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2020. 01. 31  
前回『その4』はスサノオ様の呼称・美称についてのお話で終わりましたので、今回はスセリヒメ様の名を考察する所から、タイトルの謎解きをします。

血統としては、出雲の女王に匹敵するスセリヒメ。

だからこそ、日本書紀は無視を決め込みましたが、物語形式の古事記としては、《青年・オオナムチの成長譚》には欠かせない存在であったので一応登場させたものの、スセリヒメについては、嫉妬の恐ろしい酒好きで慎みのない女のレッテルを貼って終わりにしたかったはずです。
事実、《スセリヒメ》の名は、オオクニヌシと歌を読み交わし仲直りして、今も出雲大社に仲良くおわすのですよ、でお終いになり、その後の消息はありません。
出雲の正統な継承者であるのに、その母神も御子神も記されぬままに。

その御子神が末子でなかったならば書いても差し支えなかったかもしれませんが、アマテラス推しで天孫サイド推しの古事記としては、敵国の継承者スセリヒメと次代の継承者・末子の事代主の正当性を葬らなければなりません。

だから、代わりに神屋楯比売神という、《神》を2つも使った立派な名前を用意した。

『大国主』は代々受け継がれた王の称号で、誰かひとりを指す名前ではない、と私は読んでいます。
出雲の婿養子が、たったの一代で《大国主》に上り詰めたとは考えられません。
色々と異名が挙げられている程度に、『大国主』は何人もいて、代々受け継がれた王の称号であったのではないでしょうか。

『スサノオ』も、大国になる前、出雲の豪族だった頃からの呼称で、これも代々引き継がれていたかも知れません。
スサノオ様と響きが似ている『スセリヒメ』も末子の女性が受け継ぐ称号だったならば、スセリヒメにはサクヤヒメと同じように本名が存在し、それは激しい神威に敬意を払われた、神屋楯比売神(カムヤタテヒメノカミ)が個人名であった可能性があります。

また、日本書紀が一切記述しなかった、タケミナカタ。
古事記もまた、『八千矛』のヌナカワヒメへの妻問いは記述したのに、国の存亡の危機にタケミナカタを登場させたのに、その神裔にヌナカワヒメとタケミナカタの名は連ねなかった。

ならば、タケミナカタの母神もスセリヒメである可能性があると思います。

糸魚川近辺の伝承は、ヌナカワヒメへの妻問いの話と、諏訪に勇猛な神がいた、という立地の近さからのちに習合したということです。
タケミナカタは、末子ではないながらも正妃・スセリヒメの子として権力を持ち、祭祀を司っていたコトシロヌシとは対照的に、大国の武将として名を馳せていたのではないでしょうか。

出雲は敗れた。でもそれは、支配者同士の関係です。
支配者の下には、コトシロヌシが暢気に釣りを楽しんでいた程度に、出雲の民が平和に暮らしていたはずです。

タケミナカタは、出雲から逃げる難民を守り、率いる役目を持ち、諏訪に第2の出雲王朝を築こうとした=それは皮肉にも、元から諏訪に暮らしていた人々を侵略してでも……という結果を生んだのではないのでしょうか。

『事代主』も、『大国主』のように、個人名ではない称号です。
だから、その証拠に、八神殿に、事代主がいる。

(つづく)
2020. 01. 30  
ちょっと連載を休んで、この記事を書きたくなりました。

私は、日本の古代神話が古代史を反映している派なので、そういう本を読んだりサイトを見たりしているのですが、この界隈は10年前の考察がもう古いという程度に、科学的なアプローチが加速しているようです。

だから、その古い情報に触れるとイラッとするのが

何でも朝鮮起源説。

何でも渡来人説。

というやつです。
私も昭和なので、日本の古代史については、

『進んだ技術は全て朝鮮と中国からもたらされた』とか
『先進文化を持つ渡来人が押し寄せてきてきたので、混血して現在の日本人になっていったが、北と南に逃れた縄文人がアイヌ人と沖縄人になった』

とかいうのは、もう当たり前のこととして、先入観として植え付けられてしまっているのは、非常に良く解ります。

だから、偉い大学の偉い先生も、在野の古代史研究家も、その『当たり前』を『先入観』と気付かぬまま、『常識』として疑いもせずに古代の事実を解明しようと、懸命に研究生活を重ねたはずです。

でも、古代史の世界とは、ある新発見をきっかけに、一挙に様々なことが覆されることがあるのです。

ある研究家が20年30年かけて練り上た壮大な論考が、一瞬で破綻するようなことも起こり得る、それが古代史というものなのだと思います。

個人的には、アイヌが日本の先住民族であったか否か、早く明確な結論が出て欲しいと思っています。
私の手元に、在野の研究者が自費出版したと思われる本があるからです。

名を伏せて、序文を以下に引用させて頂きます。

『本書出版の動機は、日本古代史研究家でありアイヌ民族であった、T氏の遺志を実現させたかった事です』
『また、私がその遺志を引き継ぎ、十数年かけ意宇出雲国こと邪馬臺國に関して調査の新資料と自前の写真を後世に残しておきたかったことです。』


この本は、アイヌがその昔日本に広く住んでいた先住民族であることを前提に、様々な古代の言葉はアイヌ語で謎を解くことが出来るというスタンスで書かれているのです。
でも、最近私が目にした(私の目が遅れているだけかもしれませんが)アイヌの実態は、

13世紀頃、大陸の元王朝に押されて日本に逃れてきた日本人とは殆ど関係のない民族である。
その証拠に、彼らは日本の優れた縄文土器文化も漆文化も全く受け継いでおらず、言語も北方縄文人とは別系統である。(民族移動をしても、言語系統はそう簡単には変わらず長く継承されるらしい)

これが本当であるならば、上記の本の著者、そして著者に志を託して亡くなったT氏の研究成果は、水泡に帰す。
そう思うと、私はひとごとながら、泣きたい気持ちになるのです。

だから、私は古代史は好きなのに、怖い。のだと、思います。

私が中学生で歴史を習った時には、弥生時代=稲作の時代であり、それは前3世紀~3世紀でした。
それが、今では紀元前10世紀にまで遡り(wikiでは前4世紀という記述と混ざった編集になっている)、その区分を以てしても尚、稲作は縄文時代後期には存在し、いまや弥生時代と稲作はリンクしないのが通説となっています。

そして、かつては朝鮮人が海を渡って日本に来ていた、というのが当たり前でしたが、むしろ逆であったことが判りました。
日本の縄文人の方が、朝鮮半島に渡ってゆき、定住したのです。

朝鮮半島には、空白の5千年があります。ほぼ無人地帯だった時代です。
これは、世界史上珍しくないらしく、沖縄も1万年以上、人間が暮らしていた痕跡が見当たらない時代が存在します。

その空白期間、今から約7000年ほど前に、日本の縄文人は海を渡って半島南部に移住していたのです。

古代の人々にとって、圧倒的に便利なのは陸路よりも海路です。
実は、日本の場合は江戸時代辺りでも大差無かったのではと個人的に思います。

現代人は、古代の海洋民族の驚くほどの航海技術を知らなかった(忘れてしまった)から、昭和の時代はモアイ像とムー大陸の繋がりを本気で信じる人が結構いた訳です。(私も信じていました。少なくともアトランティスよりはずっと信じていた)

