神社本宮の祭神は伊弉册命(イザナミ神)であり、家都美御子大神ではない。瀬織津姫の名も無く消失している。
※ 室根神社新宮は後年祀られたもの。(速玉男命、事解男命)
せめて家都美御子大神にしておけば、一応熊野本宮神として筋が通るのに、わざわざ女神のイザナミ神を被せてきた辺り、この地にやって来た熊野の神は瀬織津姫だったのだろうと思う。
業除神社についてはこちらが詳しい。室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること (2011/09/29)
養老2年(718年)の頃に多賀城に鎮守府将軍として大野東人が着任しておりましたが、東人は蝦夷の勢力による反抗・反乱に悩まされていました。蝦夷勢力の反乱を沈めるには神々の助けを借りるしかないと考えた東人は、霊験あらたかである紀州牟婁郡に鎮座する熊野本宮神の東北への勧請願いを時の天皇である元正天皇に奏上しました。元正天皇もこの東人の願いを聞き入れ、蝦夷勢力鎮圧のために紀伊国國造や県主に対して東北へ熊野神の分霊社を建立することを命じました。
元正天皇の命を受けた紀州名草藤代県主である従三位中将・鈴木左衛門尉穂積重義と湯浅県主である正四位下・湯浅権太夫玄晴は、熊野神の御分霊をお守りしながら、家臣数百名を連れて船団を組み東北の地へと旅立ちました。4月19日に紀州を出港し、5ヶ月後の9月9日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)に上陸しました。初めて熊野本宮神の御分霊が上陸された鮪立地区には、現在も業除神社(ごうのけじんじゃ)という神社が鎮座しています。
その後、熊野本宮神は大野東人や地元の人々に迎えられました。熊野本宮神の仮宮に供物を清めてお供えし、どこに熊野本宮神が鎮座されたいのかを占うために湯立神事を行ったところ「磐井郡鬼首山(現在の室根山)は日本武尊が皇業を始めた地なので、そこに祀ってほしい」という託宣があったので、鈴木家の家臣団や白馬17頭に乗った地元の長たちは熊野本宮神の御分霊とともに室根山へと向かいました。現在の室根山8合目に鎮座する室根神社では、御祭神として熊野本宮神(伊弉冊命)や熊野新宮神(速玉男命・事解男命)など熊野の神々をお祀りしています。
こちらの瀬織津姫神社は、熊野本宮神の仮社殿を設けて供物を塩水で清めて捧げ、熊野本宮神の託宣を受けた場所に瀬織津姫神をお祀りした神社なのだそうです。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による大津波で被災し、1300年の歴史を持つ神社も流失しました。現在の社殿は広島県呉市の宮大工の方が寄進された総ケヤキ造りの一間社流造の御本殿で、室根神社より御分霊を受けて、2012年に元の鎮座地より内陸側に400メートル離れた場所に建立されました。
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以下Wikipedia 瀬織津姫より引用
熊野神社を遡り調べると熊野権現は瀬織津姫なりという説がある。大和政権がエミシ征伐の際、熊野権現を守り神とし北へ向かった。制圧した後、気仙沼市唐桑町に瀬織津姫神社、熊野神社などが鎮座した。東日本大震災の津波により流されたが、現在は再建されている。
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私見
つまり、唐桑には瀬織津姫神社も瀬織津姫も残ったものの、熊野本宮神(現在の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも呼ばれる。須佐之男命ということになっているが、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係するとの説もあるが、やはりその素性は不詳)は現在の室根神社の地に祀られたものの、現在の室根神社本宮の祭神は伊弉册命(イザナミ神)であり、家都美御子大神ではない。瀬織津姫の名も無く消失している。
※ 室根神社新宮は後年祀られたもの。(速玉男命、事解男命)
せめて家都美御子大神にしておけば、一応熊野本宮神として筋が通るのに、わざわざ女神のイザナミ神を被せてきた辺り、この地にやって来た熊野の神は瀬織津姫だったのだろうと思う。
業除神社についてはこちらが詳しい。室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること (2011/09/29)

2021.
