2020.
07.
31
※ 別カテゴリの記事が続いて、中4日空きましたので、前回の『その5』は20/07/25になります。
明治天皇は、日本中の怨霊という怨霊の名誉を回復なさった御方です。
具体的に言うと、権力闘争の敗者となった人が無念のまま亡くなり、その後に疫病が流行ったり天変地異が起こったりすると、勝者側は大抵後ろめたい何かをやらかしているので、恐れおののいて、これは@@の祟りに違いないと震え上がることになる訳です。
大抵は祟りではなく偶然なのでしょうけれども、例えば菅原道真公は宮殿に落雷炎上、個人攻撃で落雷で死亡という事件が相次いだ為、偶然で片付けるには怖すぎたのでしょう。
だから、別名『雷公』と呼ばれ、『天神』にまでバージョンアップついでに、
日本三大怨霊トップにランクインする事になった訳です。
※ 他のお二方は、平将門公と崇徳院です
三大怨霊まで行かなくとも、天皇家とその周囲には、いつの世も陰謀が渦巻き、勝者と敗者が生まれ、怨霊認定されたり、或いは『この先祟りを為すかもしれない』と言われるような不幸な人生を生きて不幸に亡くなった方々が、数多いらっしゃる訳です。
そういう人々の御魂を、ひとつも逃すものかという勢いと熱意で名誉回復と祭祀をなさったのが、明治天皇であったのです。
事実上長く武士に実権を奪われたままであった天皇が、再び政治の表舞台に出て新しい世を築くに当たって、明治天皇はひとつの憂いも残したくなかったのでありましょう。
名誉回復は、『神』にも及んだ模様です。
遙かな昔、朝廷の意志で塩竈神社から追い出された神がいた。
その神は伝説のある冠川(七北田川のこと)のほとりの八坂神社境内に祀られていたけれども、その後お世話する人々が絶えたのか、すっかりその社殿は朽ち果てていた……
選りに選って、《あの》塩竈の神です。
かつては多賀城の鬼門に位置し、しかしその多賀城は滅びて久しい。そんな場所におわした、朝廷が虐げた神が、遷座された場所で大切にされていればまだ良かったものの、寂れたお社に放置されていた。
コレ、絶対ヤバイ案件。
…と、明治天皇も深刻に受け止められたのでしょう。
それが【こぼれ話】言うところの『明治天皇の思し召し』であり、塩竈神社宮司の言う『天下の一大事』と言う訳です。
(つづく)
明治天皇は、日本中の怨霊という怨霊の名誉を回復なさった御方です。
具体的に言うと、権力闘争の敗者となった人が無念のまま亡くなり、その後に疫病が流行ったり天変地異が起こったりすると、勝者側は大抵後ろめたい何かをやらかしているので、恐れおののいて、これは@@の祟りに違いないと震え上がることになる訳です。
大抵は祟りではなく偶然なのでしょうけれども、例えば菅原道真公は宮殿に落雷炎上、個人攻撃で落雷で死亡という事件が相次いだ為、偶然で片付けるには怖すぎたのでしょう。
だから、別名『雷公』と呼ばれ、『天神』にまでバージョンアップついでに、
日本三大怨霊トップにランクインする事になった訳です。
※ 他のお二方は、平将門公と崇徳院です
三大怨霊まで行かなくとも、天皇家とその周囲には、いつの世も陰謀が渦巻き、勝者と敗者が生まれ、怨霊認定されたり、或いは『この先祟りを為すかもしれない』と言われるような不幸な人生を生きて不幸に亡くなった方々が、数多いらっしゃる訳です。
そういう人々の御魂を、ひとつも逃すものかという勢いと熱意で名誉回復と祭祀をなさったのが、明治天皇であったのです。
事実上長く武士に実権を奪われたままであった天皇が、再び政治の表舞台に出て新しい世を築くに当たって、明治天皇はひとつの憂いも残したくなかったのでありましょう。
名誉回復は、『神』にも及んだ模様です。
遙かな昔、朝廷の意志で塩竈神社から追い出された神がいた。
その神は伝説のある冠川(七北田川のこと)のほとりの八坂神社境内に祀られていたけれども、その後お世話する人々が絶えたのか、すっかりその社殿は朽ち果てていた……
選りに選って、《あの》塩竈の神です。
かつては多賀城の鬼門に位置し、しかしその多賀城は滅びて久しい。そんな場所におわした、朝廷が虐げた神が、遷座された場所で大切にされていればまだ良かったものの、寂れたお社に放置されていた。
コレ、絶対ヤバイ案件。
…と、明治天皇も深刻に受け止められたのでしょう。
それが【こぼれ話】言うところの『明治天皇の思し召し』であり、塩竈神社宮司の言う『天下の一大事』と言う訳です。
(つづく)

2020.
07.
30
続きます。
現代語訳:二柱の神は教えに従って、酒を用意した。やがて子が生まれた時、やはりその大蛇が入口にやってきて、その子を吞もうとした。
ちょっと待てェェェ!!スサノオ様、今にも出ちゃいそうな妊婦さんを働かせたんかい!!
…あ、いや、冷静になれ自分。
妊婦さんはどうやら女王様っぽいから、そういう事は下々の者がやってくれたのに違いない。
現代語訳:そこで素戔嗚尊は大蛇に、「あなたは恐れ多い神様です。おもてなし申し上げます」と言われた。そして、八つの甕(かめ)の酒を、八つの口に入れた。
・・・・・・・・・・・・・・。
これ、御神酒(おみき)じゃね?
地鎮祭とか、起工式とかで、神様にお酒供えるじゃないですか。アレですアレ。
出雲大社の宮司さんによると、ヤマタノオロチは斐伊川だそうなので、スサノオ様はこれから治水工事をするのかもしれません。
ヤマトノオロチ退治=製鉄説で、これから製鉄所造りますかもしれませんが。
ていうか、どっちでもよくない?
とにかく、日本では恵みの神と荒ぶる神は表裏一体なのです。
ヤマタノオロチは、赤子を喰らう恐ろしい化物から、その性質と姿を変えるのです。
現代語訳:そのうち蛇は、酒を飲んで眠った。素戔嗚尊は剣を抜いて斬りつけた。
安らかになった偉大な蛇神様を、解体作業するスサノオ様。
宝物は大抵魔物に守られていて、倒したヒーローのものになるのがお約束なので宝探しです。
現代語訳:すると尾を斬るときに剣の刃が少し欠けた。割いてご覧になると、剣が尾の中にあった。
スサノオ様、宝物をゲットです。
古き剣が欠けても、新しい神剣を得たのです。
剣とは蛇ですから、ヤマタノオロチという蛇は新しい神聖な蛇神の御魂を宿す剣に生まれ変わり、スサノオ様のトーテムはアマテラスの誓約以来ずっと《剣》なのでしょう。
現代語訳:これを草薙剣と名づけた。これは今、尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)にある。すなわち熱田の祝部(はふり)がお祀りしている神がこれである。
この時点で、何故か草薙剣なんですね。まだヤマトタケルは産まれていないし、当然に草を薙いでもいないと思うんですけど。
つまり、フライング表記しているか、この時点で『くさなぎ』であったか、どっちかです。
(つづく)
現代語訳:二柱の神は教えに従って、酒を用意した。やがて子が生まれた時、やはりその大蛇が入口にやってきて、その子を吞もうとした。
ちょっと待てェェェ!!スサノオ様、今にも出ちゃいそうな妊婦さんを働かせたんかい!!
