2020.
03.
31
そして、不思議なことに、アワことオオゲツヒメは、実は古事記では2回生まれているんです。
1回目は既に述べたとおりに国産みの場面で、四国の4つの顔の一つです。
国産みを追えると、ギ・ミ夫婦神が、もう読み飛ばしたくなる感じに沢山の神を生む訳ですが、
>次に生んだ神は、鳥之石楠船(とりのいわくすふね)で、またの名は天鳥船(あめのとりふね)という。
>次に大宜都比売(おおげつひめ)を生んだ。
確かに、同じオオゲツヒメという名前だし、しかもその前には鳥之石楠船(とりのいわくすふね)まである。
表記は違いますが、日本書紀の『鳥磐櫲樟船/とりのいわくすぶね』と同じものでしょう。(日本書紀は『櫲樟』と書いて『くす』と読ませた。同じクスノキの意)
『鳥磐櫲樟船』とは、日本書紀の異伝に出てくる、ヒルコが捨てられる時に乗せられた船の名前です。
※ 本文では天磐櫲樟船を採用している
日本書紀異伝では、わざわざ鳥磐櫲樟船という神を生んで、その船にヒルコを乗せるのです。(モノ自体が神、という発想は日本古来の信仰では珍しくない。天叢雲剣が神宝であると同時に《神》であるように)
でも、古事記では、鳥之石楠船という神が生まれた次にオオゲツヒメが生まれている。
日本書紀のヒルコと非常によく似た流れです。これが同パターンだとすると、
鳥之石楠船とは、オオゲツヒメ=アワシマが海と天(どちらもアメ/アマ)を渡る船だということになります。
大宜都比売とは、偉大さを讃える『大』をとっぱらってしまえば、『ゲツヒメ』。
ゲ→ケで、ケ(食)の姫神です。
そして。姫ではないんですけれども。
そもそもこの連載の端緒になった出雲国造神賀詞に出て来て、熊野大社の祭神でもある、
伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂伎熊野大神(かぶろぎくまのおおかみ)櫛御気野命(くしけみぬのみこと)
つまりスサノオの長々しい名前なんですが、その長々しい装飾を外してしまえば、『ケヌミコト』。→
ケ(食)の神、であることは、この長々しい連載の初めの方で述べました。
日本書紀には、アワシマ同様に、出雲の後継者・スセリヒメも、古事記では大物主と同一であることを匂わされているオオトシ神も出て来ません。
日本書紀の本文では、オオナムチはスサノオとクシナダヒメの実子で、しかもオオナムチひとりしか出て来ません。
そして、その後のスサノオの半生は語られないまま、スサノオは根の国に去ります。
異伝では、古事記に出てくる神と同神かと思われる思われる神の名も散見されますが、それが返って、スセリヒメとオオトシを排除したのは、よほど触れたくなかったんだなと思います。
そのように、『アワシマ』も重要な神だから日本書紀は黙殺したのではないか。
どのように重要で、どのように邪魔だったのだろう…?
私は、A神とB神とC神とD神は同神だ!というのは、基本あまりやりたくないと思っています。
同神だということにすると、非常に単純な構図になって、自分の考察を通しやすくなる、という、場合によっては御都合主義の安易な手段だからです。
でも、スサノオは謎だらけの神です。
謎だらけなので、多くの人が『荒ぶ神』、『嵐の神』、『ツクヨミと同神』、辺りが通説のまま止まっているのだと思います。
私は、勉強不足にも、出雲国造神賀詞で謳われるスサノオの名や、熊野大社の祭神の名を知りませんでした。
知らないままだったら、スサノオが太陽の神で食の神であるということなど、露ほども思い付かなかったと思います。
実際、記紀編纂時の権力者の意向で、《スサノオが何者なのか》を幾重にも隠しているので、私も基本スタンスから外れて、スサノオやヒルコ、アワシマが
どの別神の名で隠されているのか?
…ということを、を探し出さなければなりません。
記紀は権力者の意に添うように書かれている一方で、『本当はこうだよ』というヒントも残してくれているのですから。そして、
様々な属性を持っている神代表は、意外にも至高の最高神・女神アマテラスです。
この神もまた、スサノオとは真逆の理由で正体を隠され、これでもかと不自然に祭り上げられている故に、かえって
太陽神になり切れていないのです。
(つづく)
1回目は既に述べたとおりに国産みの場面で、四国の4つの顔の一つです。
国産みを追えると、ギ・ミ夫婦神が、もう読み飛ばしたくなる感じに沢山の神を生む訳ですが、
>次に生んだ神は、鳥之石楠船(とりのいわくすふね)で、またの名は天鳥船(あめのとりふね)という。
>次に大宜都比売(おおげつひめ)を生んだ。
確かに、同じオオゲツヒメという名前だし、しかもその前には鳥之石楠船(とりのいわくすふね)まである。
表記は違いますが、日本書紀の『鳥磐櫲樟船/とりのいわくすぶね』と同じものでしょう。(日本書紀は『櫲樟』と書いて『くす』と読ませた。同じクスノキの意)
『鳥磐櫲樟船』とは、日本書紀の異伝に出てくる、ヒルコが捨てられる時に乗せられた船の名前です。
※ 本文では天磐櫲樟船を採用している
日本書紀異伝では、わざわざ鳥磐櫲樟船という神を生んで、その船にヒルコを乗せるのです。(モノ自体が神、という発想は日本古来の信仰では珍しくない。天叢雲剣が神宝であると同時に《神》であるように)
でも、古事記では、鳥之石楠船という神が生まれた次にオオゲツヒメが生まれている。
日本書紀のヒルコと非常によく似た流れです。これが同パターンだとすると、
鳥之石楠船とは、オオゲツヒメ=アワシマが海と天(どちらもアメ/アマ)を渡る船だということになります。
大宜都比売とは、偉大さを讃える『大』をとっぱらってしまえば、『ゲツヒメ』。
ゲ→ケで、ケ(食)の姫神です。
そして。姫ではないんですけれども。
そもそもこの連載の端緒になった出雲国造神賀詞に出て来て、熊野大社の祭神でもある、
伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂伎熊野大神(かぶろぎくまのおおかみ)櫛御気野命(くしけみぬのみこと)
つまりスサノオの長々しい名前なんですが、その長々しい装飾を外してしまえば、『ケヌミコト』。→
ケ(食)の神、であることは、この長々しい連載の初めの方で述べました。
日本書紀には、アワシマ同様に、出雲の後継者・スセリヒメも、古事記では大物主と同一であることを匂わされているオオトシ神も出て来ません。
日本書紀の本文では、オオナムチはスサノオとクシナダヒメの実子で、しかもオオナムチひとりしか出て来ません。
そして、その後のスサノオの半生は語られないまま、スサノオは根の国に去ります。
異伝では、古事記に出てくる神と同神かと思われる思われる神の名も散見されますが、それが返って、スセリヒメとオオトシを排除したのは、よほど触れたくなかったんだなと思います。
そのように、『アワシマ』も重要な神だから日本書紀は黙殺したのではないか。
どのように重要で、どのように邪魔だったのだろう…?
私は、A神とB神とC神とD神は同神だ!というのは、基本あまりやりたくないと思っています。
同神だということにすると、非常に単純な構図になって、自分の考察を通しやすくなる、という、場合によっては御都合主義の安易な手段だからです。
でも、スサノオは謎だらけの神です。
謎だらけなので、多くの人が『荒ぶ神』、『嵐の神』、『ツクヨミと同神』、辺りが通説のまま止まっているのだと思います。
私は、勉強不足にも、出雲国造神賀詞で謳われるスサノオの名や、熊野大社の祭神の名を知りませんでした。
知らないままだったら、スサノオが太陽の神で食の神であるということなど、露ほども思い付かなかったと思います。
実際、記紀編纂時の権力者の意向で、《スサノオが何者なのか》を幾重にも隠しているので、私も基本スタンスから外れて、スサノオやヒルコ、アワシマが
どの別神の名で隠されているのか?