陸路は、大変です。何しろ
わざわざ道を切り拓き、しかも維持出来る程度に脇の草木の手入れをし、人々の行き来が続いていなければならない。そうでなければあっという間に廃れるからです。(だから各地に、ほんの名残しか留めない街道の断片が散っている)

日本は陸の殆どが山で、一山越えれば別のクニだったり方言が外国語かと思うレベルに異なっていたりした訳で、水路こそが王道。
それも、太平洋のように波が荒い訳ではない西側の海ならば、比べようもなく海路の方が便利で現実的な道です。

だから、半島で縄文土器が発掘される。前方後円墳まで発掘される。
かの半島の研究者は、『前方後円墳は韓国発祥だ』とまで言い出したらしいですが、日本にある古墳よりも新しいことが判明すると、その墳墓を丸く変形させたというのだから、よほどプライドに障ったのでしょう。

しかし、現在の半島人がどう思おうと、古代の、のちに中国の各王朝がその史書にて『倭』や『倭人』と記す人々が、同じ文化を共有する人々と、お互いに海を自由に渡って行き来していた、のが新たに見えてきた事実です。

そして、日本の書物によく見られる表現の《カラ》。
『韓』も『唐』も『空』も、全部《カラ》です。

『唐』の漢字を使ったきっかけは、そのまま唐王朝でしょう。
『韓』は、元から半島にいた『倭』と区別して、中国の史書に『韓』が出て来ます。

そして、日本人は『海の向こう』を広く《カラ》と呼んでいたようです。

一方で、『空』っぽ、という意味で使われる《カラ》。
例えば、当時の作物の栽培に適さない、『不毛の土地』も《カラ》です。

『韓』とか『唐』とか付けば、何でも朝鮮半島や中国の各王朝や渡来人(日本の縄文とは別系統の人々)と結びつけることの方が強引だと思います。

古代日本は、古代の朝鮮民族から、何か教えを請うていた訳ではないし、彼らが渡来人=弥生人の大集団となって侵略しに来たこともなければ、当然に弥生人が縄文人を追い出した事実も無いのです。
(縄文~弥生は、現在は連続した流れとされているようです)

実際、古代日本で栽培されていた米の遺伝子は、長江南部が起源と見られ、そちらからは少数ながら《渡来人》があったのでしょう。(遺伝子的に、日本は近隣の国々と離れており、他民族が大挙して押し寄せた形跡が無い)

大陸の王朝は、朝貢に来た古代日本人や居住する場所を『倭』と記しているますが、朝鮮半島にも確かに『倭種』が先住していたのだし(空白の5千年以前にいた人々は絶滅したと見られ、現在の朝鮮民族とは繋がらない)、のちに現れる『韓』という人々とは区別して、『倭』の文化について記しています。

そして、少なくとも、中国の各王朝が記した『倭』は、優れた文化を持ち、風俗は乱れていないと評し、珍品があると興味を示しています。
それが、古代の『倭』であり、北海道であっても縄文から擦文時代・擦文文化に移行する道を辿っただけで、優れた縄文文化を持っていたのは本州と同じです。

私もそうだったのですが、古代の日本と言えば、東の果ての陸の孤島で、アジアの中でも最も未開の地であり、腰蓑を着けて石斧を持った人々がウッホッホなイメージでした。(今思えばあんまりだけど、昔のマンガってそんな描写をしてませんでしたっけ?)
ところが、この東の果ての土地は、驚きの先進国でした。(クニ、という概念はまた別の話になりますが)
漆文化は中国よりも早く、製鉄の技術も『韓』に先んじていました。

でも、東の果てでぽつんと海に浮かぶ島国で『日本人』を名乗るようになった私達は、何かと『日本人のルーツ』を求めたがります。
日本人はどこからきたのか?
《私》の先祖はどこからきたのか?と。

アフリカで誕生した人類は、様々な遺伝子的突然変異や交配を経ながら世界各方面に散ってゆき、東の果てであった旧石器時代の日本には、実に多様な遺伝子を持った人々が南北のルートからやって来て、混血をして縄文人になった。
以来、ぽつぽつと他民族の訪れはあったけれども、日本を大きく揺るがすような民族大移動も侵略も無かった。
ただ、最果ての島国という特徴から、多くの民族の終着地点となった為、日本人の遺伝子は複雑なものとなり、案外日本人の顔は多様なのだし、背丈も違う。

私のように、居酒屋でバイトをすればフィリピン人と間違われ、新婚旅行先のバリ島では、
「貴女は本当にバリ人のようだ!全く日本人には見えない!!」
と、当地のガイドさんに大絶賛された、変わり種の純正日本人も居る程度に。

古代史の考え方も、何かと渡来人、何かと朝鮮人、という見方を改めるべきです。
旧来の常識に縛られていても、発掘される遺跡とその新発見は旧説を覆します。
遺伝子分析の技術が飛躍的に進んでいる今、『優れたものは外来である』という思い込みを捨てなければ、何年もの研究成果が無駄になります。

昔、日本列島の国々は、けっしてひとつの国ではありませんでした。
たくさんの、戦いがありました。

でも、「日本人はどこから来たのか?」という問いには、

『大昔に世界中から来た』

或いは、
『日本人は、日本にいた』。

…で、よいのだと、思います。


今日は、これにて。

明日は、『事代主と建御名方の母神は誰?:その5』をお届けしますね。
2020. 01. 29  
前回、崇徳天皇と同パターンでは?というところまで来ました。
このブログを読んでいて、崇徳天皇って誰?と言う人はあまり居なそうなのですが、一応、

解りやすい怨霊講座。

菅原道真、平将門、そして崇徳天皇が、悲劇の死を遂げた後、無念のあまりに恨み憎み、恐ろしい怪異を起こした

三大怨霊と呼ばれているのです。

崇徳天皇について、かなり端折ってざっくりと説明をしますと、時は平安時代後期・院政の時代。
崇徳天皇の母・藤原璋子(待賢門院)は、幼い少女のうちから崇徳天皇の祖父・白川法王から尋常じゃない(ハッキリ言って気持ち悪いほどの)寵愛を受けており、のちに白河法皇計らいで息子・鳥羽上皇に入内します。つまり、

白河法皇は自分の息子・鳥羽天皇に自分の愛人を嫁がせた

という、泥沼すぎる噂が宮廷内に流れていたのです。
系図上の父・鳥羽天皇もそれを知っていて、産まれてきた崇徳天皇を叔父子(おじこ)と呼んで憎み、その腕に抱くこともなく我が子とは認めず嫌悪しました。
崇徳天皇の方は鳥羽天皇が本当の父なのだと慕うも、変わらずに冷遇されごく若いうちに権力を奪われ、父亡き後に権力を握った弟からも虐め抜かれた崇徳天皇は、とうとう『保元の乱』で反旗を翻しました。

その保元の乱で破れた崇徳天皇は、罪人として讃岐に配流されました。
その後も色々あって、絶望と怒りのあまりに髪も爪も切らずに生きながら天狗のような姿となり、果てには舌を咬み切った自分の血で、

我、日本の大魔王となり、皇を取って民となし民を皇となさん

と、呪詛を書き残すという、凄まじい憤死であったと伝えられます。
(都では怪異が続出しただけでは終わらずに、天皇家は日陰に追いやられ、世は武士の時代に移行するのです…)

