2019.
12.
31
FC2ブログランキングに行ってみましたら、愛宕神社の『その2』が抜け落ちていまして、何で???と思ったら、
FC2ブログの各ジャンル新着記事へ更新を通知する
ってゆーところに、チェック入れるの忘れてました…すみません!!!
そういうわけで、『その2』は通知が行かなかっただけで、記事はちゃんとございます。
このブログ、案外読みに来て下さっている方がいるようなので、本当申し訳ないです。
今後は気を付けたいと思います。
来年もよろしくお願いします<(_ _)>
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2019.
12.
31
大晦日ですね。
結界の街の愛宕神社シリーズも、今回で最後になります。
愛宕大権現・勝軍地蔵が現在の愛宕神社で信仰されていました。
ところが、勝軍地蔵とは別に、普賢菩薩と縁が深いという、多分ほかの愛宕神社にはないんじゃないか?という特徴。
普賢菩薩は、菩薩の中でも最高位です。
つまり、悟りを開いた如来に、一番近い菩薩様です。
昔、多くの神社がそうであったように、愛宕にも別当寺院として誓願寺あり、祭祀を司り普賢菩薩を祀っていました。
明治になり誓願寺は廃寺になりましたが、今でも、仙台十二支守り本尊は、愛宕神社とされています。
辰年・巳年生まれを守護して下さるのが、普賢菩薩です。
それほどに、勝軍地蔵や愛宕大権現と共に、普賢菩薩はこの地で信仰を集めていたのだと思います。
でも、政宗公は卯年生まれなので、守り本尊ではありません。
片倉小十郎様は巳年生まれですが、多分偶然でございましょう。
ならば…と。
ふと興味を覚えたので、調べてみました。
伊達政宗公から4代綱村公にかけて、ゆっくりと仙台の結界を作っていったのですが(急いでやるとお江戸にバレます)、仙台または宮城県の何処かに、有名な《諏訪神社》ってあったっけ?と。
何故諏訪神社かというと、普賢菩薩の垂迹神が、建御名方神(タケミナカタ)であるからです。
出雲から敗走したと言われていますが、名前の初めに《建》が付くくらいですから、武神として武士の信仰を集めていたはず。(建は勇猛さを示す美称)
探したら…ありました!
かつては仙台市ですらなかった西の地、上愛子に。(青葉区です。仙台は色々合併しまくって大きくなりすぎた感)
こちらの神社、願いを叶えてくれる神社として書籍で紹介され、有名になったんだそうですね。(という程度に私は知らなかったんですが)
この諏訪神社の創建は古く、平安時代に遡ります。
元・国分荘三十三ヶ村の総鎮守国分一宮で、時代が経てもその時の権力者に崇敬され、伊達家もまたそうでした。
室町時代に『西山なる御殿城より現今の地に移し奉る』とあるのですが、西山というのがどこか判らず(現在の地名としては残っていないようです)そもそもあの辺りは全体的に山地でして、さほど遠くに移った訳ではなく、やや高台にあったものを麓に遷座した、という程度だと思います。
つまり、多分、東西を結ぶラインには、さほど大きな変化はない。
……驚きました。
こんな形で、私が知らなかった諏訪神社に辿り着くなんて。
いえ…ぼんやりと、記憶の片隅にはあったんです。
訪れたことはありません。でも、遷座された瀧澤神社の遠く西には、『諏訪神社』があると『星の街仙台』の本に書いてあったんですから。
仙台の星の結界とは別の、もうひとつの結界。
星の中央を起点に東西に延びる十字架に、瀬織津姫様だけではなく、普賢菩薩の垂迹神・建御名方神がいらしたのです。
普賢菩薩→タケミナカタ神→それなら諏訪神社?…という経路で、この十字架に辿り付いたのは、多分、私が初めてなんじゃないでしょうか……
そして、もうひとつ、粋なはからいを見つけました。
普賢菩薩は辰年と巳年の守り本尊で、その役目は誓願寺がなくなっても、愛宕神社が引き継いでくれている、と書きました。
辰と巳。方角で言えば東よりもやや南寄り~南よりもやや東寄り、の範囲です。
(キッパリと巽、であればズバリ南東)
愛宕神社は、仙台城から見て辰~巳の方角に位置するのです。
この場所から、本丸を守っていたのです。
これは…、自分でもびっくりしました。
偶然だとしたら、伊達氏は元から神仏の加護に導かれていたとしか思えません。
でも、きっと、伊達政宗公は御存知だったと思うのです。
ご自身もその道に詳しかったのでしょうし、ここまでやってのける優秀なブレーンを重用し、自分の代だけは築けなくとも、必ず子孫が受け継いでくれると信じ、実際に4代綱村公で完成したのですから。
伊達政宗公、お見事です。
私の先祖が頂いた土地は仙台から離れておりますけれども、このような城下町を築かれたことを、嬉しく、誇りに思います。
今回の藤語りは、ここでお終いです。
でも、こちらも驚きましたよ?