…あ、いや、冷静になれ自分。
妊婦さんはどうやら女王様っぽいから、そういう事は下々の者がやってくれたのに違いない。
現代語訳:そこで素戔嗚尊は大蛇に、「あなたは恐れ多い神様です。おもてなし申し上げます」と言われた。そして、八つの甕(かめ)の酒を、八つの口に入れた。
・・・・・・・・・・・・・・。
これ、御神酒(おみき)じゃね?
地鎮祭とか、起工式とかで、神様にお酒供えるじゃないですか。アレですアレ。
出雲大社の宮司さんによると、ヤマタノオロチは斐伊川だそうなので、スサノオ様はこれから治水工事をするのかもしれません。
ヤマトノオロチ退治=製鉄説で、これから製鉄所造りますかもしれませんが。
ていうか、どっちでもよくない?
とにかく、日本では恵みの神と荒ぶる神は表裏一体なのです。
ヤマタノオロチは、赤子を喰らう恐ろしい化物から、その性質と姿を変えるのです。
現代語訳:そのうち蛇は、酒を飲んで眠った。素戔嗚尊は剣を抜いて斬りつけた。
安らかになった偉大な蛇神様を、解体作業するスサノオ様。
宝物は大抵魔物に守られていて、倒したヒーローのものになるのがお約束なので宝探しです。
現代語訳:すると尾を斬るときに剣の刃が少し欠けた。割いてご覧になると、剣が尾の中にあった。
スサノオ様、宝物をゲットです。
古き剣が欠けても、新しい神剣を得たのです。
剣とは蛇ですから、ヤマタノオロチという蛇は新しい神聖な蛇神の御魂を宿す剣に生まれ変わり、スサノオ様のトーテムはアマテラスの誓約以来ずっと《剣》なのでしょう。
現代語訳:これを草薙剣と名づけた。これは今、尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)にある。すなわち熱田の祝部(はふり)がお祀りしている神がこれである。
この時点で、何故か草薙剣なんですね。まだヤマトタケルは産まれていないし、当然に草を薙いでもいないと思うんですけど。
つまり、フライング表記しているか、この時点で『くさなぎ』であったか、どっちかです。
(つづく)

2020.
07.
29
※ 【神社仏閣を語ろう】と【皇室】カテゴリの記事を書いていて、中5日空けましたので、前回の『その2』は20/07/23の記事になります。
女王様が妊婦さんですので、今回メインにしている第八段一書(二)という異伝では、日本書紀本文や古事記で言うような、おじいさんとおばあさんという描写はありません。
子が発生する程度に、まだピチピチなんでしょうか?
原文:夫妻共愁、乃告素戔嗚尊曰「我生兒雖多、毎生輙有八岐大蛇來呑、不得一存。今吾且産、恐亦見呑、是以哀傷。」
現代語訳:夫妻が共に悲しんで言うには、「私が生んだ子は沢山ありましたが、生むたびに八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がやってきて呑んでしまいます。一人も生き残っていません。これから私が生む子も、恐らく吞まれてしまうでしょう。それで悲しんでいます」
何人赤ちゃんが犠牲になってしまったのか、その性別がどうであったのかは、この異伝では不明です。
でも、私は3児の母なんですけど、それでも『3人産んだ』とは言っても『沢山産んだ』とは言いません。もっと多くないと沢山とは言えない。
私の祖父が、『俺は9人きょうだいの下から2番目だ』と言っていたので、私の曾祖母なら『沢山産んだ』と胸を張って言う権利があると思います。
やはり、胎児クシナダちゃんは、8人きょうだいの末っ子の位置なのでしょう。
そして、それほど沢山産んだのなら、翁(おきな)・媼(おうな)と本文のように書かれていなくても、妊婦さんでも、
推定アラフォーで、人生50年の時代なら、立派に翁(おじいさん)と媼(おばあさん)だと思われます。
※ 40代の自然妊娠は、確率はかなり低いですが有り得ます
そこでスサノオ様は、アラフォー夫妻にアドバイスします。
原文:汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。
現代語訳:あなたは沢山の果実で、八つの甕(かめ)に酒を造りなさい。私はあなたのために、蛇を殺してあげましょう。
やっぱり八が大好きなんですねスサノオ様。
殺意満々でヤマタノオロチを迎え撃つ模様です。
(つづく!)
女王様が妊婦さんですので、今回メインにしている第八段一書(二)という異伝では、日本書紀本文や古事記で言うような、おじいさんとおばあさんという描写はありません。
子が発生する程度に、まだピチピチなんでしょうか?
原文:夫妻共愁、乃告素戔嗚尊曰「我生兒雖多、毎生輙有八岐大蛇來呑、不得一存。今吾且産、恐亦見呑、是以哀傷。」
現代語訳:夫妻が共に悲しんで言うには、「私が生んだ子は沢山ありましたが、生むたびに八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がやってきて呑んでしまいます。一人も生き残っていません。これから私が生む子も、恐らく吞まれてしまうでしょう。それで悲しんでいます」
何人赤ちゃんが犠牲になってしまったのか、その性別がどうであったのかは、この異伝では不明です。
でも、私は3児の母なんですけど、それでも『3人産んだ』とは言っても『沢山産んだ』とは言いません。もっと多くないと沢山とは言えない。
私の祖父が、『俺は9人きょうだいの下から2番目だ』と言っていたので、私の曾祖母なら『沢山産んだ』と胸を張って言う権利があると思います。
やはり、胎児クシナダちゃんは、8人きょうだいの末っ子の位置なのでしょう。
そして、それほど沢山産んだのなら、翁(おきな)・媼(おうな)と本文のように書かれていなくても、妊婦さんでも、
推定アラフォーで、人生50年の時代なら、立派に翁(おじいさん)と媼(おばあさん)だと思われます。
※ 40代の自然妊娠は、確率はかなり低いですが有り得ます
そこでスサノオ様は、アラフォー夫妻にアドバイスします。
原文:汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。
現代語訳:あなたは沢山の果実で、八つの甕(かめ)に酒を造りなさい。私はあなたのために、蛇を殺してあげましょう。
やっぱり八が大好きなんですねスサノオ様。
殺意満々でヤマタノオロチを迎え撃つ模様です。
(つづく!)