崇徳天皇ほどではなくとも、その死後に災害が立て続けに起こったり、権力闘争に勝利した者やその周囲の者がバタバタ死ぬような不吉なことが起こると、
『これは無念のうちに死んだ○○の怨霊の仕業なのではないか』
という噂が立ち、皆が恐怖に脅えるようになる→ 怨霊認定された人が、歴史上何人もいます。

そのような《怨霊》を鎮め怒りを収めて貰おうと、生前よりも立派な地位を贈ったり、崇め奉る良き名を贈ったり、神社に丁重に祀ったり、手を尽くすのです。
ずっとずっと、その祈りを引き継ぐのです。

例えば崇徳天皇の場合、
明治天皇が慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建。
昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。

…ほどに、怨念は決して古くなることはないし、天皇家は今でも本当に恐れているのです。

上記の説明では、わかりやすく『崇徳天皇』とか『鳥羽天皇』『白川法王』などという名前を使いましたが、実は在位中は、漠然と『おかみ』、『みかど』、『○○(居住地)院』などと呼ばれていました。
本名は諱/いみな=忌名であり、口にするのは無礼なことで、亡くなってから『○○天皇』とか『@@院』とか追号されるのです。
追号は、死者に贈られるものであるので、だから現在の上皇陛下や今上陛下を、間違っても

『平成天皇』とか『令和天皇』などと呼んではいけません。不吉の極みですから!

怨霊となったと伝えられる天皇や親王には、世を治める天皇には最も大切な『徳』(うつくしび)の文字を用いた追号で祀ったケースが多く、次点が『崇』(あがめる)という字でした。

つまり、崇徳天皇・崇徳院という御方は、その『徳』と『崇』のタブル追号で、どうかお鎮まり下さいごめんなさいすみません!!と祀り祈り赦しを請うたほどの、

最大級の怨霊だった。(と、後ろめたい人々は思っていた)ということです。

同じように、スサノオ様もスセリヒメ様も、神威が強い上に、

天皇家を呪う理由があるではありませんか…

だから、貶めて書きながらも、その名前だけは褒め称えて書いたのでしょう。

スサノオ様は、アマテラスと姉弟設定(事実は違うと思う)されるほどの神です。
だから、消し去ることは出来ませんし、古事記には建速須佐之男命。という呼称もあります。

『建』勇猛で『速』神威が強い、とふたつ美称を連ねています。
また、スサノオ/スサノヲの『オ/ヲ』は、日本書紀のように『鳴』とするよりも、『男』と書く方が本義で男性の美称なのだそうです。

一方で、粛々と記すことに徹している日本書紀は、『素戔男尊』『素戔嗚尊』『須佐乃袁尊』と3パターンあるのですが、みこと、を命ではなく《尊》を使って敬意を表する事に関しては、一貫しています。

敗者であっても、…否、敗者であるからこそ、その名を貶めてはならないし、寧ろ素晴らしい名を付けて怨霊を鎮めなければならないのです。

(つづく)
2020. 01. 28  
『事代主と建御名方の母神は誰?』シリーズも3回目になりました。

前回の予告通り、今までの謎と考察をもっと解りやすく整理します!

1.タケミナカタの母神
古事記:記載なし
日本書紀:タケミナカタ自体が存在していない
先代旧事本紀:ヌナカワヒメ

2.コトシロヌシの母神
古事記:神屋楯比売神(ルーツ不明・属性不明)
日本書紀:記載なし
先代旧事本紀:高津姫。記紀には出て来ない謎の姫神。(タギリヒメかタギツヒメと同一説があるも、タギリヒメ=タゴリヒメの子は別に記載があるので可能性が低い。また、タギツヒメが誰かに嫁いだ記録が記紀に無いので比較する対象がない。娘の高照姫が古事記の下照比売=高比売(タギリヒメの子)と同神となると、先代旧事本紀はごっちゃにして書いているように見受けられる)

ここまでの確定事項。
どれも母神を明かしたくない感が満々です。

まだタケミナカタ母については、先代旧事本紀は、《素直に推理した感》がありますが、コトシロヌシ母については、3つの書物はどれも《隠したい感が共通》です。

また、先代旧事本紀を読んでいて思うのは、日本書紀と古事記と読み比べながら書いてるんじゃないか?という雰囲気なんです。読み比べながら、著者なりの解釈を盛り込んで書いている感じ。

古事記にも偽書説があるというのは、今回色々調べていて初めて知ったのですが、読んだ感じ、内容的には古事記がデタラメなら芋蔓式に先代旧事紀もデダラメです。
そのくらい、先代旧事本紀の方が後に出来ました感があり、どちらかというと古事記をベースにしている気がします。

コトシロヌシの出自の記述についても、元々のタゴリヒメ(タギリヒメ)の系譜が、2分割して『田心姫命』と『高津姫神』にされているからです。
(前者の娘の『下照姫命』と、後者の娘の『高照光姫大神命』が同神と見られる為)

これは、先代旧事本紀ライターが、当時既に混乱していた伝承を記してしまったか、意図的に『高津姫』を創り出してコトシロヌシの出自を隠そうとしたか、どちらかだということになります。
そして、どちらであっても間違っているのは同じです。

ですから、先代旧事紀のコトシロヌシの出自に関する記述は、兄説ともどもあてにしない方がいいと私は判断ました。

だから、私は、隠された母神=葬り去りたい女神は誰か、という視点から、ひとつの可能性として、答えを出したいと思います。

出雲の末子・スセリヒメ。

オオクニヌシの正妃でありながら、母神も御子神も記載されていない、隠された女神。
高天原のアマテラスに匹敵する、出雲の正統なる継承者、それがスセリヒメだからです。


オオクニヌシは王であっても、国を明け渡せという脅迫に、勝手に答える権限は無かった。スセリヒメの夫となり婿に入っただけで、出雲の末子という正統な継承者ではなかったから。

正統な継承者は、スセリヒメか、次代の末子。
オオクニヌシが「息子に訊いてくれ」と指定したのは、コトシロヌシだった。
それならば、末子はコトシロヌシと見るべきです。

コトシロヌシが宣託の神だから、まずはコトシロヌシに訊いた説もありますし、実際に古事記の神はイザナギ・イザナミ夫妻の子作りが上手く行かないことに関して占いをしていて、誰にお伺いを立てて占ってるんだ?お前ら神だろ??という謎なストーリーがあるんですけど、この辺り、神話の裏に現実の人間の歴史がある、そんな気がします。

でも、私はコトシロヌシ末子説を採ります。
日本書紀にはタケミナカタが出て来ないからです。タケミナカタには文句を付ける権利はあっても決定権は無かった=末子ではない=特に記述する必要が無い、のです。
日本書紀は、古事記のような物語ではなく、純然たる国史として編集された、という明確な位置を一貫させています。

その末子・コトシロヌシの母とされる謎の女神、神屋楯比売神(かむやたてひめのかみ/古事記)。
それは、スセリヒメの別名、と私は結論づけたいと思います。

古事記には、おかしな所が色々あります。
散々出雲系の神を貶めているのに、建速須佐之男命、とその名を記し、『建』『速』という、神威の強さを表す美称を、ダブルでくっつけて褒め称えているのも、そのひとつです。