私は藤の花が好きで、藤にちなんだペンネームを長く使っていたのですが、政宗公は
伊達藤次郎政宗 というお名前でしたね。
藤次郎、を知ったのは最近のことなのです。
伊達家家臣の子孫なのに、ウッカリです。
きっと、政宗公と愛姫がおわします北山神社には、初詣に沢山の方々がいらっしゃるのでしょうね。
皆様、よいお年を。
結界の街の愛宕神社シリーズも、今回で最後になります。
愛宕大権現・勝軍地蔵が現在の愛宕神社で信仰されていました。
ところが、勝軍地蔵とは別に、普賢菩薩と縁が深いという、多分ほかの愛宕神社にはないんじゃないか?という特徴。
普賢菩薩は、菩薩の中でも最高位です。
つまり、悟りを開いた如来に、一番近い菩薩様です。
昔、多くの神社がそうであったように、愛宕にも別当寺院として誓願寺あり、祭祀を司り普賢菩薩を祀っていました。
明治になり誓願寺は廃寺になりましたが、今でも、仙台十二支守り本尊は、愛宕神社とされています。
辰年・巳年生まれを守護して下さるのが、普賢菩薩です。
それほどに、勝軍地蔵や愛宕大権現と共に、普賢菩薩はこの地で信仰を集めていたのだと思います。
でも、政宗公は卯年生まれなので、守り本尊ではありません。
片倉小十郎様は巳年生まれですが、多分偶然でございましょう。
ならば…と。
ふと興味を覚えたので、調べてみました。
伊達政宗公から4代綱村公にかけて、ゆっくりと仙台の結界を作っていったのですが(急いでやるとお江戸にバレます)、仙台または宮城県の何処かに、有名な《諏訪神社》ってあったっけ?と。
何故諏訪神社かというと、普賢菩薩の垂迹神が、建御名方神(タケミナカタ)であるからです。
出雲から敗走したと言われていますが、名前の初めに《建》が付くくらいですから、武神として武士の信仰を集めていたはず。(建は勇猛さを示す美称)
探したら…ありました!
かつては仙台市ですらなかった西の地、上愛子に。(青葉区です。仙台は色々合併しまくって大きくなりすぎた感)
こちらの神社、願いを叶えてくれる神社として書籍で紹介され、有名になったんだそうですね。(という程度に私は知らなかったんですが)
この諏訪神社の創建は古く、平安時代に遡ります。
元・国分荘三十三ヶ村の総鎮守国分一宮で、時代が経てもその時の権力者に崇敬され、伊達家もまたそうでした。
室町時代に『西山なる御殿城より現今の地に移し奉る』とあるのですが、西山というのがどこか判らず(現在の地名としては残っていないようです)そもそもあの辺りは全体的に山地でして、さほど遠くに移った訳ではなく、やや高台にあったものを麓に遷座した、という程度だと思います。
つまり、多分、東西を結ぶラインには、さほど大きな変化はない。
……驚きました。
こんな形で、私が知らなかった諏訪神社に辿り着くなんて。
いえ…ぼんやりと、記憶の片隅にはあったんです。
訪れたことはありません。でも、遷座された瀧澤神社の遠く西には、『諏訪神社』があると『星の街仙台』の本に書いてあったんですから。
仙台の星の結界とは別の、もうひとつの結界。
星の中央を起点に東西に延びる十字架に、瀬織津姫様だけではなく、普賢菩薩の垂迹神・建御名方神がいらしたのです。
普賢菩薩→タケミナカタ神→それなら諏訪神社?…という経路で、この十字架に辿り付いたのは、多分、私が初めてなんじゃないでしょうか……
そして、もうひとつ、粋なはからいを見つけました。
普賢菩薩は辰年と巳年の守り本尊で、その役目は誓願寺がなくなっても、愛宕神社が引き継いでくれている、と書きました。
辰と巳。方角で言えば東よりもやや南寄り~南よりもやや東寄り、の範囲です。
(キッパリと巽、であればズバリ南東)
愛宕神社は、仙台城から見て辰~巳の方角に位置するのです。
この場所から、本丸を守っていたのです。
これは…、自分でもびっくりしました。
偶然だとしたら、伊達氏は元から神仏の加護に導かれていたとしか思えません。
でも、きっと、伊達政宗公は御存知だったと思うのです。
ご自身もその道に詳しかったのでしょうし、ここまでやってのける優秀なブレーンを重用し、自分の代だけは築けなくとも、必ず子孫が受け継いでくれると信じ、実際に4代綱村公で完成したのですから。
伊達政宗公、お見事です。
私の先祖が頂いた土地は仙台から離れておりますけれども、このような城下町を築かれたことを、嬉しく、誇りに思います。
今回の藤語りは、ここでお終いです。
でも、こちらも驚きましたよ?