2020.
07.
28
そして、200匹以上の蚕が、それぞれの繭を作る季節が来た。
私と妹は、大騒ぎすることになった。
おとなしく蔟の格子の中で繭作りをする幼虫が殆どだったけれども、そうじゃないやつらも結構いたんである。
二段ベッドの隅っこで糸を吐き始めたり、僅かに開いていた押し入れの襖の間に繭を作っちゃったやつもいた。
つまり、それなりの数が、繭を作りやすい環境を求めて、箱から脱出していたんである。
これ、如何にも虫嫌いっぽいおわださまだったら、絶対耐えられないだろうな~。
今上の田植えの儀式の画像はすぐに公開されたのに、おわださまの養蚕はマスク顔で車からお手振り写真だけなのをネットで笑われると、後出しジャンケンみたいに写真を出されましたもんね。
※ 皇室マニアが指摘するところによると、実際の養蚕日とおわださまの公務日の数が一致していないので、実際には作業はほぼしていないロケ写真だろうという分析
※ 私自身は断言出来ません念の為
でも、これだけは断言できる。
あの、公開された手作り感満々の薄っぺらい紙の蔟では、蚕はあんなにおとなしく中に収まってくれない、という実体験。
繭を作り出しそうな気配の個体が出たら蓋をしないと、
絶対に箱から出やがりますからねお蚕様は。
どうして蚕に蔟が必要なのか、皆様御存知だろうか?(蔟でも満足できない個体は脱出するんだけど)
蚕は周囲に蜘蛛の巣よりも密に糸を張り巡らせて、その中央に宙に浮くように繭を作るから、なのである。
つまり、あの公開写真のように、ただ綺麗な繭玉だけが、コロンコロンと格子の中に転がっている、というのは有り得ない。ということくらい、
小学生でも判るんだから、養蚕家が見て判らないはずがないんだよ。
それに、私達一家は、6匹の飼育の1年目、そして数百匹の2年目で、蚕を育てるのをやめた。
想像してみて欲しい。
数百の蚕から蚕蛾が羽化して卵を産んだら、幾つになると思う?
まあ…、軽く、万は行くよね…(遠い目)
愛子さまが10年も飼育を続けていた…?
毎年増えていく卵を、どうやって40程度に10年調整していたのか、私は是非とも観察日記を拝見したい。
あの愛子さま繭玉写真で致命的なのは、宮内庁職員撮影ではなく、『天皇ご一家撮影』にしてしまった迂闊さだ。
これで、嘘吐きは宮内庁職員という無名の誰かさんではなく、今上ご一家に特定されてしまった上に、彼らが養蚕に対して全く無知であることが露呈してしまった、ということだ。
「私、本当に虫が苦手だったんですけど、伝統の公務なので頑張りました!」とでもおわださまがコメントしておけば、共感する国民はたくさんいただろうに。苦労しまくった私も含めて。
ひと言、誰にともなく、ネットの片隅で呟いて終わりにしよう。
養蚕舐めんなよ。
私と妹は、大騒ぎすることになった。
おとなしく蔟の格子の中で繭作りをする幼虫が殆どだったけれども、そうじゃないやつらも結構いたんである。
二段ベッドの隅っこで糸を吐き始めたり、僅かに開いていた押し入れの襖の間に繭を作っちゃったやつもいた。
つまり、それなりの数が、繭を作りやすい環境を求めて、箱から脱出していたんである。
これ、如何にも虫嫌いっぽいおわださまだったら、絶対耐えられないだろうな~。
今上の田植えの儀式の画像はすぐに公開されたのに、おわださまの養蚕はマスク顔で車からお手振り写真だけなのをネットで笑われると、後出しジャンケンみたいに写真を出されましたもんね。
※ 皇室マニアが指摘するところによると、実際の養蚕日とおわださまの公務日の数が一致していないので、実際には作業はほぼしていないロケ写真だろうという分析
※ 私自身は断言出来ません念の為
でも、これだけは断言できる。
あの、公開された手作り感満々の薄っぺらい紙の蔟では、蚕はあんなにおとなしく中に収まってくれない、という実体験。
繭を作り出しそうな気配の個体が出たら蓋をしないと、
絶対に箱から出やがりますからねお蚕様は。
どうして蚕に蔟が必要なのか、皆様御存知だろうか?(蔟でも満足できない個体は脱出するんだけど)
蚕は周囲に蜘蛛の巣よりも密に糸を張り巡らせて、その中央に宙に浮くように繭を作るから、なのである。
つまり、あの公開写真のように、ただ綺麗な繭玉だけが、コロンコロンと格子の中に転がっている、というのは有り得ない。ということくらい、
小学生でも判るんだから、養蚕家が見て判らないはずがないんだよ。
それに、私達一家は、6匹の飼育の1年目、そして数百匹の2年目で、蚕を育てるのをやめた。
想像してみて欲しい。
数百の蚕から蚕蛾が羽化して卵を産んだら、幾つになると思う?
まあ…、軽く、万は行くよね…(遠い目)
愛子さまが10年も飼育を続けていた…?
毎年増えていく卵を、どうやって40程度に10年調整していたのか、私は是非とも観察日記を拝見したい。
あの愛子さま繭玉写真で致命的なのは、宮内庁職員撮影ではなく、『天皇ご一家撮影』にしてしまった迂闊さだ。
これで、嘘吐きは宮内庁職員という無名の誰かさんではなく、今上ご一家に特定されてしまった上に、彼らが養蚕に対して全く無知であることが露呈してしまった、ということだ。
「私、本当に虫が苦手だったんですけど、伝統の公務なので頑張りました!」とでもおわださまがコメントしておけば、共感する国民はたくさんいただろうに。苦労しまくった私も含めて。
ひと言、誰にともなく、ネットの片隅で呟いて終わりにしよう。
養蚕舐めんなよ。

2020.
07.
27
繭玉になった蚕は、とうとう羽化して蚕蛾になったのだが、6匹全部がオスだったんである。
当たり前だが、オスだけでは卵は発生しない。
実は、養蚕には許可が要る。
勝手に養蚕に用いられることがないように、学校に持ち込まれた時点で、幼虫はオスだけを教材用にされていたのかもしれない。
普通なら、そこで諦めるところだけれども、私達一家は諦めが悪かった。
ひいばあちゃんちに行けば蚕蛾だらけなのに違いない!