05.
22
瀬織津姫の海の女神としての話題が出たので、ちょっとそちらのお話をしましょう。
3.11の時に津波に呑まれてしまいましたが、その後地元の人達によって再建された、宮城県唐桑半島にある、この名前でよく迫害されずに生き残ったなという、その名もズバリ
瀬織津姫神社。
まあ、何故か宮城県神社庁の神社検索には掲載されていないんですけど。
被災したので400Mほど陸側に再建されたのですが、たかが400Mしか移さなかったということは、高低差のある土地なのでしょう。
唐桑半島って、海にニョキッと飛び出ている程度に山がちの場所ですし。
Googleマップで見ると、現在地も元の鎮座地も川沿いです。
でも、津波で被災する程度に海沿いでもあります。
唐桑半島自体もそんなに大きな半島ではなく、そして半島なんですから海にぐるっと囲まれています。
さて。こちらの瀬織津姫は、早瀬の女神なのか海の女神なのか。
それとも、どちらでもないのか。
瀬織津姫には、月神や桜神の性格もあるようですし、迫害された女神ということは、元々は男女一対で祀られた神である可能性も高いです。
話を速秋津比売に戻しますが、速秋津比売には速秋津比古(ハヤアキツヒコ)という一対になる男神がいます。
大祓詞では海神以外の何ものでもないのに河口の神とされている不審もあって、私は速秋津比売にも海神以外の性格もあるんじゃないかと思うのです。
だって、大和(本州?)のことを、秋津洲(あきつしま)、っていうじゃないですか?
(つづく)
3.11の時に津波に呑まれてしまいましたが、その後地元の人達によって再建された、宮城県唐桑半島にある、この名前でよく迫害されずに生き残ったなという、その名もズバリ
瀬織津姫神社。
まあ、何故か宮城県神社庁の神社検索には掲載されていないんですけど。
被災したので400Mほど陸側に再建されたのですが、たかが400Mしか移さなかったということは、高低差のある土地なのでしょう。
唐桑半島って、海にニョキッと飛び出ている程度に山がちの場所ですし。
Googleマップで見ると、現在地も元の鎮座地も川沿いです。
でも、津波で被災する程度に海沿いでもあります。
唐桑半島自体もそんなに大きな半島ではなく、そして半島なんですから海にぐるっと囲まれています。
さて。こちらの瀬織津姫は、早瀬の女神なのか海の女神なのか。
それとも、どちらでもないのか。
瀬織津姫には、月神や桜神の性格もあるようですし、迫害された女神ということは、元々は男女一対で祀られた神である可能性も高いです。
話を速秋津比売に戻しますが、速秋津比売には速秋津比古(ハヤアキツヒコ)という一対になる男神がいます。
大祓詞では海神以外の何ものでもないのに河口の神とされている不審もあって、私は速秋津比売にも海神以外の性格もあるんじゃないかと思うのです。
だって、大和(本州?)のことを、秋津洲(あきつしま)、っていうじゃないですか?
(つづく)

2021.
05.
21
速秋津比売神──ハヤアキツヒメ。
古事記にも日本書紀にも誕生だけが記されている(記と紀では違うけれども)だけで、一緒に生まれた兄か弟でおそらく夫婦でもあろうと思われる神・ハヤアキツヒコがいる事以外は、エピソードのない神です。
だから、この速秋津比売の名を知っている人は、瀬織津姫と共に大祓詞に登場する祓戸四神のうちに一柱としてだと思います。
速秋津比売の名の由来については、『速/ハヤ』=神威を表す美称、『秋/アキ』=『開/アキ』、『津』=『港』、の女神、というのがwikiの説明です。
通説かどうか知りませんが、私はこれ以外の説明は見た事がありません。
でも、ですね。
速秋津比売は、
荒潮の潮の八百道の 八潮道の潮の八百曾に坐す 速開都比売と言ふ神
であって、ざっくり訳すとめっちゃ荒い流れの潮が数多の道に流れ、その数多の潮の流れが数多に出会う場所にいらっしゃる女神って言ってるんです大祓詞は。この記述の、
どの辺が河口の神なんです?