神屋楯比売神にも、同じことが言えます。この名は、美称を取っ払えば、『屋楯比売』(ヤタテヒメ)です。
多くの女神が『ヒメ』で終わりになっているのですから、別にその表記でも構わないはずです。

丁寧に言っても、、『屋楯比売命or尊』(やたてひめのみこと)、くらいでいいでしょう。
『屋楯比売』(やたてひめのかみ)なら、一層敬っている感で、たかが国津神なら十分すぎるくらいです。

なのに、更に頭にまで『神』の称号を持ってきて

神屋楯比売神。(かむやたてひめのかみ)

接頭の『神』は、神霊の発動の激しいことに畏敬して冠する接頭語、だそうです。(Wikipedia)

頭に『神』が付く例としては、コノハナサクヤヒメの本名、神阿多都比売(かむあたつひめ)。
もうひとり、あまり知られていませんが、かなりリスペクトされているのが、オオトシ神の母神です。その名も

神大市比売。

オオヤマツミの娘ですから、コノハナサクヤこと神阿多都比売の姉妹になります。
だから『神』の接頭語で何も不思議は無いのですが、神大市比売は、市比売に『神』と『大』が付いて、かなり崇められた名前になっています。

……何となく、見えてきた気がします。これって、かの有名な日本三大怨霊のひとり、

崇徳天皇と同じパターンなのでは?

(つづく)
2020. 01. 27  
昨日の続きです。
疑問点の整理と謎解きを始めましょう。

疑問1.どうして、タケミナカタは古事記に登場するのに、系図に母神が記されていないのか?

前回確認したとおり、先代旧事本紀では、ヌナカワヒメがタケミナカタの母神となっています。
ヌナカワヒメは高志の姫なので不自然ではないし、糸魚川にも諏訪にも、親子である伝承があって、糸魚川にはご立派なヌナカワヒメ&子供時代のタケミナカタの像があったりします。
ただし、その母子伝説がいつ発生したのかは不明なので、決め手になるのかならないのかも不明なのですが。

一方で、古事記の態度が不可解です。こちらは先代旧事本紀よりも詳しく、ヌナカワヒメを登場させて『八千矛』の妻問いの話を出しているのですから、堂々と系図にタケミナカタを産んだと書けばいいのに、何故か記載が無い。……何故?

タケミナカタの《本当の母親》が誰なのか、特定されると不都合なことでもあるんですか?

また、コトシロヌシについても、

疑問2.なぜ、古事記での母神は『神屋楯比売命(かむやたてひめ)』という、素性不明の女神に設定し、『先代旧事本紀』では高津姫という謎の女神に設定したのか?

高津姫については、タギリヒメと同神説、タゴリヒメと同神説があります。先代旧事本紀曰く
『邊都宮に居られる高津姫神を娶り一男一女を生む。』

邊都宮って何???と思って調べました。邊は辺の古字(本字)です。

検索するとすぐヒットするのは、長崎県平戸市の『志々伎神社』。(しじきじんじゃ)
祭神は、十城別王(十城別命/とおきわけ)
日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。
神功皇后の三韓征伐に軍大将として参加し、凱旋後は、警備のため、当地に駐留した。
別名・松浦明神。

『松浦明神』でも調べましたが、『松浦総鎮守 鏡神社』

こちらは松浦地方(現在の糸島~長崎)の総社で、一の宮の祭神は息長足姫命(神功皇后)なので、『志々伎神社』の十城別王は三韓征伐の伝説で繋がっていますから、さほどずれていません。

でも…、うーん、タギリヒメにもタギツヒメにも関係が無い感じ。
どうして、邊都宮なんだろう?著者の勘違いでしょうか。
タギリヒメもタギツヒメも宗像三女神に名を連ねる女神なのに。

敢えて言うなら、タケ『ミナカタ』と『ムナカタ』の響きが似ているという線から、三女神の誰かと繋がりを見出すルートがあるのかもしれません。

建御名方の『建』って、神様の美称です。
建御雷神(タケミカヅチ)の『建』と同じです。建速須佐之男命の『建』で、勇猛さを表すようです。
その『建』を外せば、建御名方は『ミナカタ』が名前です。
ただ、『御』も美称である場合、『ナカタ』しか残らなくなるんですが。

そして、もうひとつ引っ掛かるのが、先代旧事本紀にて高津姫が産んだ子が、コトシロヌシの妹として

高照光姫大神命。

大神!?大神!!
大御神まで来るとかなり限られますが、大神という呼称が許される神は相当位が高いです。

それで登場するのが、高照光姫が、アマテラスの直系説。
つまり、アマテラスが祖母→高津姫=宗像産女神の誰かが母→高照光姫 という高貴な血筋なら、大神もアリであろうと。

というか、古事記では既に、宗像三女神については
『この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり』

更に古事記によると、タギリヒメの娘・下照比売(シタテルヒメ)は、別名を高比売(タカヒメ)

………。
………………。
下か上かどっちかにせんかい!!意味解らんわ!!

…と思うのは、私だけですか。

古事記の崇敬が、高照姫大神という美称に繋がり、それを先代旧事本紀が引き継いだのなら、田心姫(タゴリヒメ=タギリヒメ)の子・味耜高彦根神と下照姫命(古事記のタカヒメ)にも大神を付けても良さそうなものなのに、先代旧事本紀は特に配慮をしていません。

タゴリヒメ=タギリヒメの御子神については、古事記はわかりやすいです。
タギリヒメの子のひとり、阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の別名は

迦毛大御神(かものおおみかみ)。

大御神!?…と驚くほど、古事記に登場時から大御神と呼ばれているのは、アマテラスとアヂスキタカヒコネの二柱だけなのです。
(途中から大御神になったパターンはイザナギ)

日本書紀は淡々と、味耜高彦根命、と表記しています。
また、日本書紀には明確なルールが有って、同じようにミコトと読んでも、

尊>命、と格が違います。

つまり、日本書紀は、アヂスキタカヒコネを数多居る神の一柱として捉えており、特別なリスペクトはありません。
ここでわかるのは、古事記ライターが、賀茂氏を盛大にリスペクトしているということです。
すごい温度差です。

古事記ライターは大和の鴨氏でしょうか?
※ 八咫烏こと賀茂建角身命(カモタケツノミ)を始祖とする賀茂氏とは、また系統が分かれる

話がゴチャゴチャして来ましたね。
次回、もっと解りやすく整理します!

もう少々この謎解きにお付き合い頂ければ嬉しく思います。

(つづく)
2020. 01. 26  
『事代主と建御名方とウィキペディアの怪。』その1&その2 の続編です。
※ 上記の2つの記事は【謎】カテゴリにございます

コトシロヌシとタケミナカタと、どっちが兄でどっちが弟???…というテーマで色々調べていくということは、
大国主の神裔を探ってゆくことと、ほぼイコールなんです。
そして、実にシンプルな謎に突き当たるのです。

母親って、誰?