で、メスの蛾を貰ってきて、オスとお見合い。
すると、すぐ交尾を始めて、メスたちはガンガン卵を産みまくり始めた。
そう。
ガンガンとか、産みまくりとか、父が、何回ヤれば気が済むんだ…と、小学生の女児2人の前で言っちゃいけない科白と共に遠い目になる程度に、蚕は何度も交尾を繰り返し、圧倒的な産卵を繰り広げてくれた。
まあ、多分、500個以上の卵が生産されたよね。
200個くらいから、みんな数えるのをやめたけどね……
そして、当然に春になったらその500個以上の卵が500匹以上の蚕の幼虫になった。
その年は、秋が来るまで、私も妹もこども部屋に友達を呼んだことは一度たりとも無かった。
こども部屋は私と妹共同で、2段ベッドと2つの勉強机、それ以外はすっかり蚕に占領されていたからである。
大量の蚕がウヨウヨしている状態を友達に見せたらドン引きされるのに決まっている。
それでも、蚕は半数以上が小さいうちに死んだ。
元々弱い個体だったのか、私と妹の世話が拙かったのか、それは今でも良く判らない。
それでも、200匹以上は生き残った。
私と妹の夜は、毎日雨が降りしきるような音がした。
蚕が桑の葉を食べる音は、雨の音に非常によく似ているんである。
私は、ああ今日もうちの蚕は元気だなあと、かなり適応して眠りに就く毎日だったけれども、
神経質な人だったら、絶対眠れないねあの音は。
うちは200匹以上の凄まじさでしたが、あの繭写真を見る限り、40個ほどの繭があり、40匹の蚕を育てていたというのなら、そこそこの『雨音』はするだろうと思われる。
愛子さまが自室ではなく使用人の部屋に蚕の箱を置いていたのは、しょっちゅう不登校になるくらいに繊細なひとなので、その音に耐えきれなかったんですかね?
(つづく)
当たり前だが、オスだけでは卵は発生しない。
実は、養蚕には許可が要る。
勝手に養蚕に用いられることがないように、学校に持ち込まれた時点で、幼虫はオスだけを教材用にされていたのかもしれない。
普通なら、そこで諦めるところだけれども、私達一家は諦めが悪かった。
ひいばあちゃんちに行けば蚕蛾だらけなのに違いない!
で、メスの蛾を貰ってきて、オスとお見合い。
すると、すぐ交尾を始めて、メスたちはガンガン卵を産みまくり始めた。
そう。
ガンガンとか、産みまくりとか、父が、何回ヤれば気が済むんだ…と、小学生の女児2人の前で言っちゃいけない科白と共に遠い目になる程度に、蚕は何度も交尾を繰り返し、圧倒的な産卵を繰り広げてくれた。
まあ、多分、500個以上の卵が生産されたよね。
200個くらいから、みんな数えるのをやめたけどね……
そして、当然に春になったらその500個以上の卵が500匹以上の蚕の幼虫になった。
その年は、秋が来るまで、私も妹もこども部屋に友達を呼んだことは一度たりとも無かった。
こども部屋は私と妹共同で、2段ベッドと2つの勉強机、それ以外はすっかり蚕に占領されていたからである。
大量の蚕がウヨウヨしている状態を友達に見せたらドン引きされるのに決まっている。
それでも、蚕は半数以上が小さいうちに死んだ。
元々弱い個体だったのか、私と妹の世話が拙かったのか、それは今でも良く判らない。
それでも、200匹以上は生き残った。
私と妹の夜は、毎日雨が降りしきるような音がした。
蚕が桑の葉を食べる音は、雨の音に非常によく似ているんである。
私は、ああ今日もうちの蚕は元気だなあと、かなり適応して眠りに就く毎日だったけれども、
神経質な人だったら、絶対眠れないねあの音は。
うちは200匹以上の凄まじさでしたが、あの繭写真を見る限り、40個ほどの繭があり、40匹の蚕を育てていたというのなら、そこそこの『雨音』はするだろうと思われる。
愛子さまが自室ではなく使用人の部屋に蚕の箱を置いていたのは、しょっちゅう不登校になるくらいに繊細なひとなので、その音に耐えきれなかったんですかね?
(つづく)

2020.
07.
26
※ 私は、世界一長く続いている王家である皇室に、心より敬意を払う者ですが、今上とその妻は欠片も尊敬出来ないと思っているので、今上ご一家ファンの人は私のブログを読まないことをお勧めします。
※大事なことなので、太字で警告しました。大丈夫な方のみ以下どうぞ。
もう散々ネット上では拡散されて有名になっているが、愛子さまが10年間も蚕を飼っていたという『証拠写真』が発表された。
その画像を見た時の私の感想は、
うわぁ、すげぇバレバレの嘘だな!
だった。ついでに言えば、
私でさえ判るんだから、ひいばあちゃんがコレ見たら一発だな、とも。
あの画像を見た養蚕業を営む人々の皇室への崇敬も、一発で消し飛んだのに違いない。
あんな大嘘を、『天皇家ご一家撮影』の文字付きで公にしたのは、養蚕家にとっては馬鹿にするなと腹を立てるか、浅はかだと鼻で笑うか2択しか無いのに決まってるじゃないか。
どうやら、今上御一家の近くには、蚕の飼育について詳しく知っている者がいなかったか(美智子妃には何もお尋ねにならなかったと…)、知っていても助言できる者がいなかったか(蚕に限らず、何事につけ助言できる環境ではない説)、というのも一緒にバレた。
かく言う私は、こどもの頃、蚕を飼っていたことがある。
愛子さまが蚕を飼い始めたという、小学校3年生頃のことだろうか。
理科の授業で蚕の飼育をやるのだけれども、私達の学校の蚕は夏休みに入る頃になっても幼虫のままだったので、希望する生徒に家に持っていって面倒を見ることになったのだ。
私が貰ってきたときには田舎住まいだったので、その辺の野山には桑の木がわんさか自生しており、数匹の蚕に食べさせる程度の桑の葉など、いくらでも手に入った。
※ 今考えてみると、子供たちの自由な遊び場として利用されていた野山だけれども、普通に私有地だったのかもしれないすみませんごめんなさい。
でも、私は自分の蚕が繭になるのを見ることは出来なかった。
友達が、これも桑の葉だよ、と言った葉は、私の目にはどうも違うように見えたのだけれども、とりあえず友達を信じて持って帰り、蚕に食べさせてみることにしたのだ。
蚕は『桑の葉しか食べない』という知識はあったので、偽の桑の葉だったら見向きもしないだろうと、楽観視していた。
でも、これが、決定的な、致命的な間違いで、私は今でも忘れられない罪の意識に泣きたくなる。
蚕は、私が持ち帰った謎の葉っぱを、もりもり食べた。ああ友達の言ったことは本当だった!と私は喜んだ。
……のは、数分間のことだっただろうか。
蚕たちは、次々に苦しげにのたうち始めた。そして、私が為す術もないままに、私の目の前で、全部動かなくなった。
死んで、しまった。
私は、わんわん泣いた。
私の所為だ。
友達の所為だとは、これっぽっちも思わなかった。
私はあの葉を見たときに、これは桑の葉じゃないと思ったのに。
私の勘よりも、友達の言を採ってしまったのは、私が選んだ私の行動だ。私の罪以外の何ものでもないと、子供心にあれほど自責した記憶は初めてだったかもしれない。
泣きながら庭土を掘って蚕のお墓を作った。
私は、蚕は大好きだったけれども、二度と飼うまいと思った。
しかし、私の意に反して、私は再び蚕を育てることになる。
数年経って、妹が蚕を持ち帰ってきてしまったからだ。
なんと無責任な!と私は胸の内で妹の担任に毒づいた。
というのは、私の一家は父の転勤で再び仙台に戻って来ていて(志波町の近く)、既に家がゴチャゴチャと建っていてろくに空き地もない具合で、その辺りに桑の木なんて私が知る限り学校の校庭に1本しかなかったからだ。
全クラスの3年生のこどもが、好きにむしっていいというのか?