…ということを、を探し出さなければなりません。
記紀は権力者の意に添うように書かれている一方で、『本当はこうだよ』というヒントも残してくれているのですから。そして、
様々な属性を持っている神代表は、意外にも至高の最高神・女神アマテラスです。
この神もまた、スサノオとは真逆の理由で正体を隠され、これでもかと不自然に祭り上げられている故に、かえって
太陽神になり切れていないのです。
(つづく)
2020.
03.
30
神話や神社の伝承だけではなく、考古学も網羅している方々からは、
何を今更?と呆れられそうですが。すみません、私今回淡路島について調べてみるまでは、全く存じませんでした。
私は、弥生時代の鉄器加工の遺跡がある、といことは知っていたのですが、淡路島の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)が、弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在した、国内最大規模の鉄器製造群落遺跡だったのですね。
加工場と製鉄所とはまた違うので、製鉄所が見つかって欲しい所です。
ならば、弥生時代の淡路島の人々は、鉄器の交易を生業にしていた可能性があります。
そう考えると、スサノオが出雲にその技術を持ち込んだかもしれず、これはかなりワクワクします。
一方で、鉄器の硬度は青銅器に勝り、例えば鉄文化と青銅器文化の勢力が戦争になったら、勝つのは前者、という世界の歴史があります。
古代中国王朝が、製鉄の技術の流出を長く防いでいたのも、そのような理由だと思います。
淡路の人達も、自分たちのものとして鉄器を大量に所有していたかもしれないのですが、加工技術を持っていたということは重要です。
また、鉄器製造の遺跡は山間部で、住居は少ないことから、そちらは鉄器加工に特化した地域で、居住地のメインは先に開けていた平野部なのでしょう。
その平野部で先に農耕が行われていたかもしれないのですが、とにかく古代淡路と言えば五斗長垣内遺跡であるようで、検索してみてもわかりませんでした。
日本書紀は、そんな先進的淡路島を貶めるだけでは済まずに、『アワシマ』という神については黙殺していますから、ここは古事記の国産みの場面に立ち返ってみます。
>このように言い終わって(先にイザナギが声をかけて、次にイザナミが声をかけるという、陰陽の正しい手順にやり直した)、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島=淡路島/あわじのほのさわけのしまである。
>次に、伊予之二名島=四国(いよのふたなのしま)を生んだ。
>この島は身体は一つで顔が四つある。
>それぞれの顔に名があって、伊予国(いよのくに)を愛比売(えひめ)といい、讃岐国(さぬきのくに)を飯依比古(いいよりひこ)といい、阿波国(あわのくに)を大宜都比売(おおげつひめ)といい、土佐国(とさのくに)を建依別(たけよりわけ)という。
…いました。『アワ』が。
淡路島と、ほんの少しの海を隔てただけの国に。
(つづく)
何を今更?と呆れられそうですが。すみません、私今回淡路島について調べてみるまでは、全く存じませんでした。
私は、弥生時代の鉄器加工の遺跡がある、といことは知っていたのですが、淡路島の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)が、弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在した、国内最大規模の鉄器製造群落遺跡だったのですね。
加工場と製鉄所とはまた違うので、製鉄所が見つかって欲しい所です。
ならば、弥生時代の淡路島の人々は、鉄器の交易を生業にしていた可能性があります。
そう考えると、スサノオが出雲にその技術を持ち込んだかもしれず、これはかなりワクワクします。
一方で、鉄器の硬度は青銅器に勝り、例えば鉄文化と青銅器文化の勢力が戦争になったら、勝つのは前者、という世界の歴史があります。
古代中国王朝が、製鉄の技術の流出を長く防いでいたのも、そのような理由だと思います。
淡路の人達も、自分たちのものとして鉄器を大量に所有していたかもしれないのですが、加工技術を持っていたということは重要です。
また、鉄器製造の遺跡は山間部で、住居は少ないことから、そちらは鉄器加工に特化した地域で、居住地のメインは先に開けていた平野部なのでしょう。
その平野部で先に農耕が行われていたかもしれないのですが、とにかく古代淡路と言えば五斗長垣内遺跡であるようで、検索してみてもわかりませんでした。
日本書紀は、そんな先進的淡路島を貶めるだけでは済まずに、『アワシマ』という神については黙殺していますから、ここは古事記の国産みの場面に立ち返ってみます。
>このように言い終わって(先にイザナギが声をかけて、次にイザナミが声をかけるという、陰陽の正しい手順にやり直した)、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島=淡路島/あわじのほのさわけのしまである。
>次に、伊予之二名島=四国(いよのふたなのしま)を生んだ。
>この島は身体は一つで顔が四つある。
>それぞれの顔に名があって、伊予国(いよのくに)を愛比売(えひめ)といい、讃岐国(さぬきのくに)を飯依比古(いいよりひこ)といい、阿波国(あわのくに)を大宜都比売(おおげつひめ)といい、土佐国(とさのくに)を建依別(たけよりわけ)という。
…いました。『アワ』が。
淡路島と、ほんの少しの海を隔てただけの国に。
(つづく)
2020.
03.
29
順番ではスサノオのすぐ上の兄であったはずなのに、親神に疎まれ捨てられた神。
本当は、天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗って海と天(アメ・アマ)を翔る太陽神であり、地上に天降る英雄になるはずだったのに、その神話を壊された神。
天孫が『国譲り』という綺麗事で奪う、葦原中国の原点・出雲の祖が太陽神であってはならないのです。
『スサノオ』の名は、多分一からでっち上げた訳ではなく、何らかの意味ある称号なのではと思います。
例えば須佐の王、スサの緒(はじまり=祖。もしくは"長いもの"と解してスサの一族)など。
ヒルコ=スサノオ説を取る戸矢学氏は、スサノオはヒルコが出雲に来て須賀に宮を構えたことから須賀の王と呼ばれていたのを、弄ってスサノオという訳の分からない名前にしてしまった、としています。
※ 『決定版 ヒルコ: 棄てられた謎の神』より
私も、スサノオの本名、もしくは幼名はヒルコであったと思います。
海を渡る巧みな航海術で広い海を行き来していた海人たちが信仰した、あま(天・海)翔る太陽神が、船に乗せて捨てられて終わりになる訳がありません。
試練と冒険の末に、英雄になるのがさだめなのですから。
そして、気になるのは、古事記にヒルコに続いて生まれてきた『淡嶋/アワシマ』です。
古事記では、ヒルコに続いて生まれるも捨てられた、紀は言及することもせずに黙殺した神。
wikiによると、
>始祖となった男女二柱の神の最初の子が生み損ないになるという神話は世界各地に見られる。
その類型の神話なのかもしれませんが、そうであってもどうしてヒルコ・アワシマと2回も繰り返す必要があった?