遙か彼方の潮が渦巻く海にいらっしゃる海の女神でしょうよ。
『あき』=『開』=開けている=大海原、『つ』=『の』(天津神の津などと同じ使用法)、『ヒメ』=姫神、じゃないんですか?
……とすると、気になるのが大祓詞では速秋津比売の前に来る瀬織津比売(セオリツヒメ/皆さん瀬織津姫と描くことが多いですが)の存在です。
祓戸大神のトップバッターとしての瀬織津比売は、
高山の末 低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す 瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ。
という役割で、『さくなだり』に諸説有りで『勢いよく流れ落ちる』とか『岩を割いて流れ落ちる』とかありますが、とにかく急流にいらっしゃる水の女神、といういうことです。
記紀には全く登場しないので(私はホツマツタヱは信用していません。ここで気分が悪くなった方は静かにページを閉じて下さい)、具体的なエピソードはこの大祓詞の記述のみです。
この記述により、瀬織津姫は『水神』『川の神』『滝の神』などとみなされているようです。
でも、ですね。
九州以南では、瀬織津姫は海の女神として信仰されているのです。
滝、川の水神と記述されているのに、海の女神の性格を持つ瀬織津比売。
河口の神とされながら、大祓詞では海の女神としか読めない速秋津比売。
何か、ありそうな、気がする。
(つづく)
古事記にも日本書紀にも誕生だけが記されている(記と紀では違うけれども)だけで、一緒に生まれた兄か弟でおそらく夫婦でもあろうと思われる神・ハヤアキツヒコがいる事以外は、エピソードのない神です。
だから、この速秋津比売の名を知っている人は、瀬織津姫と共に大祓詞に登場する祓戸四神のうちに一柱としてだと思います。
速秋津比売の名の由来については、『速/ハヤ』=神威を表す美称、『秋/アキ』=『開/アキ』、『津』=『港』、の女神、というのがwikiの説明です。
通説かどうか知りませんが、私はこれ以外の説明は見た事がありません。
でも、ですね。
速秋津比売は、
荒潮の潮の八百道の 八潮道の潮の八百曾に坐す 速開都比売と言ふ神
であって、ざっくり訳すとめっちゃ荒い流れの潮が数多の道に流れ、その数多の潮の流れが数多に出会う場所にいらっしゃる女神って言ってるんです大祓詞は。この記述の、
どの辺が河口の神なんです?
遙か彼方の潮が渦巻く海にいらっしゃる海の女神でしょうよ。
『あき』=『開』=開けている=大海原、『つ』=『の』(天津神の津などと同じ使用法)、『ヒメ』=姫神、じゃないんですか?
……とすると、気になるのが大祓詞では速秋津比売の前に来る瀬織津比売(セオリツヒメ/皆さん瀬織津姫と描くことが多いですが)の存在です。
祓戸大神のトップバッターとしての瀬織津比売は、
高山の末 低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す 瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ。
という役割で、『さくなだり』に諸説有りで『勢いよく流れ落ちる』とか『岩を割いて流れ落ちる』とかありますが、とにかく急流にいらっしゃる水の女神、といういうことです。
記紀には全く登場しないので(私はホツマツタヱは信用していません。ここで気分が悪くなった方は静かにページを閉じて下さい)、具体的なエピソードはこの大祓詞の記述のみです。
この記述により、瀬織津姫は『水神』『川の神』『滝の神』などとみなされているようです。
でも、ですね。
九州以南では、瀬織津姫は海の女神として信仰されているのです。
滝、川の水神と記述されているのに、海の女神の性格を持つ瀬織津比売。
河口の神とされながら、大祓詞では海の女神としか読めない速秋津比売。
何か、ありそうな、気がする。
(つづく)

2021.
05.