桑の木ハゲんぞ。
※ 蚕はかなり食欲旺盛である
※ 皇居には桑の木がわんさかあるの?凡そ庭木向きとは思えないんだけど
桑の葉不足に悩んだ我が家は、父の提案でひいばあちゃんの家を訪ねることになった。
ひいばあちゃんは高齢なので農作業はしていなかったが、大叔父一家が養蚕を営んでいたという大幸運。
私達は、数株の桑の木を貰い受け、また蚕が繭になるには繭を作りやすい枠があった方がいいからと、段ボール製の格子のようなもの(蔟/まぶし)も頂き、無事に繭にするまで育てることが出来た。
当然に、此処まで来たら、繭から出て蚕蛾に羽化させて、卵→幼虫→再び飼育、という毎年のサイクルにしたくなるのに決まっている。
まさに、愛子さまが10年間飼育した、と言われるように、だ。
そう簡単には行かなかったけどな!
(つづく)
※大事なことなので、太字で警告しました。大丈夫な方のみ以下どうぞ。
もう散々ネット上では拡散されて有名になっているが、愛子さまが10年間も蚕を飼っていたという『証拠写真』が発表された。
その画像を見た時の私の感想は、
うわぁ、すげぇバレバレの嘘だな!
だった。ついでに言えば、
私でさえ判るんだから、ひいばあちゃんがコレ見たら一発だな、とも。
あの画像を見た養蚕業を営む人々の皇室への崇敬も、一発で消し飛んだのに違いない。
あんな大嘘を、『天皇家ご一家撮影』の文字付きで公にしたのは、養蚕家にとっては馬鹿にするなと腹を立てるか、浅はかだと鼻で笑うか2択しか無いのに決まってるじゃないか。
どうやら、今上御一家の近くには、蚕の飼育について詳しく知っている者がいなかったか(美智子妃には何もお尋ねにならなかったと…)、知っていても助言できる者がいなかったか(蚕に限らず、何事につけ助言できる環境ではない説)、というのも一緒にバレた。
かく言う私は、こどもの頃、蚕を飼っていたことがある。
愛子さまが蚕を飼い始めたという、小学校3年生頃のことだろうか。
理科の授業で蚕の飼育をやるのだけれども、私達の学校の蚕は夏休みに入る頃になっても幼虫のままだったので、希望する生徒に家に持っていって面倒を見ることになったのだ。
私が貰ってきたときには田舎住まいだったので、その辺の野山には桑の木がわんさか自生しており、数匹の蚕に食べさせる程度の桑の葉など、いくらでも手に入った。
※ 今考えてみると、子供たちの自由な遊び場として利用されていた野山だけれども、普通に私有地だったのかもしれないすみませんごめんなさい。
でも、私は自分の蚕が繭になるのを見ることは出来なかった。
友達が、これも桑の葉だよ、と言った葉は、私の目にはどうも違うように見えたのだけれども、とりあえず友達を信じて持って帰り、蚕に食べさせてみることにしたのだ。
蚕は『桑の葉しか食べない』という知識はあったので、偽の桑の葉だったら見向きもしないだろうと、楽観視していた。
でも、これが、決定的な、致命的な間違いで、私は今でも忘れられない罪の意識に泣きたくなる。
蚕は、私が持ち帰った謎の葉っぱを、もりもり食べた。ああ友達の言ったことは本当だった!と私は喜んだ。
……のは、数分間のことだっただろうか。
蚕たちは、次々に苦しげにのたうち始めた。そして、私が為す術もないままに、私の目の前で、全部動かなくなった。
死んで、しまった。
私は、わんわん泣いた。
私の所為だ。
友達の所為だとは、これっぽっちも思わなかった。
私はあの葉を見たときに、これは桑の葉じゃないと思ったのに。
私の勘よりも、友達の言を採ってしまったのは、私が選んだ私の行動だ。私の罪以外の何ものでもないと、子供心にあれほど自責した記憶は初めてだったかもしれない。
泣きながら庭土を掘って蚕のお墓を作った。
私は、蚕は大好きだったけれども、二度と飼うまいと思った。
しかし、私の意に反して、私は再び蚕を育てることになる。
数年経って、妹が蚕を持ち帰ってきてしまったからだ。
なんと無責任な!と私は胸の内で妹の担任に毒づいた。
というのは、私の一家は父の転勤で再び仙台に戻って来ていて(志波町の近く)、既に家がゴチャゴチャと建っていてろくに空き地もない具合で、その辺りに桑の木なんて私が知る限り学校の校庭に1本しかなかったからだ。
全クラスの3年生のこどもが、好きにむしっていいというのか?
桑の木ハゲんぞ。
※ 蚕はかなり食欲旺盛である
※ 皇居には桑の木がわんさかあるの?凡そ庭木向きとは思えないんだけど
桑の葉不足に悩んだ我が家は、父の提案でひいばあちゃんの家を訪ねることになった。
ひいばあちゃんは高齢なので農作業はしていなかったが、大叔父一家が養蚕を営んでいたという大幸運。
私達は、数株の桑の木を貰い受け、また蚕が繭になるには繭を作りやすい枠があった方がいいからと、段ボール製の格子のようなもの(蔟/まぶし)も頂き、無事に繭にするまで育てることが出来た。
当然に、此処まで来たら、繭から出て蚕蛾に羽化させて、卵→幼虫→再び飼育、という毎年のサイクルにしたくなるのに決まっている。
まさに、愛子さまが10年間飼育した、と言われるように、だ。
そう簡単には行かなかったけどな!