そして、日本書紀では、淡路島を吾恥(あはじ)と蔑んだだけでは済まずに、『アワシマ』という神については黙秘したことが、古事記よりも強く排斥した印象を受けます。
私は、イザナギ・イザナミ夫妻神のルーツが淡路島の神と知るまでは、
『淡島』→『粟島』→『豊穣の女神』で、日の神ヒルコと共に、ヤマト王朝の神話には邪魔な神様だったんだろうなあと思っていたのですが、……
ギ・ミ神が太陽信仰・淡路島の海神であるとすると、本当に『アワシマ』はそれでいいのだろうか?と立ち止まってしまいました。
淡路島は、朝廷には海産物やら水やらを提供していた島であったとのことですが、農耕についてはどうだったのだろうかと。
大きな島ではありませんし、山地もあることを考えると、面積的に有力な農耕地となるのは難しいです。
どうだったのだろうかと古代の淡路島を調べてみましたら、
淡路島、意外な方面ですごかった。
(つづく)
本当は、天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗って海と天(アメ・アマ)を翔る太陽神であり、地上に天降る英雄になるはずだったのに、その神話を壊された神。
天孫が『国譲り』という綺麗事で奪う、葦原中国の原点・出雲の祖が太陽神であってはならないのです。
『スサノオ』の名は、多分一からでっち上げた訳ではなく、何らかの意味ある称号なのではと思います。
例えば須佐の王、スサの緒(はじまり=祖。もしくは"長いもの"と解してスサの一族)など。
ヒルコ=スサノオ説を取る戸矢学氏は、スサノオはヒルコが出雲に来て須賀に宮を構えたことから須賀の王と呼ばれていたのを、弄ってスサノオという訳の分からない名前にしてしまった、としています。
※ 『決定版 ヒルコ: 棄てられた謎の神』より
私も、スサノオの本名、もしくは幼名はヒルコであったと思います。
海を渡る巧みな航海術で広い海を行き来していた海人たちが信仰した、あま(天・海)翔る太陽神が、船に乗せて捨てられて終わりになる訳がありません。
試練と冒険の末に、英雄になるのがさだめなのですから。
そして、気になるのは、古事記にヒルコに続いて生まれてきた『淡嶋/アワシマ』です。
古事記では、ヒルコに続いて生まれるも捨てられた、紀は言及することもせずに黙殺した神。
wikiによると、
>始祖となった男女二柱の神の最初の子が生み損ないになるという神話は世界各地に見られる。
その類型の神話なのかもしれませんが、そうであってもどうしてヒルコ・アワシマと2回も繰り返す必要があった?
そして、日本書紀では、淡路島を吾恥(あはじ)と蔑んだだけでは済まずに、『アワシマ』という神については黙秘したことが、古事記よりも強く排斥した印象を受けます。
私は、イザナギ・イザナミ夫妻神のルーツが淡路島の神と知るまでは、
『淡島』→『粟島』→『豊穣の女神』で、日の神ヒルコと共に、ヤマト王朝の神話には邪魔な神様だったんだろうなあと思っていたのですが、……
ギ・ミ神が太陽信仰・淡路島の海神であるとすると、本当に『アワシマ』はそれでいいのだろうか?と立ち止まってしまいました。
淡路島は、朝廷には海産物やら水やらを提供していた島であったとのことですが、農耕についてはどうだったのだろうかと。
大きな島ではありませんし、山地もあることを考えると、面積的に有力な農耕地となるのは難しいです。
どうだったのだろうかと古代の淡路島を調べてみましたら、
淡路島、意外な方面ですごかった。
(つづく)
2020.
03.
28
政宗公は、探していたと思います。天神社に代わる鬼門封じを。
強力な鬼門封じに相応しいのは、天神社以外で何かありはしないかと。
ほかの武将がどうだったのかは存じませんが、伊達家は本拠地を何度も移す度に、ご縁のある神社も遷座させて一緒に連れて来ています。
仙台城を含む六芒星と亀甲紋も、そのような寺社がメインです。例えば、
大崎八幡宮:もとは坂上田村麻呂が創建したものを、室町時代に大崎氏が祀るようになり(それで名前が大崎八幡宮)、大崎氏滅亡後は岩出山に居城を構えた伊達氏が、旧領の羽前国米沢で代々崇敬していた成島八幡宮を合祀して、仙台に遷座。
愛宕神社:こちらも米沢→岩出山→仙台と共に渡り歩いて現在地に遷座。
東昌寺:鎌倉時代に伊達政依によって陸奥国伊達郡桑折(現在の福島県北部)に建立した、伊達家最初の菩提寺→米沢→岩出山→仙台。(のちに土地を譲り東側に移り、青葉神社創建。祭神は伊達政宗と愛姫)
また、星には含まれませんが、北の玄武として配置した亀岡八幡宮も、伊達家の守り神として一緒に渡り歩いた神社です。
つまり、これらは伊達家が仙台の城下町に配置しても、お江戸に怪しまれる要素のない寺社なんです。
また、意味は真逆になりますが、元々仙台に存在していた天神社も、手厚く祭り社殿を立派にした所で、何も不自然ではありません。
でも、政宗公としてはせめて鬼門からは天神社を移し祀り奉りたかったのだし、また星の結界を完成させるためには、『さいごのひとつが足りない』という状況だったのです。
私としては、仙台には出雲系の神社が少ないので、ひとつくらいでっかい神社を建ててスサノオ様を祀って下されば、絶対に足繁く通ったと思うし、具体的には政宗公にとっての憧れの武将で、文通もしていたという織田信長公が崇敬していらした津島神社を是非とも勧請して頂きたかった…!とも思ったのですが、絶対に無理だったでしょうね。
わざわざ新しい神様を勧請してきて神社を建てるというのは、当然にご利益を期待しているからで、天下人寸前まで上り詰めた勇ましい武将が祀った勇ましい神を新たに招くとなると、徳川家が天下を治める世となったのに、まだ反旗を翻し天下人を狙うのか?と疑われても仕方が無いです。
そして、考えに考えた政宗公の没年は1636年ですから、その時には東照宮を勧請することに決めており、遺言してあったと思います。
政宗公の遺志を受けて、2代目忠宗公が徳川家光公に勧請させて欲しいと申し出たのでしょう。
仙台東照宮の創建は、1654年。で、政宗公の死から18年が経過。
因みに、榴ヶ岡天満宮(当時は天神社)は、東照宮創建のために、一時的にその東側に遷座され、現在地への遷座は1667年で既に3代綱宗公の御代です。
時系列を辿ると、新たな天満宮創建よりも東照宮を鬼門封じに置くことを優先した、ということだけはわかるんですけど。
でも、東照宮を勧請したいと申し出た2代忠宗公自身が、わざわざ天神社を1640年に修築してるのに?何故に遷座??
天神社自体は伊達氏が仙台を本拠地とする前からあって、仙台城の前は同地の国分氏居城の鬼門封じだったのに…
訳わからんわ!!!
と、私は結構長い間、頭を抱えていた訳です。
でも、榴岡天満宮の落雷について調べているうちに、「あ」と思ったんです。
気付いてしまえば、何てコレわかりやすい理由?