先代旧事本紀も当たりました。
ウィキベディアの記事のソース本も、元を辿れば根拠は先代旧事本紀でほぼ確定でしょう。

こちらのサイトから現代語訳文を引用させて頂きましたが、先代旧事本紀が語るオオクニヌシの神裔は、以下のようになります。

大己貴神(おおなむちのかみ) 亦の名は大国主神(おおくにぬしのかみ)。
亦の名は大物主神(おおものぬしのかみ)。
亦の名は国造大穴牟遅命(くにつくるおおなむちのみこと)。
亦の名は大国玉神(おおくにたまのかみ)。
亦の名は顕見国玉神(うつしくにたまのかみ)。
亦の名は葦原醜雄命(あしはらしこおのみこと)。
亦の名は八千矛神(やちほこのかみ)。
八つの名前が有る。その子は大凡百八十一柱の神が有る。

まず宗像の奥都島に居られる神の田心姫命を娶って一男一女を生む
味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) 倭の国の葛上郡高鴨社(たかがものやしろ)に居られる。一説には捨篠社(しののやしろ)とも云う。
妹の下照姫命(したてるひめのみこと) 倭の国の葛上郡雲櫛社(くもくしのやしろ)に居られる。

次に邊都宮に居られる高津姫神(※ たきつひめのかみ)を娶り一男一女を生む
(※は、「たかつひめ」と読むのが素直だと思うのだが、根拠あっての「たき」なのか、誤植なのか不明)
都味歯八重事代主神(つみはやへことしろぬしのかみ) 倭の国の高市郡(たけちこおり)高市社(たけちのやしろ)に居られる。一説には甘南備飛鳥社(かみなぎのあすかのやしろ)とも言う。
妹の高照光姫大神命(※ たかてるひめのおおかみのみこと) 倭の葛上郡御歳神社(ミトシノジンジャ)に居られる。
(※ はい?大神!?)

次に稲羽八上姫(いなばのやかみひめ)を娶り一児を生む
御井神(みいのかみ) 亦の名は木股神(きまたのかみ)と言う。

次に高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶り一男を生む
建御名方神(たけみなかたのかみ) 信濃の国の諏訪郡(すわのこおり)諏訪神社に居られる。
(引用終わり。太字設定は私)

ということで、タケミナカタが最後なんです。
これを素直すぎる感じに読んでしまうと、タケミナカタが弟だと思うことになるのです。

そう…素直すぎる。
神裔の記述一覧では、先代旧事紀は、生まれ順については全く当てにならないのですから。
何故かというと、先に記してあるスサノオ様の御子神の順がランダムだからです。

はじめに道中貴こと宗像三女神の記述があり(長文なのでその次から再び引用します)

次に五十猛神(いそたけるのかみ) 亦の名を大屋彦神(おおやひこのかみ)と言う。]
次に大屋姫神(おおやひめのかみ)
次に抓津姫神(つまつひめのかみ)
これらの三神は紀伊の国に居られる。紀伊国造(きいのくにつくり)の斎祭る神である。

次に事八十神(ことやそかみ)
※ 聞かない神名。古事記に出てくる、オオナムチを何度も殺そうとする兄集団のことだろうか?
次に大己貴神(おおなむちのかみ)倭の国の城上郡(しろのかみのこおり)大三輪神社に居られる。
次に須勢理姫神(すせりひめのかみ)大三輪大神の摘后
次に大年神(おおどしのかみ)
次に稲倉魂神(うかのみたまのかみ) 亦は宇迦能御玉神(うかのみたまのかみ)
次に葛木一言主神(かつらぎのひとことぬしのかみ) 倭の国の葛上郡(かつらのかみのこおり)に居られる。

(引用終わり)

「次に」というのは、単に読み上げているだけで、生まれ順を示す「次に」ではないと思います。
何故なら、こちらでもオオナムチはスサノオ神の婿ではなく息子に名を連ね、しかしスセリヒメも日本書紀のように葬られることなく名前があるのですが、仮にこれが生誕順だとすると、

オオナムチもスセリヒメも、どちらも末子ではない=相続者ではないことになるからです。

スサノオの神裔がランダムならば、大国主の系譜もランダムと見るべきで、タケミナカタが末子でコトシロヌシが兄という証拠にはなりません。

それとも、先代旧事本紀には、他の所でタケミナカタがコトシロヌシの弟だという記述が、あるのだろうか?
それで、神裔の記事よりも遡って、タケミナカタが登場する国譲り(この言葉なんとかなんないかなぁ。侵略戦争が実態でしょこれ)の場面を呼んでみました。

そしたら…ありました!古事記も日本書紀もそんな事は言っていないのに、先代旧事本紀だけが、降参するタケミナカタに

『それを追って科野(しなの)国の洲羽(すわ)の海に追い攻めて、まさに殺そうとしたとき、建御名方神が恐れていった。
「私を殺しなさいますな。この地以外には、他の土地には参りません。また、我が父・大国主神の命に背きません。兄の八重事代主神の言葉にもそむきません。この葦原の中国は、天神の御子の仰せのままに献上いたしましょう」』

…これだったのか!!
古事記にも日本書紀にも無い、タケミナカタ末っ子説は、先代旧事紀のこのたったひとつの台詞だったのです。

これは、信用するのに値するのか、否か?
別の面からアプローチするために、疑問点を整理して、謎解きを始めましょう

(その2につづく)
2020. 01. 25  
昨日の続きです。

気を取り直して、ウィキペディアで挙げられていた本がどんな本なのか調べてみると、訓み下し文・原文・注釈・現代語訳が全て載っている便利本で、amazonのレビューも軒並み高レビューなのですが、著者の個人的な新解釈も含まれる本であるようです。

wikiのソースとなった、本家・古事記にはない《弟》解釈も、この本の著者の解釈なのでしょう。
或いは、どうやら誠実な記述の本であるらしいこの本にそう書かれる程度に、著者には更にソースがあるのかもしれない、とも思いました。
何故なら、あまりにもコトシロヌシが兄、タケミナカタは弟、としているサイトが多いからです。

尤も、デマでもあっという間に広がるのがネット情報というもの。

デマとは知らずに、それが正しいのだと思って、自分の知識の中に取り込んでしまっている人が何人もいる可能性も大なのですが。

怖い…怖いよウィキペディア。私もまた振り回されないように、気を付けなきゃです。

因みに、動揺しまくる程度に、私のタケミナカタに関する認識は、以下のようなものでした。

その1.私が文脈的に、建御名方が兄・事代主が弟(末っ子)、だと思っていた。

大国主は、自分には国を明け渡すか否か、決定権を持っていないので(出雲の正当な継承者はスセリヒメで、婿の大国主は王ではあっても勝手に国の存亡に答えることは出来ない。決定権を持つのはスセリヒメか、大国主の末子。出雲は末子相続)「息子に訊いてくれ」と言うしか無かった。
使者が始めに意思確認に向かったのは事代主なので、事代主が継承者=末っ子=タケミナカタは兄、と考えるのが自然です。
タケミナカタは末子ではないので、反撃しようとしまいと、結果的に出雲が敗北した以上、タケミナカタのエピソードは歴史的にはどうでもいいので、天皇家の正当性を対外的に示す事を目的とした本格的史書・日本書紀にタケミナカタは登場しない。


その2.タケミナカタは出雲にいなかった(兄パターン)