20
ちょっとある調べ物をしていて、『総社』というものに行き着いた私。
総社にはその国(この辺りを言うなら陸奥国)の神社の神様を集めまくった所なのですが、それでも一応『主祭神』がいらっしゃるのです。
つまり、その国で最も重要な神、っていうことですよね。
因みに、岡山県にある備中国総社宮(びっちゅうのくにそうしゃぐう)では、
主祭神:大名持命
須世理姫命
なんです!
よっしゃー!よくやってくれました備中国!!
でも、何で備中国(岡山県西部)なんでしょうね?出雲じゃなくて。
因みに、出雲国の総社は松江市の六所神社なのですが、六所という程度に主祭神は
伊弊諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
月夜見尊(つきよみのみこと)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
大己貴尊(おおなむちのみこと)
という六柱のラインナップ。
不敬ですが、
……なんじゃこりゃ。
出雲というとスサノオ様の英雄譚が有名で、あとは日本一の色好み大国主命ですよね。
男女神で主祭神にするなら、クシナダヒメ様やスセリヒメ様が相応しいというものです。
あと、出雲には結構イザナミ神が信仰されているので、そのパートナーとしてはイザナギ神でしょうか。
なのに、堂々と天照大神が紛れ込んでいて、どさくさに紛れて出雲ではあまり信仰されていないイザナギ神や謎のツクヨミ神を詰め込んで、出雲の土着の女神を封じている感が満々です。
※ 流石にスサノオ様とオオナムチ様は無視出来なかったと見える
男女対の神って、それだけでパワーが段違いなんです。
だから、お上としては、あまり自分の方に都合がよろしくない土地の神は、男女神で祀られたくないし、迫害する場合には女神がターゲットになる。
有名なのが瀬織津姫、出雲ならスセリヒメ、宮城~岩手近辺では志波姫です。
それで、私は志波彦様と志波姫様を出会わせて差し上げたくて仕方が無いのですが、……ちゃんと、いらっしゃいましたね。
名前変えてますけど、上手く隠して男女神のまま残してくれたのか。
それとも、違う名前を被せて封じてしまったのか。
陸奥総社宮(むつそうしゃのみや/むつそうじゃぐう)の主祭神は、
八塩道老翁神
八塩道老女神
です。
なんて読むのでしょうか。
わかりませんが、八塩道老翁神の方は、塩竈神社別宮で《表の祭神》として出されている塩土老翁神(シオツチノオジ)の真似でしょう。
でも、本来の塩竈神社の祭神は男女対の神です。
過去に堂々とそんなお札やら掛け軸やらが出回っていたんですから、確実に女神は存在したんだし、その腕に子を抱いていて安産の御利益で有名な程度に老女ではなかったはずなのですが、どうも志波姫神は姥神(うばがみ)信仰に追いやられる形で老婆にされている形跡が他の神社にもあります。
現在、いちど塩竈神社から追い出された志波彦神と志波姫神は、志波彦神だけが《志波彦大神》として丁重に、塩竈神社境内の志波彦神社に祀られていらっしゃいます。
でも、志波姫神をその名のままに祀っている神社は存在せず、行方不明の状態です。
八塩道老翁神と、八塩道老女神。
この二柱の神が、密かに志波彦神と志波姫神として祀られていてくれればいいな…と心から思います。
多分、そうなんじゃないかな、とも思うのは、この二柱が主祭神というのは宮城県神社庁の正式な情報なのに、総社のHPには記載がないのです。
つまり、表に出したくない名前なのでしょう。
実は、かつて祭神に関するページはあったのですが、現在はこんなことになっちゃってるんですよね。
このページには、御祭神だけではなく年間の祭事も載っていたようなのですが、コロナ禍で実施出来なくなってしまったので削除したのかなぁとも思ったのですが、祭事のご案内ページはちゃんと存在するんですよね。
ねぇ。陸奥総社宮様。
どうしてなのかなぁ?
総社にはその国(この辺りを言うなら陸奥国)の神社の神様を集めまくった所なのですが、それでも一応『主祭神』がいらっしゃるのです。
つまり、その国で最も重要な神、っていうことですよね。
因みに、岡山県にある備中国総社宮(びっちゅうのくにそうしゃぐう)では、
主祭神:大名持命
須世理姫命
なんです!