仙台城下町の人々には、管公が日本三大怨霊の一柱であっても、祟られる理由はありません。
学問の神様で、子宝の神様で(管公は子沢山で、12人説、14人説、23人説)、道中安全の神(行きたくなかったのに決まっているけど、太宰府への長い旅路を無事に辿り着いた)として、素朴に信仰していたはずです。
だから、氏子たちは火災と消失を悲しみつつも、落雷は雷公様のご降臨という奇跡と思い、ありがたく手を合わせることが出来た。
要するに、祟りとか祟り神とかいうものは、祟られる理由がある者の後ろめたさや恐怖によって発生する。
そして、伊達家には、管公に祟られる理由があったんです。
だって。伊達家って。
藤原北家の末裔を名乗っているんですもん。
(つづく)
強力な鬼門封じに相応しいのは、天神社以外で何かありはしないかと。
ほかの武将がどうだったのかは存じませんが、伊達家は本拠地を何度も移す度に、ご縁のある神社も遷座させて一緒に連れて来ています。
仙台城を含む六芒星と亀甲紋も、そのような寺社がメインです。例えば、
大崎八幡宮:もとは坂上田村麻呂が創建したものを、室町時代に大崎氏が祀るようになり(それで名前が大崎八幡宮)、大崎氏滅亡後は岩出山に居城を構えた伊達氏が、旧領の羽前国米沢で代々崇敬していた成島八幡宮を合祀して、仙台に遷座。
愛宕神社:こちらも米沢→岩出山→仙台と共に渡り歩いて現在地に遷座。
東昌寺:鎌倉時代に伊達政依によって陸奥国伊達郡桑折(現在の福島県北部)に建立した、伊達家最初の菩提寺→米沢→岩出山→仙台。(のちに土地を譲り東側に移り、青葉神社創建。祭神は伊達政宗と愛姫)
また、星には含まれませんが、北の玄武として配置した亀岡八幡宮も、伊達家の守り神として一緒に渡り歩いた神社です。
つまり、これらは伊達家が仙台の城下町に配置しても、お江戸に怪しまれる要素のない寺社なんです。
また、意味は真逆になりますが、元々仙台に存在していた天神社も、手厚く祭り社殿を立派にした所で、何も不自然ではありません。
でも、政宗公としてはせめて鬼門からは天神社を移し祀り奉りたかったのだし、また星の結界を完成させるためには、『さいごのひとつが足りない』という状況だったのです。
私としては、仙台には出雲系の神社が少ないので、ひとつくらいでっかい神社を建ててスサノオ様を祀って下されば、絶対に足繁く通ったと思うし、具体的には政宗公にとっての憧れの武将で、文通もしていたという織田信長公が崇敬していらした津島神社を是非とも勧請して頂きたかった…!とも思ったのですが、絶対に無理だったでしょうね。
わざわざ新しい神様を勧請してきて神社を建てるというのは、当然にご利益を期待しているからで、天下人寸前まで上り詰めた勇ましい武将が祀った勇ましい神を新たに招くとなると、徳川家が天下を治める世となったのに、まだ反旗を翻し天下人を狙うのか?と疑われても仕方が無いです。
そして、考えに考えた政宗公の没年は1636年ですから、その時には東照宮を勧請することに決めており、遺言してあったと思います。
政宗公の遺志を受けて、2代目忠宗公が徳川家光公に勧請させて欲しいと申し出たのでしょう。
仙台東照宮の創建は、1654年。で、政宗公の死から18年が経過。
因みに、榴ヶ岡天満宮(当時は天神社)は、東照宮創建のために、一時的にその東側に遷座され、現在地への遷座は1667年で既に3代綱宗公の御代です。
時系列を辿ると、新たな天満宮創建よりも東照宮を鬼門封じに置くことを優先した、ということだけはわかるんですけど。
でも、東照宮を勧請したいと申し出た2代忠宗公自身が、わざわざ天神社を1640年に修築してるのに?何故に遷座??
天神社自体は伊達氏が仙台を本拠地とする前からあって、仙台城の前は同地の国分氏居城の鬼門封じだったのに…
訳わからんわ!!!
と、私は結構長い間、頭を抱えていた訳です。
でも、榴岡天満宮の落雷について調べているうちに、「あ」と思ったんです。
気付いてしまえば、何てコレわかりやすい理由?
仙台城下町の人々には、管公が日本三大怨霊の一柱であっても、祟られる理由はありません。
学問の神様で、子宝の神様で(管公は子沢山で、12人説、14人説、23人説)、道中安全の神(行きたくなかったのに決まっているけど、太宰府への長い旅路を無事に辿り着いた)として、素朴に信仰していたはずです。
だから、氏子たちは火災と消失を悲しみつつも、落雷は雷公様のご降臨という奇跡と思い、ありがたく手を合わせることが出来た。
要するに、祟りとか祟り神とかいうものは、祟られる理由がある者の後ろめたさや恐怖によって発生する。
そして、伊達家には、管公に祟られる理由があったんです。
だって。伊達家って。
藤原北家の末裔を名乗っているんですもん。
(つづく)
2020.
03.
27
今回は『その3』なのですが、中三日空きましたので、『その2』は20/03/23、因みに『その1』は3/22になります。
という訳で。
前回は、2度も雷公が降臨(結果的には火事で災害になったのですが)するという栄誉のある強烈な天神社を、どうして鬼門の守りから外しちゃったの政宗公!!
…というところで終わりましたので、続きと参ります。
尤も、少なくとも2回目の落雷は、現在の位置に遷座してからなんですけどね。
有名な落雷と火災は寛政7年(1795)2月25日のことで、社殿だけでは済まずに鳥居まで焼ける大火事でした。
その後建て直したのが現在の社殿その他であるようです。
宮司さんが2度落雷したと仰っているのですからそうなのだと思いますが、もう1回がいつで、どのような被害であったのか、ぐぐっても見当たらなかったので、そちらの方はよくわかりません。
1795年に消失した資料に書いてあったものの、1度目の落雷については詳細は不明、というところなのだと思います。
私は、長い間わかりませんでした。
1回目の落雷がいつかということではありません。
どうして鬼門封じが天神社ではダメだったのか、ということです。
確かに、現在東照宮がある場所は、実際に家康公が来たことのある土地で、つまり「家康公ゆかりの地に東照宮を勧請したい」という理由付けはとてもナチュラルで、まさかそれを鬼門封じにしますなんて考えているなどとは疑われることはありませんでした。
実際、仙台城の鬼門封じは、現在の定禅寺通りの辺りにある寺社群がそれであるというのが、公式でした。
と、鬼門封じを公式情報として幕府に伝えなければならない程度に、各地の大名が《呪術都市》を作ることを幕府が警戒していたのが驚きです。
それに、東照宮の勧請は、当時の各藩武将達の間で流行?していまして、競うように東照宮を建てていましたから、伊達家もそうであっても何の不思議もありません。
そして、晩年の家康公の信頼を得ていた政宗公(信頼を得るまでには色々あった訳ですが)の跡継ぎ・忠宗公が、仙台にも是非東照宮を、と徳川幕府3代目・家光公に申し出た所、とても喜んでくれて費用まで出してくれたほどです。
だから、まあ鬼門封じを疑われない程度の理由付けとしては役に立ちましたけど、別に家康公ゆかりの地だとか理由を付けなくても、わざわざ天神社を遷座するという手間をかけなくても、現在榴岡天満宮がある場所に東照宮を勧請したとしても、家光公は普通に歓迎してくれたと思うんですね。
だから、実は、私の疑問は当初、『どうして鬼門封じを東照宮にこだわったの?』だったんです。
でも、よく考えたら、
ソレ順序が違う。
ことに気付いたんです。
仙台城と城下町の結界の計画は、初代政宗公とそのブレーンによるものです。
仙台に東照宮を勧請したいと徳川家光公に申し出たのは、2代伊達忠宗公なのですが、天神社を現在地に移し(榴ヶ岡天満宮)、鬼門封じは《別の寺社》に取り替えよう考えていたのは、政宗公の可能性が高い。
漠然と別の寺社、と言いますのは、まず結界6ポイントの要・仙台城築城年が1601年。
対して日光東照宮が建てられたのが1617年。(家康公は1616年没)
仙台城築城が16年も先んじていて、始めから結界の構想に、東照宮を勧請しようという発想を入れるのは時系列的に無理なんです。
だから、天神社を鬼門封じから《外したい》という発想の方が先だった、ということになります。
(つづき)
という訳で。
前回は、2度も雷公が降臨(結果的には火事で災害になったのですが)するという栄誉のある強烈な天神社を、どうして鬼門の守りから外しちゃったの政宗公!!