(つづく)

2020.
07.
25
どうして、志波彦大神なのか?
結論から言いますが、シンプルに、
志波彦神が、本来の塩竈神社の御祭神だからです。
行方不明になっていた御祭神は、明治時代に判明します。
これ、元・鹽竈神社宮司だったひとが、本に書いていたことらしいんですけど、公式HPに載っていないっていうことは、今でもお上は公にしたくないって事ですよね多分。
奇しくも明治元年となる1868年。
宮司に就任した伊達藩元家老・後藤文七郎允信氏が、長らく謎だった鹽竈神社の由緒を知ってしまったのだそうです。
蝦夷の人々が《塩の神様》としてしおがまさんに祀ってあった志波彦神が、大和朝廷の指示で七北田川近くの岩切村の志波彦神社に遷座され、ろくに世話もされずにすっかり朽ちていた。(八坂神社と同じ場所にあったと聞いたことがあるのですが、八坂神社も一緒にボロボロになっていたのでしょうか?)
塩竈神社は、盛大にお祀りしてきた割には、中世には祭神が行方不明になってしまっていて、江戸時代辺りにはその謎を推理する人達が結構いました。
昔から邪馬台国論争があったのと似たような感じでしょうか。
でも、神社サイドとしては、御祭神がわからないまま祀っております、では格好が付きません。
現在の祭神は、江戸時代(1693年)にまとめられた『鹽竈神社縁起』を、概ね肯定して祀ってきたのですが(この辺りも何だか闇が深い塩竈神社)、たとえたかが江戸時代からと言う新しい基準であっても誠心誠意お祀りしてきた神様を追い出す訳にも行かないし、かと言って、長年寂れたお社で無念に思っていたであろう志波彦神を、《追い出した神》と御一緒にお祀りするのは、ちょっとこれは、
志波彦神が怒り祟りかねない案件。
それで、『志波彦神社社殿建築の急を要する理由』というものを、時の政府に提出することになったのですが…古本屋で見つけて、500円で購入したのですが……
陳情書なので薄い書物でして、
家の何処かにあるのは間違いが無いのですが、なくしましたすみません!!
ただ、大まかなことは、実は公式HPに書いてあるのですよね。
全く、このHPはどなたが作ったんだか、秘密をバレたいのかバレたくないのか…引用します。
>こぼれ話
>志波彦神社の遷座は明治天皇の思し召しによるものと言われておりますが、時の政府に社殿造営の陳情に行った古川左京宮司は、陳情者が列を為す中、「天下の一大事である。直ぐに取り次ぐべし」として乗り込み、勢いに圧された係官が取り次ぐと、担当大臣は「天下の一大事とは何事」と問いただしました。そこで古川宮司は「明治帝の思し召しでもある志波彦神社の社殿造営を何時まで放置しているのか」とはなしました。すると大臣は「天下の一大事と言うから何事かと思えばその様なことか」と答じました。そこで古川宮司「神様の事と明治帝の御意志をおいてこれに勝る一大事があるか」と一喝。漸く政府は重い腰を上げたという逸話が残っています。
(引用終了/本文の太字は私)
・・・・・・・・・・・・・・。
ずいぶんでっかいこぼれ話だな!
(つづく)
結論から言いますが、シンプルに、
志波彦神が、本来の塩竈神社の御祭神だからです。
行方不明になっていた御祭神は、明治時代に判明します。
これ、元・鹽竈神社宮司だったひとが、本に書いていたことらしいんですけど、公式HPに載っていないっていうことは、今でもお上は公にしたくないって事ですよね多分。
奇しくも明治元年となる1868年。
宮司に就任した伊達藩元家老・後藤文七郎允信氏が、長らく謎だった鹽竈神社の由緒を知ってしまったのだそうです。
蝦夷の人々が《塩の神様》としてしおがまさんに祀ってあった志波彦神が、大和朝廷の指示で七北田川近くの岩切村の志波彦神社に遷座され、ろくに世話もされずにすっかり朽ちていた。(八坂神社と同じ場所にあったと聞いたことがあるのですが、八坂神社も一緒にボロボロになっていたのでしょうか?)
塩竈神社は、盛大にお祀りしてきた割には、中世には祭神が行方不明になってしまっていて、江戸時代辺りにはその謎を推理する人達が結構いました。
昔から邪馬台国論争があったのと似たような感じでしょうか。
でも、神社サイドとしては、御祭神がわからないまま祀っております、では格好が付きません。
現在の祭神は、江戸時代(1693年)にまとめられた『鹽竈神社縁起』を、概ね肯定して祀ってきたのですが(この辺りも何だか闇が深い塩竈神社)、たとえたかが江戸時代からと言う新しい基準であっても誠心誠意お祀りしてきた神様を追い出す訳にも行かないし、かと言って、長年寂れたお社で無念に思っていたであろう志波彦神を、《追い出した神》と御一緒にお祀りするのは、ちょっとこれは、
志波彦神が怒り祟りかねない案件。
それで、『志波彦神社社殿建築の急を要する理由』というものを、時の政府に提出することになったのですが…古本屋で見つけて、500円で購入したのですが……
陳情書なので薄い書物でして、
家の何処かにあるのは間違いが無いのですが、なくしましたすみません!!
ただ、大まかなことは、実は公式HPに書いてあるのですよね。
全く、このHPはどなたが作ったんだか、秘密をバレたいのかバレたくないのか…引用します。
>こぼれ話
>志波彦神社の遷座は明治天皇の思し召しによるものと言われておりますが、時の政府に社殿造営の陳情に行った古川左京宮司は、陳情者が列を為す中、「天下の一大事である。直ぐに取り次ぐべし」として乗り込み、勢いに圧された係官が取り次ぐと、担当大臣は「天下の一大事とは何事」と問いただしました。そこで古川宮司は「明治帝の思し召しでもある志波彦神社の社殿造営を何時まで放置しているのか」とはなしました。すると大臣は「天下の一大事と言うから何事かと思えばその様なことか」と答じました。そこで古川宮司「神様の事と明治帝の御意志をおいてこれに勝る一大事があるか」と一喝。漸く政府は重い腰を上げたという逸話が残っています。
(引用終了/本文の太字は私)
・・・・・・・・・・・・・・。
ずいぶんでっかいこぼれ話だな!
(つづく)

2020.
07.