よっしゃー!よくやってくれました備中国!!
でも、何で備中国(岡山県西部)なんでしょうね?出雲じゃなくて。
因みに、出雲国の総社は松江市の六所神社なのですが、六所という程度に主祭神は
伊弊諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
月夜見尊(つきよみのみこと)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
大己貴尊(おおなむちのみこと)
という六柱のラインナップ。
不敬ですが、
……なんじゃこりゃ。
出雲というとスサノオ様の英雄譚が有名で、あとは日本一の色好み大国主命ですよね。
男女神で主祭神にするなら、クシナダヒメ様やスセリヒメ様が相応しいというものです。
あと、出雲には結構イザナミ神が信仰されているので、そのパートナーとしてはイザナギ神でしょうか。
なのに、堂々と天照大神が紛れ込んでいて、どさくさに紛れて出雲ではあまり信仰されていないイザナギ神や謎のツクヨミ神を詰め込んで、出雲の土着の女神を封じている感が満々です。
※ 流石にスサノオ様とオオナムチ様は無視出来なかったと見える
男女対の神って、それだけでパワーが段違いなんです。
だから、お上としては、あまり自分の方に都合がよろしくない土地の神は、男女神で祀られたくないし、迫害する場合には女神がターゲットになる。
有名なのが瀬織津姫、出雲ならスセリヒメ、宮城~岩手近辺では志波姫です。
それで、私は志波彦様と志波姫様を出会わせて差し上げたくて仕方が無いのですが、……ちゃんと、いらっしゃいましたね。
名前変えてますけど、上手く隠して男女神のまま残してくれたのか。
それとも、違う名前を被せて封じてしまったのか。
陸奥総社宮(むつそうしゃのみや/むつそうじゃぐう)の主祭神は、
八塩道老翁神
八塩道老女神
です。
なんて読むのでしょうか。
わかりませんが、八塩道老翁神の方は、塩竈神社別宮で《表の祭神》として出されている塩土老翁神(シオツチノオジ)の真似でしょう。
でも、本来の塩竈神社の祭神は男女対の神です。
過去に堂々とそんなお札やら掛け軸やらが出回っていたんですから、確実に女神は存在したんだし、その腕に子を抱いていて安産の御利益で有名な程度に老女ではなかったはずなのですが、どうも志波姫神は姥神(うばがみ)信仰に追いやられる形で老婆にされている形跡が他の神社にもあります。
現在、いちど塩竈神社から追い出された志波彦神と志波姫神は、志波彦神だけが《志波彦大神》として丁重に、塩竈神社境内の志波彦神社に祀られていらっしゃいます。
でも、志波姫神をその名のままに祀っている神社は存在せず、行方不明の状態です。
八塩道老翁神と、八塩道老女神。
この二柱の神が、密かに志波彦神と志波姫神として祀られていてくれればいいな…と心から思います。
多分、そうなんじゃないかな、とも思うのは、この二柱が主祭神というのは宮城県神社庁の正式な情報なのに、総社のHPには記載がないのです。
つまり、表に出したくない名前なのでしょう。
実は、かつて祭神に関するページはあったのですが、現在はこんなことになっちゃってるんですよね。
このページには、御祭神だけではなく年間の祭事も載っていたようなのですが、コロナ禍で実施出来なくなってしまったので削除したのかなぁとも思ったのですが、祭事のご案内ページはちゃんと存在するんですよね。
ねぇ。陸奥総社宮様。
どうしてなのかなぁ?

2021.
05.
19
所在地
鳥取県日野郡日野町板井原996番(日野郡根雨町大字板井原字大西)
社格 村社
祭神
大己貴命、須勢理姫命
歴史:鳥取県神社誌より
創立年代不詳。
往古より山王権化と称し、産土神として崇敬す。
寛文7年6月藩主池田氏社領高五斗八升四合先規に従ひ寄附せらる。
明治元年神社改正の際板井原神社と改称、村内久津懸谷鎮座の久津懸大明神を合祀す。
同5年、村社に列す。
同6年、板井原神社と改称す。
大正10年10月31日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿、祭器庫
境内坪数=550坪 氏子数=75戸
--------------------
夫妻神で祀られている神社があったとは!