私は藤の花が好きで、藤にちなんだペンネームを長く使っていたのですが、政宗公は
伊達藤次郎政宗 というお名前でしたね。
藤次郎、を知ったのは最近のことなのです。
伊達家家臣の子孫なのに、ウッカリです。
きっと、政宗公と愛姫がおわします北山神社には、初詣に沢山の方々がいらっしゃるのでしょうね。
皆様、よいお年を。

2019.
12.
30
昨日の続きです。
『愛宕大権現』には、ちゃんとカグツチ神もいらっしゃいました。
地蔵菩薩の垂迹神である母・イザナミ様とご一緒に。
(以下wiki引用)
>愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。(中略) 若宮を太郎坊大権現と称してカグツチをイザナミの第五皇子であるとしその化身が愛宕太郎坊であるとされた。(第五とするのは日本書紀の記述より天照、月読、蛭児、素戔嗚の順でその次の弟とされる為)
私、三貴子の誕生は、古事記しか知らなかった(両目と鼻を洗ったら生まれてきた話)のですが、日本書紀ではそんなことになっていたのですね。
古事記では、イザナミが死んでしまって、怒り狂ったお父さんイザナギの件でぶった切られてジ・エンドのお可哀想なカグツチ神ですが、第五皇子なんてことになっていたとは。
私はかねてから、ヒルコ・アワシマがそうであったように、カグツチも絶対に古くからめっちゃ信仰されていた重要な神だったんだよ!!と思っていました。
粗末に扱われる神は、大抵重要な神の法則。
日本書紀って、権力サイドに都合よく書かれてるから、素朴な口伝の古事記の方が信用出来る、的な雰囲気がありますけど、私は日本書紀は結構信頼に値すると思っています。
何故なら、メインの神話(歴史)の他に、別の伝承としてこのようなものがありますよ、と何パターンか提示してしてあるんです。葬り去ろうとすれば出来たはずなのに、律儀に残してくれた。
案外誠実なんです、日本書紀。
さて、愛宕大権現に戻りますが、どうも信仰を集めていたのは、イザナミ様ではありません。
本来の地蔵菩薩なら、イザナミ様のイメージにピッタリなのですが…地蔵菩薩は(以下wiki引用)
>サンスクリット語ではクシティガルバと言う。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。
>大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。
そのはずが。何かずいぶん違うことになってしまったんですよ。その名も
勝軍地蔵。
何じゃそりゃ…
いえ、名前は知っていたんですけど。定義山西方寺にも、古い質感の石仏様が祀られていましたから。
でも、何で勝軍???とは思っていました。
地蔵菩薩と言えば、ほかの菩薩様がジャラジャラと装飾品を付けて華美にしているというのに(釈迦の修業時代=悟りを開く前の菩薩だった頃、やんごとなき王子であった為)、地蔵菩薩だけは剃髪していかにもお坊さんです的な質素な身なりで、たまに何か装飾されているにしても、ネックレス程度。
そんな地蔵菩薩様が、いつの間にか勝軍地蔵になっていて、勇ましく馬に跨がっちゃって戦う気満々だよ!
何で菩薩が戦っちゃうんだよ!バトルは明王辺りに任せておこうよ!!