24
※ 中2日空けましたので、前回の『その3』は、20/07/21の記事となります。
塩竈神社は、創建がいつかわからないほどの古社ですが、朝廷に理不尽に征服される前は(敢えて言う理不尽と)、土着の人々が土着の神を素朴に祀っていたのが始まりだったはずです。
記紀神話には出てこない、古き神を。
《海水から塩を作る方法を教えた神》に感謝し、尊び、そして今も尚港町である程度に、彼らは『水稲の文化』のトップに上り詰めた朝廷とは、全く違う神を信仰していたと思います。
……ああ、此処でも、海なのか。
古くから海人達が住んでいた土地。出雲がそうであったように。
そして、私の母方の一族(と言うくらい、集落は3つの姓しか見当たらない程度にほぼ親戚状態)には、始めからそこに住んでいた訳ではなく、『海から来た』という伝承を持っているのです。
詳細は、不明です。
母方の実家は所謂本家なのですが、先祖は海からやって来たのだと、それしかわからない。
だから、富家伝承は嘘だ、って実感するんです私は。
母方の一族は、別に一族の歴史について、箝口令を敷いていた訳ではありません。
自由に語ることが出来て、遙かな昔は知っていた、そこそこ言い伝えられてはいた、でも私が子供の頃には既に『海から来た』までしか届いていないのです。
……というか、全国の《本家》の皆さんに聞きたいものです。
貴方の家の歴史を、何千年前まで(何百年前でもいい)遡れますか?
論破終了。
※ 私はスサノオ様を貶めスセリヒメ様は創作と言う富家伝承が大嫌いですので、富家伝承を信じている方々は、私のブログは不快でしょうから読まないことをお勧めします。
※ 大事なことなので太文字で言いました。
志波彦神社と塩竈神社のお話に戻りましょう。
でも、その土着の神は一度は追い出され、朝廷、そして既に朝廷に従うことを選んでいた人々の神に、『しおがまさん』は乗っ取られた。
そう、一度は。
長い長い間、その神様は耐え続けていらした。悲しいくらいに、長い間。
でも、ふとしたことから、明治時代に真の祭神として見出され、再び『しおがまさん』の境内に帰ってきたのです。
その名は、
志波彦大神。
塩竈神社の別宮・左宮・右宮の神よりも高く、唯一、『大神』の称号を持つ。
(つづく)
塩竈神社は、創建がいつかわからないほどの古社ですが、朝廷に理不尽に征服される前は(敢えて言う理不尽と)、土着の人々が土着の神を素朴に祀っていたのが始まりだったはずです。
記紀神話には出てこない、古き神を。
《海水から塩を作る方法を教えた神》に感謝し、尊び、そして今も尚港町である程度に、彼らは『水稲の文化』のトップに上り詰めた朝廷とは、全く違う神を信仰していたと思います。
……ああ、此処でも、海なのか。
古くから海人達が住んでいた土地。出雲がそうであったように。
そして、私の母方の一族(と言うくらい、集落は3つの姓しか見当たらない程度にほぼ親戚状態)には、始めからそこに住んでいた訳ではなく、『海から来た』という伝承を持っているのです。
詳細は、不明です。
母方の実家は所謂本家なのですが、先祖は海からやって来たのだと、それしかわからない。
だから、富家伝承は嘘だ、って実感するんです私は。
母方の一族は、別に一族の歴史について、箝口令を敷いていた訳ではありません。
自由に語ることが出来て、遙かな昔は知っていた、そこそこ言い伝えられてはいた、でも私が子供の頃には既に『海から来た』までしか届いていないのです。
……というか、全国の《本家》の皆さんに聞きたいものです。
貴方の家の歴史を、何千年前まで(何百年前でもいい)遡れますか?
論破終了。
※ 私はスサノオ様を貶めスセリヒメ様は創作と言う富家伝承が大嫌いですので、富家伝承を信じている方々は、私のブログは不快でしょうから読まないことをお勧めします。
※ 大事なことなので太文字で言いました。
志波彦神社と塩竈神社のお話に戻りましょう。
でも、その土着の神は一度は追い出され、朝廷、そして既に朝廷に従うことを選んでいた人々の神に、『しおがまさん』は乗っ取られた。
そう、一度は。
長い長い間、その神様は耐え続けていらした。悲しいくらいに、長い間。
でも、ふとしたことから、明治時代に真の祭神として見出され、再び『しおがまさん』の境内に帰ってきたのです。
その名は、
志波彦大神。
塩竈神社の別宮・左宮・右宮の神よりも高く、唯一、『大神』の称号を持つ。
(つづく)

2020.
07.
23
アシナヅテナヅよりも、こっち↓の名前を持っているのが妻の方だというのが気になります。
稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだの-みや-ぬし-すさ-の-やつ-みみ)
素直に読みますと、
宮/みや:宮殿
主/ぬし: ↑の宮殿で一番偉い人
簀狭/すさ:…すさ?須佐のスサ?スサノオのスサ!?
八/や:ここでも8ですか。
耳/みみ:『神霊』=ミ、をふたつ重ねた尊称
みみ、については、アマテラスとスサノオが、誓約というわけのわからん占いっぽいことをやった時に産まれてきたニニギの父(つまり神武帝の先祖)に当たる
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)
という、日本初のキラキラネームでも使われている、とても偉そうな『みみ』です。
※ オシホミミのフルネームの意味は、『マジ勝ったぜ俺は速く上る日の勢いの如くに勝ったぜ高天原のマジヤバイ神威で稲穂が実りまくっているゴッドオブゴッド』
※ 私は、速日に例えているので、『穂』という字が当てられていても、フツーに『火/ホ』で、火の明かり=太陽属性だと思うんですけど。っていうか、誓約に勝ったスサノオ雄叫び=スサノオの分身以外の何ものでもない名前と思うんですけど。
その、ゴッドオブゴッドの『耳』が使われているくらい、しかも『八箇耳/やつみみ』で『八』が付いているので、『とにかくいっぱいミを連呼したいくらい尊い』という名を持つこの妻はかなりヤバイ。
『主』もそうそう使われる敬称じゃありません。
パッと思い付くのは、始まりの神・天之御中主神(アメノミナカヌシ)とか三位一体娘・道主貴とか大国主とか大物主とか、まさに大物揃いです。
そして、その『宮の主』は妻の方であって夫ではない、ということは、
邪馬台国みたいに女王国なんですね。わかりやすいお名前です。
その女王なんですが、『此神正在姙身』=もう産まれちゃいそうな妊婦でした。
何と、クシナダヒメは、童女(古事記)どころか、まだ産まれてない!胎児!!どーするスサノオ様!!
(つづく!)
稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだの-みや-ぬし-すさ-の-やつ-みみ)
素直に読みますと、
宮/みや:宮殿
主/ぬし: ↑の宮殿で一番偉い人
簀狭/すさ:…すさ?須佐のスサ?スサノオのスサ!?