しかも、出雲よりだいぶ内陸の鳥取県に、ひっそりと。
※ 大抵はスクナヒコナ神も一緒。
※ というか、スクナヒコナ神が御一緒していても、この夫妻神が二柱だけで祀られている所は本当少ない。
※ そしてご夫妻だけというのは春日大社 夫婦大国社しか無いと思っていた。
尤も、春日大社の夫婦大国社は、オオナムチ命ではなく大国主命なんですけど。
私、今でも判らないんですよね。本当に
オオナムチ=オオクニヌシ なのかどうか。
須勢理ヒメと須世理ヒメと和加須世理ヒメが、全て同じ女神様なのかどうか。
鳥取県日野郡日野町板井原996番(日野郡根雨町大字板井原字大西)
社格 村社
祭神
大己貴命、須勢理姫命
歴史:鳥取県神社誌より
創立年代不詳。
往古より山王権化と称し、産土神として崇敬す。
寛文7年6月藩主池田氏社領高五斗八升四合先規に従ひ寄附せらる。
明治元年神社改正の際板井原神社と改称、村内久津懸谷鎮座の久津懸大明神を合祀す。
同5年、村社に列す。
同6年、板井原神社と改称す。
大正10年10月31日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、拝殿、神楽殿、祭器庫
境内坪数=550坪 氏子数=75戸
--------------------
夫妻神で祀られている神社があったとは!
しかも、出雲よりだいぶ内陸の鳥取県に、ひっそりと。
※ 大抵はスクナヒコナ神も一緒。
※ というか、スクナヒコナ神が御一緒していても、この夫妻神が二柱だけで祀られている所は本当少ない。
※ そしてご夫妻だけというのは春日大社 夫婦大国社しか無いと思っていた。
尤も、春日大社の夫婦大国社は、オオナムチ命ではなく大国主命なんですけど。
私、今でも判らないんですよね。本当に
オオナムチ=オオクニヌシ なのかどうか。
須勢理ヒメと須世理ヒメと和加須世理ヒメが、全て同じ女神様なのかどうか。

2021.
05.
18
所在地
鳥取県西伯郡大山町中高152番(鳥取県西伯郡大山町唐王725番/西伯郡所子村大字唐王字村屋敷)
祭神
須勢理毘売命、(菅原道真)
歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳。須勢理毘売命は古来唐王御前神社と号し、普く諸民の尊崇他に異なれる旧社なり。
社伝に曰く、須勢理毘売命は大国主神と共に夜見の国より帰り坐して土地経営の功を畢へ、稼穡の道を立て疾苦の患難を救助の神咒の法則を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮に鎮座し命は此地に鎮座すと。
故に該神社区域内宏大なりしこと往古の規模を存せり、字御前畑と申所西側にあり、井屋敷とて御手洗の井泉がし側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢の輩此の水を汲めば忽ち濁る。
即ち社前の砂を投じて浄むれば自ら清水となる。
社伝口碑に拠るに、此の所正しく 須勢理毘売命の御陵ならむと、太古より一社の伝説あり。
蓋し該地位は大山を距ること三里強其の中間にあり、往古は此地も出雲の国境なるや詳かならざれども、出雲風土記に持曳く綱は夜見島これなり云々 中世海洋を隔つる外国は総て加羅と通称せり。
故を以て夜見国より帰り給ひしをも唐土より来り給へるものとし、又大国主神の后神なるを以て唐王御前神と称へ奉りしなり、亦命の御陵と認むる所以は神験不測の神咒方神蹟今猶此地に存在す。
本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり、中古仏者の為めに惑はされ命の尊陵たるを知らず、往々祭祀を廃絶し社宇衰頽す、諸人該玉籬内の砂を請ひ或ひ或は之を御手洗の井泉に滌きて其の身を清むれば年中虫毒の難に触るゝこと無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。
故に崇敬の信徒日に増し月に加はる、菅原道真は古来天満宮と号し一宮神社の摂社なり。
明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と改称合祀せらる。
補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神楽殿