末子が相続者なので、スサノオの子も、スセリヒメよりも先に生まれたきょうだいたちは、あちこちに出掛けていった先の土地を統べるのが役目でした。
タケミナカタもまた、越や諏訪の辺りに国を広げるべく赴いて、諏訪の有力な豪族となっていたので、出雲を落とした所で天津系の支配はそちらまで届かなかった。
当然に、タケミナカタの出雲での敗戦や逃走、命乞いの事実も存在しない。
でも、古事記は物語形式の書なので、天孫サイドの敵・タケミナカタをやっつける物語で盛り上げたく、タケミナカタの敗北と惨めな降参エピソードを創作。

古事記は、(日本書紀ではツクヨミの所業のはずの)オオゲツヒメを殺したのはスサノオと伝えたり、スセリヒメのこともヤガミヒメが逃げ出したり大国主が家出未遂をするほどの、手の付けられない嫉妬深い嫌な女として記しています。
古事記は、徹底した高天原上げで、出雲の神は貶める書き方をしている書物です。

一方で、日本書紀は貶めるのではなく《書き残さない》方法を取ることが多いようです。
だから、日本書紀編者は《出雲の侵略には関わらなかった》そして当時の高天原勢の手に届かなかった高志・諏訪地方で権力を持っていたタケノミカタの存在をスルーした。


その3.タケミナカタは出雲にいなかった(そして大国主の息子でもなかったパターン)

タケミナカタは、出雲王族とは関係なく、元々諏訪周辺に独自の勢力を持ち、優れた統治者・武勇の王として名高かった。
というか、諏訪の辺りでは、タケミナカタの方が侵略者であると言う伝承があるのです。
一方で、出雲近辺には、タケミナカタを祀る神社が全く無い。
だから、タケミナカタは出雲とは全く関係のない豪族だったのではないか。
そして、古事記は民間には伝わっておらず、タケミナカタの武勇伝は有名で、のちには全国規模で武将達の厚い信仰を集めることになった。
当然に、国譲り侵略当時には勢力範囲外であった地域のことは、大和朝廷の為の日本書紀に記す必要は全く無いのでスルー。

この論に弱点があるとするなら、出雲近辺にタケミナカタを祀っていないのは、古事記的には当たり前すぎる、ということです。
何故なら、タケミナカタは命乞いの条件に、以下の2つの条件を出しているからです。

1.コトシロヌシとオオクニヌシの決定(国の統治下ら手を引く)には逆らわない
2.二度と諏訪の国から出ないと約束する=出雲に戻ることはしない

だから、日本各地に勧請して諏訪神社が広がったのは後世の人々の勝手ですが、出雲近辺の人々だけは、タケミナカタを祀りその御霊を出雲に戻すことはしてはならなかった。
……という、古代の約束が守られた、という線も考え得るという事です。


その4.実はウィキペディアが上げた一書のとおり、タケミナカタが末子で、出雲の継承者だったパターン

古事記は、同じく継承者であったスセリヒメを貶めたように、タケミナカタを惨めな敗北者として描きましたが、日本書紀はタケミナカタ(実際には、タケミナカタ率いる勢力だったと思う)を、ねじ伏せて国を手に入れたという野蛮をやらかしたという事実を隠蔽したかった。
あくまでも、元から正当な国の支配者はアマテラスから続く天孫の血筋であるという正論を説くという話し合いで、平和裡に国を献上された、という流れにしたいのが日本書紀の意図だった。

…という4パターンを書いてみましたが、実は私は1~3の可能性を考えていました。
4のパターンは、実はこの文章を書いている最中に、思い付いたものです。

というのは、今はどうも人気的に古事記>日本書紀、というよりも、古事記>>>>>日本書紀のようですけれども、私は古事記よりも日本書紀の方が誠実な書物なのではないかと思っています。

日本書紀はスセリヒメの存在自体をスルーしたけどな(怒)

でも、これが日本書紀のやり方なんですよね。都合の悪いことや、単に本筋に影響を与えないことは、捏造よりもスルー・無視を優先する傾向がある。
※ オオナムチがスサノオ様とクシナダヒメ様の間に産まれたとかいうのは捏造だと思うがな!

その一方で、本文の他に、異伝を幾つも書き残してくれているのが、日本書紀の特徴なのです。
編集された時代には、遙か昔の神代については、既に様々な言い伝えに分岐していたのでしょう。それを記載し後世に残そうという態度は、古事記よりも公平です。

と、色々調べているうちに、新たな疑問が浮上したのでした。
次回からは、【神様】カテゴリに移りまして、『事代主と建御名方の母神は誰?』シリーズの連載を始めます!

(つづく)
2020. 01. 24  
『仙台・恋愛願い別イチオシ神社(縁結び・良縁・女子力アップ)』とかいうHPで、
『仙台の恋愛パワースポットとして有名な二柱神社について私が思うこと』

とかいうコラムがあって、めっちゃ二柱さんdisってんの……
怒りの余りに呪いたいわ……

それは、祭神がイザナギ・イザナミ夫妻だから。
イザナミがイザナギを殺そうとして、イザナギが離婚を言い渡した、それがふたりの結末だから、って。

「こんな過激な別れ方をした夫婦に恋愛のお願いしたいですか?」
……だと……?

……あのさあ、神話をまるごと信じるつもり?
悪く書かれている神様には、朝廷サイドが悪く書きたい理由があるんだよ。
私の中ではヒーローの中のヒーロー、スサノオ様だって、クシナダヒメ様を華麗に助けるまでは、めっちゃボロクソに書かれてるだろが。

私は、イザナミ様が先に身罷ったのは事実であっても、ご夫妻の愛情が無くなった訳じゃないと思うよ。

それから、オススメの良縁神様に推してるオオクニヌシの妻が6人とな?
確かに、神裔に記されてるのはそれだけですね。

記されてないだけで、もっといっぱいいるのに決まっていますけどね。
御子様は180人でしたっけ、181人でしたっけ?

それでも、私は許すしかありませんけどね。
私の最推し女神・スセリヒメ様が一途に愛したダンナ様にあらせられますし、私も恋愛ではありませんが素晴らしいご利益を頂いたことがございますから。

あと、古事記な。
イザナミ様=黄泉大神とか、真に受けてる?

そんな矛盾、日本書紀には出て来ないよ。
※ 日本書紀は、対外的に朝廷を正当な物とアピールする国史だから漢文で記されているし、アホみたいな矛盾を書くくらいなら、何も何も書かないスタンス

古事記って、面白いし私も好きだけど、結構いい加減だからね?
イザナミ様は、ヨモツヒラサカを登って帰っていいか黄泉の神様に相談してくるとか言った程度に、

黄泉という異界には、既にイザナギ・イザナミ夫妻が産む前から存在している神がいたってのに、

イザナミ様が黄泉大神になったとか、超矛盾してんだよ。

日本書紀には、三貴子だってイザナギ・イザナミ夫妻が相談して産んバージョンやら、手鏡の中からオオヒルメとツクヨミが産まれたバージョンもあるからな。

イザナギ・イザナミ夫妻にも、古事記日本書紀には載っていない、異なる伝説を持っている土地もある。
日本各地で、それぞれに自然神や祖霊を祀っていて、それぞれの神話を持っていたのを、結構無理矢理まとめちゃったのが、古事記・日本書紀の神代なんだよ。

とにかく、神産みの話は、めっちゃ沢山の神が生まれる話ね。
イザナミ様がカグツチを産んで苦しんだ、排泄物からだって神が産まれてんだよ。(イザナミ様単体で産んだとも言える)
イザナギが黄泉に行って《穢れた》ので、《水で清めるという禊ぎ》という日本人独特の方法で汚れを祓って子神を量産したとかいうのも、神話という例え話で太古からの日本の信仰の形を今に伝えてくれてるんだよ。

何より、だな。

お前が二柱さんの何を知っているってんだ?