…というところで終わりましたので、続きと参ります。
尤も、少なくとも2回目の落雷は、現在の位置に遷座してからなんですけどね。
有名な落雷と火災は寛政7年(1795)2月25日のことで、社殿だけでは済まずに鳥居まで焼ける大火事でした。
その後建て直したのが現在の社殿その他であるようです。
宮司さんが2度落雷したと仰っているのですからそうなのだと思いますが、もう1回がいつで、どのような被害であったのか、ぐぐっても見当たらなかったので、そちらの方はよくわかりません。
1795年に消失した資料に書いてあったものの、1度目の落雷については詳細は不明、というところなのだと思います。
私は、長い間わかりませんでした。
1回目の落雷がいつかということではありません。
どうして鬼門封じが天神社ではダメだったのか、ということです。
確かに、現在東照宮がある場所は、実際に家康公が来たことのある土地で、つまり「家康公ゆかりの地に東照宮を勧請したい」という理由付けはとてもナチュラルで、まさかそれを鬼門封じにしますなんて考えているなどとは疑われることはありませんでした。
実際、仙台城の鬼門封じは、現在の定禅寺通りの辺りにある寺社群がそれであるというのが、公式でした。
と、鬼門封じを公式情報として幕府に伝えなければならない程度に、各地の大名が《呪術都市》を作ることを幕府が警戒していたのが驚きです。
それに、東照宮の勧請は、当時の各藩武将達の間で流行?していまして、競うように東照宮を建てていましたから、伊達家もそうであっても何の不思議もありません。
そして、晩年の家康公の信頼を得ていた政宗公(信頼を得るまでには色々あった訳ですが)の跡継ぎ・忠宗公が、仙台にも是非東照宮を、と徳川幕府3代目・家光公に申し出た所、とても喜んでくれて費用まで出してくれたほどです。
だから、まあ鬼門封じを疑われない程度の理由付けとしては役に立ちましたけど、別に家康公ゆかりの地だとか理由を付けなくても、わざわざ天神社を遷座するという手間をかけなくても、現在榴岡天満宮がある場所に東照宮を勧請したとしても、家光公は普通に歓迎してくれたと思うんですね。
だから、実は、私の疑問は当初、『どうして鬼門封じを東照宮にこだわったの?』だったんです。
でも、よく考えたら、
ソレ順序が違う。
ことに気付いたんです。
仙台城と城下町の結界の計画は、初代政宗公とそのブレーンによるものです。
仙台に東照宮を勧請したいと徳川家光公に申し出たのは、2代伊達忠宗公なのですが、天神社を現在地に移し(榴ヶ岡天満宮)、鬼門封じは《別の寺社》に取り替えよう考えていたのは、政宗公の可能性が高い。
漠然と別の寺社、と言いますのは、まず結界6ポイントの要・仙台城築城年が1601年。
対して日光東照宮が建てられたのが1617年。(家康公は1616年没)
仙台城築城が16年も先んじていて、始めから結界の構想に、東照宮を勧請しようという発想を入れるのは時系列的に無理なんです。
だから、天神社を鬼門封じから《外したい》という発想の方が先だった、ということになります。
(つづき)
2020.
03.
26
スサノオ、という音から推理した説では、『スサ』が『荒ぶ/すさぶ』のスサであるとか、『須佐』を地名と見て須佐の男とか、その辺りです。
結局何の神か判らず、モヤッとします。
スサノオの真名子・スセリヒメも、スセリって何?『勢いのままに進む』?何それ何の神?…と意味不明感にモヤッとするのですが、スサノオの場合、
日神・月神と共に名を連ねる三貴子であるのに、お揃い感が微塵もないので一層イラッとするのです。
※ それを言ってしまうと、もう星しかないんですが。
※ 逆に、オオクニヌシも属性がよくわからないのに気にする人は殆どいないのは、異名の多さと妻の多さに気を取られているからでありましょう。敢えて言うなら、医薬の神?温泉の神?…っていうのは、ついでのような気がして、本質的な属性っぽくないんだよなぁ…
じゃあ、スサノオに似たエピソードがあり、属性の判る名を持っているのは誰か?
何度も取り上げたように、ヒルコ(日子/日霊子/昼子)です。
それから、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ/)。またの名は、驚きの
迦毛大御神。(かものおおみかみ)
古事記は、尊称の書き方が結構いい加減なのですが(紀では尊>命、と明言している)、それでも大御神(おおみかみ)とは、流石に軽々しく言いますまい。
記で大御神の尊称を持つのは、アマテラス・イザナギ、そしてこのアジスキタカヒコネだけです。
大御神を抜きにしても、アジスキタカヒコネはスサノオに似たエピソードを持っている上に(後述します)、元の名前からして、
アジ=美称(美しい・素晴らしい)
スキ=鋤(農具。弥生時代には鉄の鋤が普及している)
タカヒコ=高日子(高く輝く男神)
ネ=根=根源、始まり
という意味で、農耕神にして太陽神で祖神なのです。
つまり、出雲国造神賀詞に登場し、熊野大社が誇らかにお祀りしている(公式HPを参照。誇らしい感に溢れていらっしゃいます)、
伊射那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(イザナギが大層可愛がる太陽神である御子にして祖神である熊野に坐す大神である霊妙な食の神)
に、かなり近いです。
ハッキリ言って私はアジスキタカヒコネはスサノオと同神だと思っています。
そんな尋常じゃない感じのアジスキタカヒコネですが、ここでは紹介するに留めて、後ほど詳しく述べたいと思います。
まずは、ヒルコ=スサノオについての考察を進めましょう。
(つづく)
結局何の神か判らず、モヤッとします。
スサノオの真名子・スセリヒメも、スセリって何?『勢いのままに進む』?何それ何の神?…と意味不明感にモヤッとするのですが、スサノオの場合、
日神・月神と共に名を連ねる三貴子であるのに、お揃い感が微塵もないので一層イラッとするのです。
※ それを言ってしまうと、もう星しかないんですが。
※ 逆に、オオクニヌシも属性がよくわからないのに気にする人は殆どいないのは、異名の多さと妻の多さに気を取られているからでありましょう。敢えて言うなら、医薬の神?温泉の神?…っていうのは、ついでのような気がして、本質的な属性っぽくないんだよなぁ…
じゃあ、スサノオに似たエピソードがあり、属性の判る名を持っているのは誰か?
何度も取り上げたように、ヒルコ(日子/日霊子/昼子)です。
それから、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ/)。またの名は、驚きの
迦毛大御神。(かものおおみかみ)
古事記は、尊称の書き方が結構いい加減なのですが(紀では尊>命、と明言している)、それでも大御神(おおみかみ)とは、流石に軽々しく言いますまい。
記で大御神の尊称を持つのは、アマテラス・イザナギ、そしてこのアジスキタカヒコネだけです。
大御神を抜きにしても、アジスキタカヒコネはスサノオに似たエピソードを持っている上に(後述します)、元の名前からして、
アジ=美称(美しい・素晴らしい)
スキ=鋤(農具。弥生時代には鉄の鋤が普及している)
タカヒコ=高日子(高く輝く男神)
ネ=根=根源、始まり
という意味で、農耕神にして太陽神で祖神なのです。
つまり、出雲国造神賀詞に登場し、熊野大社が誇らかにお祀りしている(公式HPを参照。誇らしい感に溢れていらっしゃいます)、
伊射那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(イザナギが大層可愛がる太陽神である御子にして祖神である熊野に坐す大神である霊妙な食の神)
に、かなり近いです。
ハッキリ言って私はアジスキタカヒコネはスサノオと同神だと思っています。
そんな尋常じゃない感じのアジスキタカヒコネですが、ここでは紹介するに留めて、後ほど詳しく述べたいと思います。
まずは、ヒルコ=スサノオについての考察を進めましょう。
(つづく)
2020.
03.