と、私は思うのですが、《勝軍地蔵》は当然に、広く武士の信仰を集めます。
伊達家もそうであり、政宗公の唯一無二の側近・片倉小十郎の息子も愛宕大権現を掲げて戦に出向いていった訳です。
そして、明治の神仏分離令によって、多くの愛宕権現は愛宕神社となり、祭神としてはカグツチ神がメインに残されることになったのです。
不思議なのは、他の神様が配祀される場合、元々のイザナミ様はともかく、イザナギ様まで付いて来ちゃうっていうことです。
いや…確かに父はイザナギ様だけど、このひと我が子カグツチをぶった切った本人じゃん?
カグツチ神もイザナギ様も、お互いに決まり悪く思わないんだろうか…
それとも、衆生の言い伝えでは、イザナギが我が子カグツチを殺した、ということにはなっていなかった、のでしょうか?
そうだったらいいな…と思います。
そして、これは仙台の愛宕神社独特だと思うのですが、普賢菩薩ととても縁が深いのです。
武士に人気のある仏様という認識はなかったので、意外に思って、自分で調べました。
思い掛けず面白いことになったので、続きは『その3』へ。
次回で最後になりますので、しばしお付き合い頂ければ嬉しいです。
(つづく)
『愛宕大権現』には、ちゃんとカグツチ神もいらっしゃいました。
地蔵菩薩の垂迹神である母・イザナミ様とご一緒に。
(以下wiki引用)
>愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。(中略) 若宮を太郎坊大権現と称してカグツチをイザナミの第五皇子であるとしその化身が愛宕太郎坊であるとされた。(第五とするのは日本書紀の記述より天照、月読、蛭児、素戔嗚の順でその次の弟とされる為)
私、三貴子の誕生は、古事記しか知らなかった(両目と鼻を洗ったら生まれてきた話)のですが、日本書紀ではそんなことになっていたのですね。
古事記では、イザナミが死んでしまって、怒り狂ったお父さんイザナギの件でぶった切られてジ・エンドのお可哀想なカグツチ神ですが、第五皇子なんてことになっていたとは。
私はかねてから、ヒルコ・アワシマがそうであったように、カグツチも絶対に古くからめっちゃ信仰されていた重要な神だったんだよ!!と思っていました。
粗末に扱われる神は、大抵重要な神の法則。
日本書紀って、権力サイドに都合よく書かれてるから、素朴な口伝の古事記の方が信用出来る、的な雰囲気がありますけど、私は日本書紀は結構信頼に値すると思っています。
何故なら、メインの神話(歴史)の他に、別の伝承としてこのようなものがありますよ、と何パターンか提示してしてあるんです。葬り去ろうとすれば出来たはずなのに、律儀に残してくれた。
案外誠実なんです、日本書紀。
さて、愛宕大権現に戻りますが、どうも信仰を集めていたのは、イザナミ様ではありません。
本来の地蔵菩薩なら、イザナミ様のイメージにピッタリなのですが…地蔵菩薩は(以下wiki引用)
>サンスクリット語ではクシティガルバと言う。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。
>大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。
そのはずが。何かずいぶん違うことになってしまったんですよ。その名も
勝軍地蔵。
何じゃそりゃ…
いえ、名前は知っていたんですけど。定義山西方寺にも、古い質感の石仏様が祀られていましたから。
でも、何で勝軍???とは思っていました。
地蔵菩薩と言えば、ほかの菩薩様がジャラジャラと装飾品を付けて華美にしているというのに(釈迦の修業時代=悟りを開く前の菩薩だった頃、やんごとなき王子であった為)、地蔵菩薩だけは剃髪していかにもお坊さんです的な質素な身なりで、たまに何か装飾されているにしても、ネックレス程度。
そんな地蔵菩薩様が、いつの間にか勝軍地蔵になっていて、勇ましく馬に跨がっちゃって戦う気満々だよ!
何で菩薩が戦っちゃうんだよ!バトルは明王辺りに任せておこうよ!!
と、私は思うのですが、《勝軍地蔵》は当然に、広く武士の信仰を集めます。
伊達家もそうであり、政宗公の唯一無二の側近・片倉小十郎の息子も愛宕大権現を掲げて戦に出向いていった訳です。
そして、明治の神仏分離令によって、多くの愛宕権現は愛宕神社となり、祭神としてはカグツチ神がメインに残されることになったのです。
不思議なのは、他の神様が配祀される場合、元々のイザナミ様はともかく、イザナギ様まで付いて来ちゃうっていうことです。
いや…確かに父はイザナギ様だけど、このひと我が子カグツチをぶった切った本人じゃん?