境内坪数 222坪 崇敬戸数 40戸
鳥取県西伯郡大山町中高152番(鳥取県西伯郡大山町唐王725番/西伯郡所子村大字唐王字村屋敷)
祭神
須勢理毘売命、(菅原道真)
歴史:鳥取件神社誌より
創立年月不詳。須勢理毘売命は古来唐王御前神社と号し、普く諸民の尊崇他に異なれる旧社なり。
社伝に曰く、須勢理毘売命は大国主神と共に夜見の国より帰り坐して土地経営の功を畢へ、稼穡の道を立て疾苦の患難を救助の神咒の法則を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮に鎮座し命は此地に鎮座すと。
故に該神社区域内宏大なりしこと往古の規模を存せり、字御前畑と申所西側にあり、井屋敷とて御手洗の井泉がし側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢の輩此の水を汲めば忽ち濁る。
即ち社前の砂を投じて浄むれば自ら清水となる。
社伝口碑に拠るに、此の所正しく 須勢理毘売命の御陵ならむと、太古より一社の伝説あり。
蓋し該地位は大山を距ること三里強其の中間にあり、往古は此地も出雲の国境なるや詳かならざれども、出雲風土記に持曳く綱は夜見島これなり云々 中世海洋を隔つる外国は総て加羅と通称せり。
故を以て夜見国より帰り給ひしをも唐土より来り給へるものとし、又大国主神の后神なるを以て唐王御前神と称へ奉りしなり、亦命の御陵と認むる所以は神験不測の神咒方神蹟今猶此地に存在す。
本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり、中古仏者の為めに惑はされ命の尊陵たるを知らず、往々祭祀を廃絶し社宇衰頽す、諸人該玉籬内の砂を請ひ或ひ或は之を御手洗の井泉に滌きて其の身を清むれば年中虫毒の難に触るゝこと無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。
故に崇敬の信徒日に増し月に加はる、菅原道真は古来天満宮と号し一宮神社の摂社なり。
明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と改称合祀せらる。
補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、弊殿、拝殿、神楽殿
境内坪数 222坪 崇敬戸数 40戸

2021.
05.
17
長らく読書から遠ざかっていましたが、久々に面白く、そしてかなり衝撃的な本を読んだので、紹介したいと思います。
例えば『論語』は結構ろくでもないことを言っていて、52ページから引用させて頂きますが、
>たとえば、父親が泥棒だったとしたなら、嘘を吐いてでも父親を守るようにすべきだというのが論語のいう「孝」なんです。
>そういうところから始まり、中国人は嘘をつくのが悪いことだとは思っていないわけです。
嘘は悪いものであり、何故悪いかというと他人に対しては不誠実であり、自分に対しては罪で恥であるという日本人の感覚は、まったくかの大陸の人々には通用しないのです。
だって、あっちでは他人に対して誠実である必要はないのだし、当然に罪悪感を感じる理由もないんですから。
悪気のない大嘘吐きの大国。
是非ともお付き合いは最小限にしたいっていうか、せめてこれからでも一切関わりたくない感じです。
そして、日本の教育では「日本史」と「世界史」に分かれており、世界史には日本は殆ど登場しません。
出てくるのは近世で他国と戦争をした時くらいではないでしょうか。
実際、日本は大陸から程よく離れた島国であり、有史以来民族が対立して殺し合いを延々と続けてきた大陸とは無関係だったからです。
実は日本が戦国時代であった頃、ヨーロッパ各国は大航海時代とかいう名目の大侵略時代をやっていて、キリスト教宣教師が尖兵を務め、寺や神社を破壊され多くの日本人が奴隷として海外に連れ去られたという悲劇があるのですが、これは私は学校で教わった覚えはないし、今も教えていませんよねきっと。
寧ろ、日本史の方で秀吉や家康が酷いキリシタン弾圧をした挙げ句に、世界から遅れを取る《鎖国という愚かな歴史》を歩んだのだと補強されている。
どの辺愚かなんですかね?