25
でも、太陽神ヒルコは葬っても、英雄そのものを消す訳にはいかなかったのです。
女神アマテラスは、誓約(うけい)とやらの奇妙な手段で、神武帝に繋がる男神を得る必要があった。
同じく道主貴こと宗像三女神という、おそらく有史以前から深い崇敬をよせられていた偉大な女神を、アマテラスorスサノオの系譜に組み込む必要があった。
そして、英雄は出雲に降って、天叢雲剣をアマテラスに献上し、出雲とオオクニヌシの祖とならねばならなかったのですから。
オオクニヌシは、『所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)』と言う長々しくリスペクトした名を、出雲国風土記が連呼するほど、当時の出雲国造が推した神です。
そして、日本書紀では、本当に数少ない神にしか贈られることのない尊称・『貴/ムチ』が付いた『大己貴』と表記される名を持っています。
『貴』が付くのは、日本書紀では大日孁貴と大己貴と道主貴(みちぬしのむち/宗像三女神三人セット)のみです。
そのくらい、地位を高く見せる理由がある。
大日孁貴はともかく、大己貴については、天孫が奪った国の王なので、天皇家が怨霊に『徳』の字を諡に付けて赦しを請うようなものだったと、私は解釈しています。
因みに、古事記ではさらに2柱追加されます。
『布波能母遅久奴須奴神/ふはのもぢくぬすぬのかみ』
母遅(モチ)=貴(ムチ)。古事記の神裔に名が出るのみで、具体的エピソードは無し。祖父・スサノオ、祖母・クシナダヒメ。父・八島士奴美神、母・コノハナチルヒメ(サクヤヒメの姉。サクヤヒメはニニギの妻で、神武天皇の曾祖母)。
『八島牟遅能神/やしまむぢのかみ』
牟遅(ムヂ)=貴。古事記の神裔に名が載るのみで具体的エピソード無し。オオクニヌシの妻・鳥取神の父。
という訳で、古事記の2柱を日本書紀は無視していますが、どちらもスサノオとオオクニヌシに繋がる神(宗像三女神のうち2柱はオオクニヌシの妻)であり、日本書紀でさえも
英雄にして出雲の祖からオオクニヌシに至る流れは、消せない理由がある、ということなのでしょう。
その、英雄にして出雲の祖が何者か、というのが問題なのですけれども。
何言ってんの?スサノオじゃん。…はい、そう書いてあります。
でも、その神は何者なのか?
でも、日本書紀は漢文で記されているのですから、当然に記述者たちは漢字の意味も知っているのに、『素戔嗚』という漢字のチョイスは、わざわざ『嗚』を当てて、いい年して泣き喚く奴という蔑称でしょう。
古事記の『須佐之男』は、単に音がスサノオ(スサノヲ)と判るのみです。(現代人にはどっちも『お』ですが)
※ 日本書紀の『素戔嗚』だと、お、ヲの部分の発音がまた違ってくるようですが、私はそれについて論じる知識を持ちません
『スサノオ』という名前からは、日本の正史が貶める必要があったということと、《名前の音》しかわからない。
日本書紀も古事記も、どちらも『スサノオ』の属性を隠している。
太古の太陽神・ヒルコを葬り去ったように、スサノオがどのような神なのかが知れてしまうと、
太陽の女神・アマテラスという至高の神の地位が揺らぐことになるからです。
ヒルメはただのヒルメではなく大日孁貴であり、イコール太陽神であり、イコール天照大神という名であり、神棚では中央にお札を祀らなければならない至高神であり、男系・父系であるはず皇室の祖神であるのに何故か女神である、という設定を崩してはならない。
逆に言えばこの設定のどれかは嘘で、ほかの神を乗っ取っている設定です。
オオクニヌシにはあれこれ異名があるのに、事代主には装飾された本名or諡号と思われる名が記述されているのに、出雲という重要な土地の開拓者であり、王となった三貴子であるにしては、スサノオの異名も諡号も記されていない不自然さ。
※ 始めから素戔嗚と蔑み、本文では支配領域も与えず追放した日本書紀は、一貫した態度ではありますが
先代旧事本紀や神社の祭神が主張する、『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと/本名というより、生前の業績を称えた諡号だと思います)まで長くしなくてもいいんですけど、もっとシンプル版の『天照國照彦天火明尊』で、十分に
1.火の明かりという太陽神(上代では『天照』は太陽だけではなく『月』も有り得る)
2.彦=男神
3.国を照らす存在=偉大な王(現人神)
という属性がわかります。
真逆に、『スサノオ』という名は意味が非常に特定しづらい。
だから、スサノオは多くの人が、スサ=『荒ぶ/すさぶ』=荒々しい神、という漠然としたイメージで留まるか、状況証拠で海神、嵐神、月神(=ツクヨミ同神説)なのではないかと論じるしか無かった。それ程までに、スサノオは本来、
時の権力者によって秘された偉大な神なのだと思います。
(つづく)
女神アマテラスは、誓約(うけい)とやらの奇妙な手段で、神武帝に繋がる男神を得る必要があった。
同じく道主貴こと宗像三女神という、おそらく有史以前から深い崇敬をよせられていた偉大な女神を、アマテラスorスサノオの系譜に組み込む必要があった。
そして、英雄は出雲に降って、天叢雲剣をアマテラスに献上し、出雲とオオクニヌシの祖とならねばならなかったのですから。
オオクニヌシは、『所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)』と言う長々しくリスペクトした名を、出雲国風土記が連呼するほど、当時の出雲国造が推した神です。
そして、日本書紀では、本当に数少ない神にしか贈られることのない尊称・『貴/ムチ』が付いた『大己貴』と表記される名を持っています。
『貴』が付くのは、日本書紀では大日孁貴と大己貴と道主貴(みちぬしのむち/宗像三女神三人セット)のみです。
そのくらい、地位を高く見せる理由がある。
大日孁貴はともかく、大己貴については、天孫が奪った国の王なので、天皇家が怨霊に『徳』の字を諡に付けて赦しを請うようなものだったと、私は解釈しています。
因みに、古事記ではさらに2柱追加されます。
『布波能母遅久奴須奴神/ふはのもぢくぬすぬのかみ』
母遅(モチ)=貴(ムチ)。古事記の神裔に名が出るのみで、具体的エピソードは無し。祖父・スサノオ、祖母・クシナダヒメ。父・八島士奴美神、母・コノハナチルヒメ(サクヤヒメの姉。サクヤヒメはニニギの妻で、神武天皇の曾祖母)。
『八島牟遅能神/やしまむぢのかみ』
牟遅(ムヂ)=貴。古事記の神裔に名が載るのみで具体的エピソード無し。オオクニヌシの妻・鳥取神の父。
という訳で、古事記の2柱を日本書紀は無視していますが、どちらもスサノオとオオクニヌシに繋がる神(宗像三女神のうち2柱はオオクニヌシの妻)であり、日本書紀でさえも
英雄にして出雲の祖からオオクニヌシに至る流れは、消せない理由がある、ということなのでしょう。
その、英雄にして出雲の祖が何者か、というのが問題なのですけれども。
何言ってんの?スサノオじゃん。…はい、そう書いてあります。
でも、その神は何者なのか?
でも、日本書紀は漢文で記されているのですから、当然に記述者たちは漢字の意味も知っているのに、『素戔嗚』という漢字のチョイスは、わざわざ『嗚』を当てて、いい年して泣き喚く奴という蔑称でしょう。
古事記の『須佐之男』は、単に音がスサノオ(スサノヲ)と判るのみです。(現代人にはどっちも『お』ですが)
※ 日本書紀の『素戔嗚』だと、お、ヲの部分の発音がまた違ってくるようですが、私はそれについて論じる知識を持ちません
『スサノオ』という名前からは、日本の正史が貶める必要があったということと、《名前の音》しかわからない。
日本書紀も古事記も、どちらも『スサノオ』の属性を隠している。
太古の太陽神・ヒルコを葬り去ったように、スサノオがどのような神なのかが知れてしまうと、
太陽の女神・アマテラスという至高の神の地位が揺らぐことになるからです。
ヒルメはただのヒルメではなく大日孁貴であり、イコール太陽神であり、イコール天照大神という名であり、神棚では中央にお札を祀らなければならない至高神であり、男系・父系であるはず皇室の祖神であるのに何故か女神である、という設定を崩してはならない。
逆に言えばこの設定のどれかは嘘で、ほかの神を乗っ取っている設定です。
オオクニヌシにはあれこれ異名があるのに、事代主には装飾された本名or諡号と思われる名が記述されているのに、出雲という重要な土地の開拓者であり、王となった三貴子であるにしては、スサノオの異名も諡号も記されていない不自然さ。
※ 始めから素戔嗚と蔑み、本文では支配領域も与えず追放した日本書紀は、一貫した態度ではありますが
先代旧事本紀や神社の祭神が主張する、『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと/本名というより、生前の業績を称えた諡号だと思います)まで長くしなくてもいいんですけど、もっとシンプル版の『天照國照彦天火明尊』で、十分に
1.火の明かりという太陽神(上代では『天照』は太陽だけではなく『月』も有り得る)
2.彦=男神
3.国を照らす存在=偉大な王(現人神)
という属性がわかります。
真逆に、『スサノオ』という名は意味が非常に特定しづらい。
だから、スサノオは多くの人が、スサ=『荒ぶ/すさぶ』=荒々しい神、という漠然としたイメージで留まるか、状況証拠で海神、嵐神、月神(=ツクヨミ同神説)なのではないかと論じるしか無かった。それ程までに、スサノオは本来、
時の権力者によって秘された偉大な神なのだと思います。
(つづく)
2020.