カグツチ神もイザナギ様も、お互いに決まり悪く思わないんだろうか…
それとも、衆生の言い伝えでは、イザナギが我が子カグツチを殺した、ということにはなっていなかった、のでしょうか?
そうだったらいいな…と思います。
そして、これは仙台の愛宕神社独特だと思うのですが、普賢菩薩ととても縁が深いのです。
武士に人気のある仏様という認識はなかったので、意外に思って、自分で調べました。
思い掛けず面白いことになったので、続きは『その3』へ。
次回で最後になりますので、しばしお付き合い頂ければ嬉しいです。
(つづく)

2019.
12.
29
今回調べていて、こちらの愛宕神社が《仙台総鎮守》だと知りました。
伊達政宗公が仙台に拠点を移すに至り、早い時期から遷座したということは、この神社をかなり重んじていたのでしょう。
遷座という通り、初め米沢にあったのものを、伊達氏が移動する度に神社も移動し、現在地に遷座しました。
尤も、米沢にあった方の愛宕神社は何故かそのままに残されまして、その後上杉氏の崇敬を受けました。
そして、沢山の神様が配祀されていますが、多くの愛宕神社がそうであるように、こちらの御祭神は軻遇土神(がぐつちのかみ)です。
それで、私は【星の街仙台】の考察通りに、瑞鳳殿は城下町の南の結界(南の鳳凰)、少し東側にずれる愛宕神社はカグツチ神(火の神・防火の神)は南の火として、星の結界の南の要所に相応しい、と思っていたのですが…
どうやら、それだけではないようなのです。
私が、公式HPを見ていて、ん?と思ったのが、
>白石城主 片倉小十郎景綱の長子重綱は、家臣の兜の前立にまで『愛宕大権現』の札を差し挟み、大阪の役の戦陣に立ち勇猛であったと伝えられております。
出たよ…権現!!
日本の神社の祭神がゴチャゴチャになっているのって、時代と共に新しい神様が上書きされるっていうのもあるのですが、この『権現』という、日本の神と仏教の仏が混ざった謎の名前が絡んでいる為に、「ここの神社の本来の祭神って、そもそも何なの?」と訳が分からなくなることが多いのです。
例えば、【ガチな神社仏閣】にカテゴライズした二柱神社もそうなのですが、現在は名の通りイザナギ・イザナミ夫妻が祀られているのですが、以前は『仁和多利大権現』(ニワタリダイゴンゲン)と言い、しかしその肝心のニワタリ様が何ものであるのか不明という状態。
同じ名、似た名前の権現様を祀っていたという神社の祭神が、現在見事にバラバラで一致を見ないので、正体のわからない謎の権現様なのです。
愛宕も権現かよ!と私は身構えたのですが、流石は全国に展開する愛宕神社。素性はすぐに調べがつきました。
愛宕権現とは、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。
…はい?イザナミ様??カグツチ神はいずこに!?
という訳で、文章が長くなりそうなので、『その2』に続きます!
(つづく)
伊達政宗公が仙台に拠点を移すに至り、早い時期から遷座したということは、この神社をかなり重んじていたのでしょう。
遷座という通り、初め米沢にあったのものを、伊達氏が移動する度に神社も移動し、現在地に遷座しました。
尤も、米沢にあった方の愛宕神社は何故かそのままに残されまして、その後上杉氏の崇敬を受けました。
そして、沢山の神様が配祀されていますが、多くの愛宕神社がそうであるように、こちらの御祭神は軻遇土神(がぐつちのかみ)です。
それで、私は【星の街仙台】の考察通りに、瑞鳳殿は城下町の南の結界(南の鳳凰)、少し東側にずれる愛宕神社はカグツチ神(火の神・防火の神)は南の火として、星の結界の南の要所に相応しい、と思っていたのですが…
どうやら、それだけではないようなのです。
私が、公式HPを見ていて、ん?と思ったのが、
>白石城主 片倉小十郎景綱の長子重綱は、家臣の兜の前立にまで『愛宕大権現』の札を差し挟み、大阪の役の戦陣に立ち勇猛であったと伝えられております。
出たよ…権現!!