私は、二柱さんに祈願して、30代で離婚した友人2人(どっちも再婚を諦めきっていた)の為に、良縁と再婚を祈願して、

ふたりとも見事アラフォー再婚した!という奇跡を授かったんだからね!!
という実話に勝てるのか?お前は。

何も知らないで、自分勝手なイメージでdisってんじゃねーよ。
まあ、神社や神様とは、相性がある。
同じ祭神であっても、何か違うな、とピンと来ないこともある。

お前さんが、二柱さんやら、その他イザナギ・イザナミ夫妻様をお祀りしてある神社で、居心地の悪さを感じたのであれば、この偉大な夫婦神と波長が合わないってことで、別の神様に神頼みした方がいいだろうね。

でも、ね。
神社の祭神を見て、恋愛に適した神様にお願いしなさいっていうけど、神社はそんなに単純じゃないよ?

神社は、神仏習合していた歴史が長い。
だから、明治時代の神仏分離で神社から仏さんを排除して、全部神様に変えちゃったものだから、その際に祭神の大混乱が生じた、という歴史を御存知か?

同じ名前の神社だから同系列かと思えば、祭神がバラバラとかめっちゃあるからね?

二柱さんも、イザナギ・イザナミ夫妻が当てはめられる前は、
仁和多利大権現(ニワタリダイゴンゲン)っていう子供の守り神(仏?)だったの。
その前にどうだったかは、私も知らない。

イザナギ・イザナミ夫妻は子供だけはこれでもかというほど産んだから、子宝祈願向き?まあいいんじゃないの。
私は、結婚してからずっと、@@年ずっと初詣は二柱さんで、その@@の間に子供は3人産まれていますからね。

うちは、仏さんなら定義如来(こちらも良縁子宝にはガチ)、神様は二柱さんに、ずっと我が家を守って頂いてるんだよ。

あとな。
恋愛成就の神様と、女子力アップの神様に、ツクヨミ様が入ってるのはまじ訳わからんわ。

>古来から月は女性と結び付けられてきました。

だから何ですか?万葉集の月読壮士(つきよみおとこ)を御存知ないと。

外国の神話は、確かに月は女神っていうのがいっぱいありますけどね。
真逆に女性が太陽の神話もいっぱいありますが。

そして、ツクヨミ様のご利益で、アンチエイジングとか、イミフすぎる。
キリスト教曰く、信じる者は救われるそうなので、めっちゃ思い込んでアンチエイジング出来たらいいですね(棒読み)

それから、月山神社が作られて、祭神にツクヨミ様があてがわれましたが、

月山とツクヨミ様は、歴史的に一切無関係だよ。

東京大神宮とか、縁結びスポットでかなり有名だけど、祭神を見る限り、特に縁結び的な祭神じゃないですよね。
造化三神は、確かに名前にムスビとはつくけど、神話ではタカミムスビ神が天照大神よりも偉いんじゃないか的に仕切っているだけで、ほかの二柱のエピソードは殆どないし、特に縁結びに霊験あらたかな神様だったとは、私は寡聞にして存じませんでしたよ。

でも、東京大神宮が日本初の神前結婚式をやった縁起のいい場所であるとか、何よりも

実際にご利益を授かった人が沢山いる、感謝してる人がいる、それが全てなんでないの?

私が何が言いたいかというとね、

神社仏閣や神様・仏様をdisんな。
誰かの心の支えになっているものを、蔑むな。

以上。
2020. 01. 24  
今日の記事は、タイトル通りの案件でして、私は事代主と建御名方に関するウィキペディアの記載、及びその謎の解明にずいぶん振り回されたものですから、日本の古代神話や古代史に興味を持っている方々に、注意喚起をしようと思った次第です。

…いや、神話と古代史に限ったことではないんですけどね、

ウィキペディアはそれなりに疑いながら読んだ方がいいです。

というのは、ウィキペディアには、『情報の偏り』や『荒らし』、『編集合戦』なるものがあるからです。

ウィキペディアは、その分野に詳しい人が、基本的には善意でその専門知識を公開してくれる、

インターネット百科事典です。

誰でも自由に、匿名で編集参加できます。
だから、上記のような問題が発生する訳です。

最近、私が調べていて、あぁこれは政治的な意図で編集されてるなーと思ったキーワードは、

『アイヌ』

先住民族だと、キッパリ断言されちゃってるんですよね。
まあ、そんな法律も通っちゃいましたし。

でも、『アイヌは先住民族ではない派』も結構いるんです。
何故なら、アイヌが縄文人の日本人固有の遺伝子を多く引き継ぐも、

1.アイヌが縄文人の優れた土器文化・漆文化を全く継承していない。(縄文人が、未開の地の遅れた文化の人々という、私が子供の頃、学校で植え付けられた観念がまず間違いで、驚くほど高い文化を持っていた)
2.日本人もアイヌも縄文人をルーツにしているのなら、言語の系統も同じはずなのに、日本語とアイヌ語の系統が異なる

という問題があるからです。(他にもあるのかも知れませんが、私は門外漢なのでこれ以上はわかりかねます)

また、アイヌ語を母語として使える人達は、もう80歳を超えていて絶滅危惧種であるのに、法律上アイヌを名乗ることが許されるのは、《アイヌ協会に申請した人》
つまり、誰でも申し出ればアイヌと名乗り法律の保護・優遇対象になる事が出来るという、

非常にわかりやすい金と利権が絡んだ胡散臭さがあります。

なので、アイヌは先住民族だ!いや12~13世紀に元王朝から逃げてきた上に、先に到来していたオホーツク人を滅ぼして日本に居着いた侵略民族だ!という、双方唾を飛ばしている状態でして、傍から見ていて私もどちらの言い分が正しいのかわからないのです。

でも、ウィキペディアの『アイヌ』は両論併記ではなく、現在は先住民族という前提で編集されているので、先住民族だ派が書き込んだ偏った情報しか得られません。

……という例を挙げておいて、タイトルの日本神話と古代史について。

私が振り回されたというのは、出雲の『国譲りという侵略戦争』(古事記にも日本書紀にも、『国譲り』なる単語は存在しない)の後の交渉で、大国主は『自分では決められないから息子に訊いてくれ』と言います。

その息子というのが、『事代主神』(コトシロヌシ)と『建御名方神』(タケミナカタ)。
注:ただしタケミナカタは、古事記には出てくるのに日本書紀には記述がありません。

…で。
かなり多くのサイトで、『タケミナカタはコトシロヌシの弟』と、当たり前の如くにサラッと書かれていまして、私は、

えっ?タケミナカタが、コトシロヌシの弟???
そうだったの!?私、初耳なんだけど!!
何で、みんな当たり前な感じにブログに書いてんの!?
常識?それって日本神話ファンなら常識???