03.
24
今日は、中2日空けての『その14』をお届けします。
前回の『その13』は、20/03/21 です。
ここで、ヒルコ=スサノオ説について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。
私はこの連載の初めの方で、生まれてきたスサノオが泣き喚くので、記紀が言う青山が涸れ海も干上がった、人々が死んだ、という記述は、日本の嵐=暴風雨とは真逆で、これは
嵐の描写じゃない、旱(ひでり)だと、荒ぶる太陽神の描写だと書きました。
加えて、日本書紀本文での誕生順が、
1.オオヒルメという名の日神(異伝では天照大神、天照大日孁尊)→天へ送られる
2.月神(正式な名は述べず、異伝では月弓尊、月夜見尊、月讀尊)→日神と並んで天を治めるように天に送られる→本文ではそれ以降出てこない。異伝にて月夜見尊が保食神を殺してしまい、天照大神が悪神めもう顔も見たくないと怒り、昼と夜に別れて住むことになった。(日月分離神話)
3.蛭児(蛭兒)→3歳になっても足が立たないので、天磐櫲樟船に乗せて棄てられる。→それ以降は異伝にさえ出てこない。
4.素戔嗚尊(異伝にて、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、と神威の強さを表す敬称が足されている)→勇猛だが残忍に過ぎるので、遠く根の国へ行け(死ね、と大差無い)と追い出される→その後色々過ちを犯すも、最後には英雄。
こうして見ると、ツクヨミの葬り方にも闇を感じますが、スサノオについて。
スサノオという神は、典型的な貴種流離譚キャラクターなのです。
貴子流離譚(きしゅりゅうりたん)とは、神話の類型です。『お約束のパターン』だということです。
※ お約束、という点では、アマテラスとツクヨミの日月分離神話もそのようなものです
wikiを引用しますが、
>神話的英雄の苦難の冒険の物語については、ギリシア神話や日本の神話にも例が見られ、「高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、『忌子として捨てられた双子の弟』『王位継承を望まれない(あるいはできない)王子』などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する」という話型を持つものがある。
というものです。貴種漂流譚(きしゅひょうりゅうたん)とも言います。
スサノオの場合、親神に疎まれ追い出され、姉を慕って高天原を訪ねるも、悪童のように様々な悪さをしてしまい、当然に罰せられ、再び神々の世界から追放されて、地祇の世界に降りることになります。
でも、そこで出会った弱々しい老夫婦と幼い少女と出会い、彼が生来持っていた知恵と力を正しく使い、生贄寸前のクシナダヒメを救う英雄となり、クシナダヒメを娶り、安住の地を得て宮を構え、王となり子孫が栄えます。
文句なしに典型的です。
一方、ヒルコはどうだったでしょうか?
国産み・神産みの創造神が両親なのですから、紛うこと無き貴種です。
そして、スサノオのように疎まれて捨てられます。船に乗って海を流れてゆくヒルコの運命は、不遇な貴種の旅立ちです。
また、貴子流離譚でよくあるのが、《川などに流されて捨てられる》というエピソードです。
でも、ヒルコはその典型的パターンで船出するのに、その後の冒険や試練は描かれず、歴史から葬り去られるのです。
つまり、ヒルコのストーリーは、壊された英雄流離譚です。
ヒルコは、本当は冒険と試練の末に英雄となるべき、アメ・アマ(天と海)を翔る太陽神であるはずでした。
でも、その勇姿を見せることを許されずに、抹消された。
ヒルメを天照大御神という太陽の女神にして至高神にするには、ヒルコは邪魔だから。
(つづく)
前回の『その13』は、20/03/21 です。
ここで、ヒルコ=スサノオ説について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。
私はこの連載の初めの方で、生まれてきたスサノオが泣き喚くので、記紀が言う青山が涸れ海も干上がった、人々が死んだ、という記述は、日本の嵐=暴風雨とは真逆で、これは
嵐の描写じゃない、旱(ひでり)だと、荒ぶる太陽神の描写だと書きました。
加えて、日本書紀本文での誕生順が、
1.オオヒルメという名の日神(異伝では天照大神、天照大日孁尊)→天へ送られる
2.月神(正式な名は述べず、異伝では月弓尊、月夜見尊、月讀尊)→日神と並んで天を治めるように天に送られる→本文ではそれ以降出てこない。異伝にて月夜見尊が保食神を殺してしまい、天照大神が悪神めもう顔も見たくないと怒り、昼と夜に別れて住むことになった。(日月分離神話)
3.蛭児(蛭兒)→3歳になっても足が立たないので、天磐櫲樟船に乗せて棄てられる。→それ以降は異伝にさえ出てこない。
4.素戔嗚尊(異伝にて、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、と神威の強さを表す敬称が足されている)→勇猛だが残忍に過ぎるので、遠く根の国へ行け(死ね、と大差無い)と追い出される→その後色々過ちを犯すも、最後には英雄。
こうして見ると、ツクヨミの葬り方にも闇を感じますが、スサノオについて。
スサノオという神は、典型的な貴種流離譚キャラクターなのです。
貴子流離譚(きしゅりゅうりたん)とは、神話の類型です。『お約束のパターン』だということです。
※ お約束、という点では、アマテラスとツクヨミの日月分離神話もそのようなものです
wikiを引用しますが、
>神話的英雄の苦難の冒険の物語については、ギリシア神話や日本の神話にも例が見られ、「高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、『忌子として捨てられた双子の弟』『王位継承を望まれない(あるいはできない)王子』などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する」という話型を持つものがある。
というものです。貴種漂流譚(きしゅひょうりゅうたん)とも言います。
スサノオの場合、親神に疎まれ追い出され、姉を慕って高天原を訪ねるも、悪童のように様々な悪さをしてしまい、当然に罰せられ、再び神々の世界から追放されて、地祇の世界に降りることになります。
でも、そこで出会った弱々しい老夫婦と幼い少女と出会い、彼が生来持っていた知恵と力を正しく使い、生贄寸前のクシナダヒメを救う英雄となり、クシナダヒメを娶り、安住の地を得て宮を構え、王となり子孫が栄えます。
文句なしに典型的です。
一方、ヒルコはどうだったでしょうか?
国産み・神産みの創造神が両親なのですから、紛うこと無き貴種です。
そして、スサノオのように疎まれて捨てられます。船に乗って海を流れてゆくヒルコの運命は、不遇な貴種の旅立ちです。
また、貴子流離譚でよくあるのが、《川などに流されて捨てられる》というエピソードです。
でも、ヒルコはその典型的パターンで船出するのに、その後の冒険や試練は描かれず、歴史から葬り去られるのです。
つまり、ヒルコのストーリーは、壊された英雄流離譚です。
ヒルコは、本当は冒険と試練の末に英雄となるべき、アメ・アマ(天と海)を翔る太陽神であるはずでした。
でも、その勇姿を見せることを許されずに、抹消された。
ヒルメを天照大御神という太陽の女神にして至高神にするには、ヒルコは邪魔だから。
(つづく)
2020.
03.
23
国分氏の先代城の鬼門封じは天神社であったのですが、何故か伊達家は2代忠宗公~3代綱宗公の時代に、その場所に東照宮を建立し、天神社は当時の別の軍事的要所で、実は仙台城建築の候補でもあった高台(今は周りに高い建物が多くてあんまり高台感がしないのですが)遷座してしまったのです。
つまり、仙台城の鬼門封じを、天神社(天満宮)から東照宮へと、変更したということです。…何故に?