日本の神社の祭神がゴチャゴチャになっているのって、時代と共に新しい神様が上書きされるっていうのもあるのですが、この『権現』という、日本の神と仏教の仏が混ざった謎の名前が絡んでいる為に、「ここの神社の本来の祭神って、そもそも何なの?」と訳が分からなくなることが多いのです。
例えば、【ガチな神社仏閣】にカテゴライズした二柱神社もそうなのですが、現在は名の通りイザナギ・イザナミ夫妻が祀られているのですが、以前は『仁和多利大権現』(ニワタリダイゴンゲン)と言い、しかしその肝心のニワタリ様が何ものであるのか不明という状態。
同じ名、似た名前の権現様を祀っていたという神社の祭神が、現在見事にバラバラで一致を見ないので、正体のわからない謎の権現様なのです。
愛宕も権現かよ!と私は身構えたのですが、流石は全国に展開する愛宕神社。素性はすぐに調べがつきました。
愛宕権現とは、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。
…はい?イザナミ様??カグツチ神はいずこに!?
という訳で、文章が長くなりそうなので、『その2』に続きます!
(つづく)

2019.
12.
28
しばらく沈み込んでいましたので、今回は明るいノリで注意喚起(?)の記事を書いてみようと思います。
私は、スピ系の深みにははまり込みたくないのですが(私は現世の地に足を付けて生きてゆく所存です)、一応興味のあるブログその他はそこそこ読んでいます。
成程、有り得るかもしれないし、歴史的にも面白いという情報、うわぁぁぁ電波過ぎる!とドン引きの情報まで色々ですが、とにかく読んでみないことには判りませんので。
最近、ねーよ。と思うチャネラーさんの記事を見つけたので、それがチャネリングではなく凄まじい思い込み(嘘を書いているような感じではなかったので、思い込みでこじつけてしまうタイプなんじゃないだろうか)であることを、検証してみたいと思います。
ってゆーか、私は検証するまでもなく、その記事は歴史的にナンセンスだとすぐに判ったのですし、記事を呼んだ瞬間に、ああまたこの種のやつか、と思ったので。因みにこの種のやつとは、
何でも彼でも瀬織津姫にしたがる人です。
本当多いです!呆れるほど多い!!
瀬織津姫様という、美しき名の謎の女神。
大祓詞という、最強の祝詞に謳われる祓いの水神でありながら、古き時代から、天皇家によって何故か明治に渡るまで、おそらく民草の信仰を断絶させる為に執拗に神社の祭神を取り替えられ、名を消され続けた女神……となれば、ロマンを掻き立てられる姫神様だという事は、私も大いに同意するのですが。
でも、ダメなものはダメです。
何でも瀬織津姫と、強引に引っ張って来るのは、ダメです。
セミナーを開くほどの人がそんなことをするのは詐欺です。(悪気は無くとも、結果的に。)
瀬織津姫様におかれましては、歴代天皇による迫害は非常なる大迷惑だったと存じますが、皇室以外にも、例えば徳永家康公などの時の権力者は、瀬織津姫が何ものであるか知っていた模様です。
伊達政宗公もまた、そのひとりだ…とどこで読んだのか失念してしまったのですが、私もそう思うのです。
政宗公は、決して瀬織津姫を消そうとはしなかったのだから。
このブログの【伊達政宗の結界の街】というカテゴリに、5回に渡る仙台の瀬織津姫連載がありますので、興味のある方はどうぞご覧下さい。
さて、私がコレは間違いだと断じたいのは、宮城県は仙台市の
愛宕神社─瑞鳳殿─櫻丘大神宮─亀岡八幡宮─大崎八幡宮─泉ヶ岳 が瀬織津姫を隠した水神レイラインだというトンデモ説についてです。
私が地図にラインを引いて確かめるべくもなく、コレは無いと思ったのが、愛宕神社は元々水神を祀っていて、火の神は後から祀られたんじゃないかな~、という所です。
「ないかな~」って、そんな曖昧な思い付きで、チャネラー名乗ってんのかい!