と焦りまくり、古事記の書き下し文や現代語訳文を見直して、タケミナカタの記載のない日本書紀の本文から異伝までさらった訳です。でも、

……どこにも、兄とか弟とか、書いてない?

敢えて言うなら、大国主神の神裔のところで、Aを妻として生んだ子はB、みたいな感じで、事代主は割と先の方に出て来ます
この辺りの文章は、大国主は複数人妻を設けて複数人子を設けた系図を、文章にして列記してあるんですけど、

この順番に妻にしたとか、この順番で産まれたとか、そういう具体的な説明は何もありません。

それどころか、この古事記の神裔の記述の中には、そもそもタケミナカタの名前が、無い!のです
ただでさえ、日本書紀からスルーされているタケミナカタなのに、ここからも消し去られている。
タケミナカタの名が無いのだから、当然産んだはずの母神の名も無い。つまり、

タケミナカタは、国譲り侵略の話になって、コトシロヌシも『隠れて』しまった後に、突然現れるのです。

これでは、どっちが兄も弟もありません。

もしかして…と、ウィキペディアを見てみると、やはりタケミナカタはコトシロヌシの弟、ということになっていました。。
こんな重要情報、どうして出雲の神様推しの私が見落としていたんだろう?

でも、ふと見れば、注釈の番号が付いてる。つまり、ソースが記載されてるって事だ!ページをスクロールして下の方を見てみると、ソースは

『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 107-111。

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やられた……と打ちひしがれたい心地がしましたよね。
ウィキペディアでタケミナカタ弟説を載せた人のソースが、こんな新しい時代の一冊の本だったとは…(遠い目)

古書やら神社伝承やらではなかったとは!

ウィキペディアは、確かに善意の専門家や専門家顔負けのマニアが、詳細な情報を伝えてくれる、専門知識の宝庫です。
でも、宝の中に石やらクズ鉄やら、混じっている可能性を忘れずに利用しましょう……

気を取り直して、続きはまた明日。
こうなったらもう、謎の多いタケミナカタとコトシロヌシの出自を、徹底的に洗ってみようじゃないか!
2020. 01. 23  
父は、酒呑み運転、恐らく居眠り運転の、交通事故死、だった。

シートベルト着用が義務づけられて数年経っていたけれども、これも飲酒運転同様、危機感もなく無視していた人も多かった。
免許取り立ての私は「危ないからしなよ」と言ったのだけれども、父は窮屈だからとベルトを締めることはなかった。

車のエアバッグも一般的ではなく。
だから。父は。即死、だった。

早朝の自損事故で、他人を巻き込まなかっただけまだよかったのだと、私は動揺する自分に言い聞かせながら、ハッと思い出したのだった。

いつか…

いつか、事故に遭うわよ……


ぞわりとした。
偶然?それとも、
また、あのランダムな母の言霊が、発動した……?

偶然だと、私はぶんぶんと頭を振った。

多分、母が何も言わなくても、父はいつこういう死に方をしても仕方の無い生活をしていたのだから。

それに、父はあまり長生きをする人じゃないだろうと、私は漠然と思っていた。
例えば、不自由な体でベッドの上に横たわり、痩せ細った老人になって死んでゆくなんていうのは、全くあの人らしくないことだった。

太く短く生きて、打ち上げ花火のように派手に散って終わるのが似つかわしい。そんな人だったのだから……

そして、時は過ぎ、私はさっさと薄情な母と共依存の妹と縁を切りたかったのだが、結婚資金を貯めるために独り暮らしはせずに実家で我慢して生活していた。
そして見事、自費で結婚式を挙げて披露宴もやった。当然に、

母は1円たりとも出費していない。
(費用は夫と割り勘だったのだが、お前のお金は新生活に使いなさいと、義両親が殆ど出した)

そんな母とは、結婚を機にスッパリ縁を切りたかったのだが、何を思ったのか母は時折ふらりと新居に現れて、私の夫が淹れたコーヒーを飲みながら、一方的に何か話しては、気が済むと帰っていった。(同じ市内だったので簡単に来る事が出来た)

夫の会社は住居に支援金が出るので、その範囲内のアパートで暮らしていたのだが、その支援金が5年間の期限付であったのと、2人目のこどもも産まれて歩き回るようになり手狭に感じてきたこともあって、中古物件を買って移り住むことになった。

古い家だが注文住宅で、ある大工さんがかなり気合いを入れて作ったのだという家は、なかなかによい造りだった。
その割に値段が安め設定だったのは、近所の環境に問題があったからなのは、明らかだった。

つまり、斜め向かいの家に引きこもりの息子がいて、暴れたり暴力を振るったりするので母親は実家に避難、父親はその家に留まるも、比較的新しそうな立派な家なのに窓硝子は割れたまま、障子はビリビリに破れたまま、真冬だというのに修理もしていなかった。

まあ、外に出て来ないから引きこもりなのであって、大丈夫だろうと私と夫はその家に決めたのだが、そこにもふらりと母は現れた。
そして、斜め向かいの家を見て、ずけずけと「いやあねぇ」と、これは心からイヤそうに言ってくれた。

それから、2週間ほど経った頃だろうか。
夜中に、私はサイレンの音で目が覚めた。かなり近いと思って、夫とふたりで庭に出ると、件の荒れ果てた家が、ゴウゴウと炎と煙を出して燃えていたのだった。
かなり勢いよく燃えていたのだが、風がなかったので被害はその家だけで済んだし、暴れて偶然火事のきっかけを作ってしまった息子もその父親も怪我もなく無事だったのが、せめてもの救いだろうか。

しばらくして、また母がふらりと現れた。
「あら…あの荒れた家、無くなっちゃったの?」
「そうだよ。気の毒に、火事があってね」
「そう…、よかった」

母は、うふふと笑った。

「よかったわぁ。私、あんな気味の悪い家、火事で燃えちゃえばいいのにって思っていたのよ。うふふふふ…」

ぞわりと、した。

少々問題ありとはいえ、不幸にも住まいが燃えて無くなってしまった人達がいるのに、嬉しそうに、笑うのか?
引きこもりという噂の兄さんは、近所のコンビニくらいには出て行くらしくて、隣の空き地で自分はカップ焼きそばを食べながら、群がってくる野良猫に餌をやっている、案外素朴で、少し寂しそうな青年だった。
そうと知っているから、彼のお父さんは何処にも逃げずに、あの荒れ果てた家で共に暮らしていたのだろう。

そして…
この女は、一体何ものだ……?

あんな危険そうな家、なくなればいいのにという漠然とした発想や、引っ越してくれればいいのに、辺りの穏便な発想ではなく。
母は具体的に《火事》を望んで、多分実際に口にしたことがあるのだ。

母の言葉はそのままに、実際にひとつの家を全焼させる言霊となったのだ。

あれから@@年、歳をとってフットワークが重くなったのか、母と我が家が顔を合わせるのは、ワンシーズンに1回くらいに減った。
私は思う。

母よ…もう、何も言わないでくれ。
プロフィール

chikaru414

Author:chikaru414
日本の神話と神社仏閣、それにまつわる歴史が好きです。
スサノオ様、スセリヒメ様はじめ出雲の神様と水神様推し。
定義山西方寺を崇敬。伊達政宗公を尊敬する伊達家家臣末裔です。透明水彩絵師。

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