そして、遷座された榴岡天満宮ですが、太宰府からも京都からも離れておりますけれども、ある意味ガチな神社です。
何しろ、日本各地にある天満宮・天神社の中で、唯一、落雷しているのです。2回も。
これ、いにしえの天皇家なら、管公の祟りじゃあ~~~~!!!と、恐れまくりもうひとつ新たに天満宮を建立しそう(管公が無実の罪で配流先で亡くなった後、藤原菅根が落雷で死亡。2度目は平安京内裏の清涼殿に落雷、燃え広がって7名の死者)ですが、
仙台人は祟りを思い付くほど後ろ暗い所などありません。
神社を崇敬していた人々は、落雷で社殿や貴重な資料や宝物が焼けて失われてしまったことを悲しみつつも、
おらが町の天神社に、二度も雷公が降臨なさった!!
※ 菅原道真公は、上記の平安時代の落雷事件により、死して天神(雷の神)になったと伝えられています
という、素晴らしいポジティブシンキングで、天神社を再建したのでした。
これほどパワフルな天神社を(昭和30年代までそう呼ばれていたらしく、天満宮の名は新しい)、
どうして鬼門封じから外して遷座し、東照宮に変えちゃったんですか?政宗様!
(『その3』につづく)
つまり、仙台城の鬼門封じを、天神社(天満宮)から東照宮へと、変更したということです。…何故に?
そして、遷座された榴岡天満宮ですが、太宰府からも京都からも離れておりますけれども、ある意味ガチな神社です。
何しろ、日本各地にある天満宮・天神社の中で、唯一、落雷しているのです。2回も。
これ、いにしえの天皇家なら、管公の祟りじゃあ~~~~!!!と、恐れまくりもうひとつ新たに天満宮を建立しそう(管公が無実の罪で配流先で亡くなった後、藤原菅根が落雷で死亡。2度目は平安京内裏の清涼殿に落雷、燃え広がって7名の死者)ですが、
仙台人は祟りを思い付くほど後ろ暗い所などありません。
神社を崇敬していた人々は、落雷で社殿や貴重な資料や宝物が焼けて失われてしまったことを悲しみつつも、
おらが町の天神社に、二度も雷公が降臨なさった!!
※ 菅原道真公は、上記の平安時代の落雷事件により、死して天神(雷の神)になったと伝えられています
という、素晴らしいポジティブシンキングで、天神社を再建したのでした。
これほどパワフルな天神社を(昭和30年代までそう呼ばれていたらしく、天満宮の名は新しい)、
どうして鬼門封じから外して遷座し、東照宮に変えちゃったんですか?政宗様!
(『その3』につづく)
2020.
03.
22
おはようございます。
伊達家家臣の末裔・chikaru です。(本家の姉妹の長女なのに嫁に出たので本家が絶えましたすみません)
今日は、久しぶりに【伊達政宗の結界の町】のカテゴリの記事を書いてみます。
既にそのカテゴリの文章を読んだことのある方、或いは仙台近辺在住で、この手の話題が好きな方、或いはどんなに遠くにお住まいでも、筋金入りの伊達政宗ファンの方は御存知だと思いますが、かつての仙台城下町には、仙台城を起点にして5つの寺社をプラスした6ポイントで形成されている結界があります。
※ 詳しく知りたい方は、星の街仙台というHPをご覧下さい。
6ポイントですから、お隣同士を結べば亀甲紋というめでたい形になりますし、ひとつ飛ばしに線を繋げば、上下の三角形が重なった六芒星になります。
ちょっとばかりその形が歪であるのは、このポイントが全て高台にあって、見晴らしの良い軍事的な要所を抑えておくという、現実的な事情があったからだと思います。
そして、この六芒星、南北を結ぶ線からは、頂点が西側に傾いています。
何で?と思うかも知れませんが、
仙台城のほぼ北東、要するに鬼門に、仙台東照宮が存在する。
まずは鬼門封じありきで形作られた六芒星または亀甲紋なので、傾いていていいのです。
それに、現在仙台東照宮があった場所には、もともと天神社がありました。(現在の榴ヶ岡天満宮)
伊達氏が仙台に来る以前に、仙台城があった場所には国分氏の居城・千代城(せんだいじょう。誤字じゃないです。多分始まりは川内(せんだい)→千代(国分氏:末永く)→仙台(政宗公:仙人が住むという永遠)というバージョンアップ)がありまして、つまり国分氏にとってもその場所は軍事的要所と鬼門封じを兼ねた聖地で、予め最低限の結界は整えられていた、ということです。
私にとって長らく謎だったのは、、特に弄らなくたって、既に鬼門封じは存在したのに、政宗公はその鬼門の守りを、
わざわざ天神社を遷座させてまで、新たに勧請した東照宮にすげ替えてしまった、ということです。
東照宮の勧請を、家光公に願い出たのは2代目・忠宗公ですが、
伊達氏の結界作りは、初代仙台藩主・伊達政宗公にはじまり、だいたい完成するのは4代綱村公の頃です。
時を急いてはお江戸にバレますので、ゆっくりと時間をかけて完成させていった仙台城と城下町の守りは、
政宗公がご自身亡き後の子孫を信じ、託した大事業であったのです。
(つづく)
伊達家家臣の末裔・chikaru です。(本家の姉妹の長女なのに嫁に出たので本家が絶えましたすみません)
今日は、久しぶりに【伊達政宗の結界の町】のカテゴリの記事を書いてみます。
既にそのカテゴリの文章を読んだことのある方、或いは仙台近辺在住で、この手の話題が好きな方、或いはどんなに遠くにお住まいでも、筋金入りの伊達政宗ファンの方は御存知だと思いますが、かつての仙台城下町には、仙台城を起点にして5つの寺社をプラスした6ポイントで形成されている結界があります。
※ 詳しく知りたい方は、星の街仙台というHPをご覧下さい。
6ポイントですから、お隣同士を結べば亀甲紋というめでたい形になりますし、ひとつ飛ばしに線を繋げば、上下の三角形が重なった六芒星になります。
ちょっとばかりその形が歪であるのは、このポイントが全て高台にあって、見晴らしの良い軍事的な要所を抑えておくという、現実的な事情があったからだと思います。
そして、この六芒星、南北を結ぶ線からは、頂点が西側に傾いています。
何で?と思うかも知れませんが、
仙台城のほぼ北東、要するに鬼門に、仙台東照宮が存在する。
まずは鬼門封じありきで形作られた六芒星または亀甲紋なので、傾いていていいのです。
それに、現在仙台東照宮があった場所には、もともと天神社がありました。(現在の榴ヶ岡天満宮)
伊達氏が仙台に来る以前に、仙台城があった場所には国分氏の居城・千代城(せんだいじょう。誤字じゃないです。多分始まりは川内(せんだい)→千代(国分氏:末永く)→仙台(政宗公:仙人が住むという永遠)というバージョンアップ)がありまして、つまり国分氏にとってもその場所は軍事的要所と鬼門封じを兼ねた聖地で、予め最低限の結界は整えられていた、ということです。
私にとって長らく謎だったのは、、特に弄らなくたって、既に鬼門封じは存在したのに、政宗公はその鬼門の守りを、
わざわざ天神社を遷座させてまで、新たに勧請した東照宮にすげ替えてしまった、ということです。
東照宮の勧請を、家光公に願い出たのは2代目・忠宗公ですが、
伊達氏の結界作りは、初代仙台藩主・伊達政宗公にはじまり、だいたい完成するのは4代綱村公の頃です。
時を急いてはお江戸にバレますので、ゆっくりと時間をかけて完成させていった仙台城と城下町の守りは、
政宗公がご自身亡き後の子孫を信じ、託した大事業であったのです。
(つづく)