愛宕神社は、これも伊達家の氏神・亀岡八幡宮のように、伊達政宗公の居城と共に遷座を繰り返した、伊達家の崇敬が深い神社です。
この場所に、仙台総鎮守・愛宕神社以前に何があったかは判りませんが、瀬織津姫様でないことは確実です。
仙台には、既に川内亀岡(当時は川内瀧澤)に瀧澤神社(祭神は瀬織津姫)が存在していて、地元の方にそれは立派に、大切に、祀られていたのですから。
その霊地に亀岡八幡宮を遷座したいが為に、瀧澤神社を別の場所に遷座したという事は、しっかり記録に残されています。
また、瀧澤神社が遷座された場所が、如何に重要な場所であったのかは、【星の街仙台】について、長年研究なさってきた稲辺勲氏が、見事な仮説を立てていらっしゃいます。
※ 私は、そこに更に【水の街】を絡めた考察をして記事にしております。
件のチャネラーさんは、愛宕神社からは上記の重要な神社と御霊屋(伊達家の墓)が見下ろせて、泉ヶ岳まで良く見えると言っていますが、そりゃそうだ。
仙台本丸と、メインの5つの神社(うちひとつは創建時は寺)は、みんな高台にあるんだから。
そして、泉ヶ岳に向かう北西方面には、現代にあっても高い建物が無いのだから。
稲辺氏曰く結界を妨げないように高台に作った(そして高層建築を禁じた…のに、今は仙台市中心部には建ちまくりだよ…結界の効力はどうなってるんだろう?)という事以外に、霊的なこととは無関係にとても現実的な理由があります。
重要な軍事的拠点だから見晴らしが良くて当たり前です。
ちなみに、私も念の為に、愛宕神社から泉ヶ岳水神の碑まで、線を引いてみました。
肝心要の亀岡八幡宮(元・瀧澤神社の地)が、ラインから明らかに外れていますね、この時点ではいアウト。
大崎八幡宮も誤差の範囲で掠っていますが、それは元から愛宕神社と大崎八幡宮は、南東─北西のラインに配置するように建築されているので除外。
かろうじて、櫻岡大神宮がラインに乗りましたが、偶然でしょう。
勧請したのは政宗公ですが、当時は荒巻(北山の辺り。城下町の北の護りです)にあり、その後民間の手で明治時代に現在の地に遷座されているからです。
そして、仙台城下町の結界としては、瑞鳳殿の鳳凰、愛宕神社の軻遇土神(かぐつちのかみ、火の神・火防の神)は、
現在そうであるように南に配置するのが正しい。
愛宕神社以前に、水神が祀られる理由も、特にありません。
水源豊かな泉ヶ岳と違って、愛宕山は特に水とは関係がないので。
因みに、境内社に『勝閧神社』(かちときのかんやしろ)があって、そのなかにミツハノメノカミ(水の女神様)がいらっしゃるんですけど、こちら平成18年遷宮遷座です。
>【御神徳(ごしんとく)】
全ての御業を勝ち盡し、大勢に力の限り物事を極めると云う
吉報を齎(もたら)す御神徳の在る神々です。
(公式HPより引用)
参拝者の全ての御業に勝利させねばならぬ所為でありましょう、これでもかと、節操もない感じに沢山の神様が詰め込まれる感じに祀られていらっしゃいます……
というわけで。
みなさん、インチキチャネラーに騙されないようにご注意を。
高次の存在にアクセス出来る人は確かにいるのでしょう。
でもそれはごく僅かで、そのような方は、高次の神の秘め事を、簡単に明かすことはしないはずですから。
そして、この記事を書いているうちに、この仙台愛宕神社について、面白いことを知りましたので、後日記事にしたいと思います。
そちらは【伊達政宗の結界の街】のカテゴリで書きますので、お楽しみに!
私は、スピ系の深みにははまり込みたくないのですが(私は現世の地に足を付けて生きてゆく所存です)、一応興味のあるブログその他はそこそこ読んでいます。
成程、有り得るかもしれないし、歴史的にも面白いという情報、うわぁぁぁ電波過ぎる!とドン引きの情報まで色々ですが、とにかく読んでみないことには判りませんので。
最近、ねーよ。と思うチャネラーさんの記事を見つけたので、それがチャネリングではなく凄まじい思い込み(嘘を書いているような感じではなかったので、思い込みでこじつけてしまうタイプなんじゃないだろうか)であることを、検証してみたいと思います。
ってゆーか、私は検証するまでもなく、その記事は歴史的にナンセンスだとすぐに判ったのですし、記事を呼んだ瞬間に、ああまたこの種のやつか、と思ったので。因みにこの種のやつとは、
何でも彼でも瀬織津姫にしたがる人です。
本当多いです!呆れるほど多い!!