侵略者に国土を踏ませないなんていうのは当たり前でしょうよ。
私の先祖は伊達家に仕えていましたが、この件に関してはスペインとお近付きになろうとした政宗公よりも、奴隷にされた日本人を返せと交渉し、それは無理と言われて大いに怒って宣教師を追い出そうとした秀吉、それでも日本に入り込んでくる宣教師を完全に締め出して、《貿易はするけれども出島の先には外国人を一歩たりとも日本に入れない》路線に切り替えた家康が正しいです。
その程度に、日本の「世界史」は欧米、特に第二次世界大戦戦勝国の悪事は今の時代になっても隠されたままだということです。
日本が世界史から殆ど孤立した状態であり続けたことは、寧ろ日本にとっては幸いであり、日本が勝ち取った平和であり名誉ですらあります。
そういう日本だからこそ、大陸に対して中立的な立場で良いことも悪いこともただに事実として新しい世界史を紡ぐことが出来る。
この本は、そのようなスタンスから書かれた本です。
是非、ご一読頂きたいとお勧めします。
例えば『論語』は結構ろくでもないことを言っていて、52ページから引用させて頂きますが、
>たとえば、父親が泥棒だったとしたなら、嘘を吐いてでも父親を守るようにすべきだというのが論語のいう「孝」なんです。
>そういうところから始まり、中国人は嘘をつくのが悪いことだとは思っていないわけです。
嘘は悪いものであり、何故悪いかというと他人に対しては不誠実であり、自分に対しては罪で恥であるという日本人の感覚は、まったくかの大陸の人々には通用しないのです。
だって、あっちでは他人に対して誠実である必要はないのだし、当然に罪悪感を感じる理由もないんですから。
悪気のない大嘘吐きの大国。
是非ともお付き合いは最小限にしたいっていうか、せめてこれからでも一切関わりたくない感じです。
そして、日本の教育では「日本史」と「世界史」に分かれており、世界史には日本は殆ど登場しません。
出てくるのは近世で他国と戦争をした時くらいではないでしょうか。
実際、日本は大陸から程よく離れた島国であり、有史以来民族が対立して殺し合いを延々と続けてきた大陸とは無関係だったからです。
実は日本が戦国時代であった頃、ヨーロッパ各国は大航海時代とかいう名目の大侵略時代をやっていて、キリスト教宣教師が尖兵を務め、寺や神社を破壊され多くの日本人が奴隷として海外に連れ去られたという悲劇があるのですが、これは私は学校で教わった覚えはないし、今も教えていませんよねきっと。
寧ろ、日本史の方で秀吉や家康が酷いキリシタン弾圧をした挙げ句に、世界から遅れを取る《鎖国という愚かな歴史》を歩んだのだと補強されている。
どの辺愚かなんですかね?
侵略者に国土を踏ませないなんていうのは当たり前でしょうよ。
私の先祖は伊達家に仕えていましたが、この件に関してはスペインとお近付きになろうとした政宗公よりも、奴隷にされた日本人を返せと交渉し、それは無理と言われて大いに怒って宣教師を追い出そうとした秀吉、それでも日本に入り込んでくる宣教師を完全に締め出して、《貿易はするけれども出島の先には外国人を一歩たりとも日本に入れない》路線に切り替えた家康が正しいです。
その程度に、日本の「世界史」は欧米、特に第二次世界大戦戦勝国の悪事は今の時代になっても隠されたままだということです。
日本が世界史から殆ど孤立した状態であり続けたことは、寧ろ日本にとっては幸いであり、日本が勝ち取った平和であり名誉ですらあります。
そういう日本だからこそ、大陸に対して中立的な立場で良いことも悪いこともただに事実として新しい世界史を紡ぐことが出来る。
この本は、そのようなスタンスから書かれた本です。
是非、ご一読頂きたいとお勧めします。