八/や:ここでも8ですか。
耳/みみ:『神霊』=ミ、をふたつ重ねた尊称
みみ、については、アマテラスとスサノオが、誓約というわけのわからん占いっぽいことをやった時に産まれてきたニニギの父(つまり神武帝の先祖)に当たる
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)
という、日本初のキラキラネームでも使われている、とても偉そうな『みみ』です。
※ オシホミミのフルネームの意味は、『マジ勝ったぜ俺は速く上る日の勢いの如くに勝ったぜ高天原のマジヤバイ神威で稲穂が実りまくっているゴッドオブゴッド』
※ 私は、速日に例えているので、『穂』という字が当てられていても、フツーに『火/ホ』で、火の明かり=太陽属性だと思うんですけど。っていうか、誓約に勝ったスサノオ雄叫び=スサノオの分身以外の何ものでもない名前と思うんですけど。
その、ゴッドオブゴッドの『耳』が使われているくらい、しかも『八箇耳/やつみみ』で『八』が付いているので、『とにかくいっぱいミを連呼したいくらい尊い』という名を持つこの妻はかなりヤバイ。
『主』もそうそう使われる敬称じゃありません。
パッと思い付くのは、始まりの神・天之御中主神(アメノミナカヌシ)とか三位一体娘・道主貴とか大国主とか大物主とか、まさに大物揃いです。
そして、その『宮の主』は妻の方であって夫ではない、ということは、
邪馬台国みたいに女王国なんですね。わかりやすいお名前です。
その女王なんですが、『此神正在姙身』=もう産まれちゃいそうな妊婦でした。
何と、クシナダヒメは、童女(古事記)どころか、まだ産まれてない!胎児!!どーするスサノオ様!!
(つづく!)

2020.
07.
22
スサノオは、高天原でヤンチャやりすぎて、姉を引きこもりにしてしまったので、どうにか姉が社会復帰した折に、今までやらかしたアレコレの罪を問われ、キッツイお仕置きを受けて高天原から追い出されました。
行き先は、高天原と黄泉の国の間にある、なかなかカオスな世界ですが、ママ・イザナミが産んだ島がある世界ですし、道主貴(みちぬしむち)こと宗像3人娘が既に降っているはずですから、そんなに居心地は悪くないかもしれません。
スサノオが降ったのは、3人娘がいる宗像ではなく、どうしてか安芸(あき)の江の川(ごうのかわ)のほとりでした。
出雲じゃないんですか。
※ タイトル通り、これは異伝第2です
※ 安芸国は、現在の広島県西部です
因みに、江の川は、wikiに寄りますと、
>江の川(ごうのかわ)は、島根県および広島県を流れる一級水系の本流。
>流路延長194km、流域面積3,900km2 。全国ランキングでは、延長で12位、面積で16位。
>中国地方においては最大の河川であり、中国地方の一級河川の中で唯一中国山地を貫流する先行河。日本百景。
引用終了。
なるほど。水源は広島県ですが、河口は斐伊川みたいに暴れて流れが変わっていなければ島根県の江津市(ごうつし)になります。
日本の川の中では大河の部類であるようなので、水運では重要な川かと思われます。
江の川のほとりに、神がいらっしゃいました。所謂、国津神です。
その神の名前は、脚摩手摩(あしなづてなづ)、その妻は稲田宮主賛狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)といいました。
・・・・・・・・・・・・・・?
夫が脚摩(あしなづ)で妻が手摩(てなづ)なのか、『脚摩手摩』全部で夫の個人名なのか、わかりません。
古事記や日本書紀本文では、夫が『アシナヅチ』で妻が『テナヅチ』で別物なのですが。
現代語訳だとニュアンスがわからないので、原文を見てみましょう。
素戔嗚尊、下到於安藝國可愛之川上也。彼處有神、名曰脚摩手摩、其妻名曰稻田宮主簀狹之八箇耳
ん~、この文章だけだと、『脚摩手摩』の妻が『稻田宮主簀狹之八箇耳』、と読むのが自然な気がしますね。
尤も、異伝は本文より下位ですので、アシナヅ(チ)が男神でテナヅ(チ)が女神だという事は、
いちいち言わなくたってわかんだろ。
的な感じに、夫妻まとめてアシナヅテナヅと異伝に書いちゃった可能性もあるんですが、まあ
わかんないことはタイトル通りに深く考え込まずにスルーします。
もっと気になることが、ほかにありますので、
(つづく!)
行き先は、高天原と黄泉の国の間にある、なかなかカオスな世界ですが、ママ・イザナミが産んだ島がある世界ですし、道主貴(みちぬしむち)こと宗像3人娘が既に降っているはずですから、そんなに居心地は悪くないかもしれません。
スサノオが降ったのは、3人娘がいる宗像ではなく、どうしてか安芸(あき)の江の川(ごうのかわ)のほとりでした。
出雲じゃないんですか。
※ タイトル通り、これは異伝第2です
※ 安芸国は、現在の広島県西部です
因みに、江の川は、wikiに寄りますと、
>江の川(ごうのかわ)は、島根県および広島県を流れる一級水系の本流。
>流路延長194km、流域面積3,900km2 。全国ランキングでは、延長で12位、面積で16位。
>中国地方においては最大の河川であり、中国地方の一級河川の中で唯一中国山地を貫流する先行河。日本百景。
引用終了。
なるほど。水源は広島県ですが、河口は斐伊川みたいに暴れて流れが変わっていなければ島根県の江津市(ごうつし)になります。
日本の川の中では大河の部類であるようなので、水運では重要な川かと思われます。
江の川のほとりに、神がいらっしゃいました。所謂、国津神です。
その神の名前は、脚摩手摩(あしなづてなづ)、その妻は稲田宮主賛狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)といいました。
・・・・・・・・・・・・・・?
夫が脚摩(あしなづ)で妻が手摩(てなづ)なのか、『脚摩手摩』全部で夫の個人名なのか、わかりません。
古事記や日本書紀本文では、夫が『アシナヅチ』で妻が『テナヅチ』で別物なのですが。
現代語訳だとニュアンスがわからないので、原文を見てみましょう。
素戔嗚尊、下到於安藝國可愛之川上也。彼處有神、名曰脚摩手摩、其妻名曰稻田宮主簀狹之八箇耳
ん~、この文章だけだと、『脚摩手摩』の妻が『稻田宮主簀狹之八箇耳』、と読むのが自然な気がしますね。
尤も、異伝は本文より下位ですので、アシナヅ(チ)が男神でテナヅ(チ)が女神だという事は、
いちいち言わなくたってわかんだろ。
的な感じに、夫妻まとめてアシナヅテナヅと異伝に書いちゃった可能性もあるんですが、まあ
わかんないことはタイトル通りに深く考え込まずにスルーします。
もっと気になることが、ほかにありますので、
(つづく!)