瀬織津姫様という、美しき名の謎の女神。
大祓詞という、最強の祝詞に謳われる祓いの水神でありながら、古き時代から、天皇家によって何故か明治に渡るまで、おそらく民草の信仰を断絶させる為に執拗に神社の祭神を取り替えられ、名を消され続けた女神……となれば、ロマンを掻き立てられる姫神様だという事は、私も大いに同意するのですが。
でも、ダメなものはダメです。
何でも瀬織津姫と、強引に引っ張って来るのは、ダメです。
セミナーを開くほどの人がそんなことをするのは詐欺です。(悪気は無くとも、結果的に。)
瀬織津姫様におかれましては、歴代天皇による迫害は非常なる大迷惑だったと存じますが、皇室以外にも、例えば徳永家康公などの時の権力者は、瀬織津姫が何ものであるか知っていた模様です。
伊達政宗公もまた、そのひとりだ…とどこで読んだのか失念してしまったのですが、私もそう思うのです。
政宗公は、決して瀬織津姫を消そうとはしなかったのだから。
このブログの【伊達政宗の結界の街】というカテゴリに、5回に渡る仙台の瀬織津姫連載がありますので、興味のある方はどうぞご覧下さい。
さて、私がコレは間違いだと断じたいのは、宮城県は仙台市の
愛宕神社─瑞鳳殿─櫻丘大神宮─亀岡八幡宮─大崎八幡宮─泉ヶ岳 が瀬織津姫を隠した水神レイラインだというトンデモ説についてです。
私が地図にラインを引いて確かめるべくもなく、コレは無いと思ったのが、愛宕神社は元々水神を祀っていて、火の神は後から祀られたんじゃないかな~、という所です。
「ないかな~」って、そんな曖昧な思い付きで、チャネラー名乗ってんのかい!
愛宕神社は、これも伊達家の氏神・亀岡八幡宮のように、伊達政宗公の居城と共に遷座を繰り返した、伊達家の崇敬が深い神社です。
この場所に、仙台総鎮守・愛宕神社以前に何があったかは判りませんが、瀬織津姫様でないことは確実です。
仙台には、既に川内亀岡(当時は川内瀧澤)に瀧澤神社(祭神は瀬織津姫)が存在していて、地元の方にそれは立派に、大切に、祀られていたのですから。
その霊地に亀岡八幡宮を遷座したいが為に、瀧澤神社を別の場所に遷座したという事は、しっかり記録に残されています。
また、瀧澤神社が遷座された場所が、如何に重要な場所であったのかは、【星の街仙台】について、長年研究なさってきた稲辺勲氏が、見事な仮説を立てていらっしゃいます。
※ 私は、そこに更に【水の街】を絡めた考察をして記事にしております。
件のチャネラーさんは、愛宕神社からは上記の重要な神社と御霊屋(伊達家の墓)が見下ろせて、泉ヶ岳まで良く見えると言っていますが、そりゃそうだ。
仙台本丸と、メインの5つの神社(うちひとつは創建時は寺)は、みんな高台にあるんだから。
そして、泉ヶ岳に向かう北西方面には、現代にあっても高い建物が無いのだから。
稲辺氏曰く結界を妨げないように高台に作った(そして高層建築を禁じた…のに、今は仙台市中心部には建ちまくりだよ…結界の効力はどうなってるんだろう?)という事以外に、霊的なこととは無関係にとても現実的な理由があります。
重要な軍事的拠点だから見晴らしが良くて当たり前です。
ちなみに、私も念の為に、愛宕神社から泉ヶ岳水神の碑まで、線を引いてみました。
肝心要の亀岡八幡宮(元・瀧澤神社の地)が、ラインから明らかに外れていますね、この時点ではいアウト。
大崎八幡宮も誤差の範囲で掠っていますが、それは元から愛宕神社と大崎八幡宮は、南東─北西のラインに配置するように建築されているので除外。
かろうじて、櫻岡大神宮がラインに乗りましたが、偶然でしょう。
勧請したのは政宗公ですが、当時は荒巻(北山の辺り。城下町の北の護りです)にあり、その後民間の手で明治時代に現在の地に遷座されているからです。
そして、仙台城下町の結界としては、瑞鳳殿の鳳凰、愛宕神社の軻遇土神(かぐつちのかみ、火の神・火防の神)は、
現在そうであるように南に配置するのが正しい。
愛宕神社以前に、水神が祀られる理由も、特にありません。
水源豊かな泉ヶ岳と違って、愛宕山は特に水とは関係がないので。
因みに、境内社に『勝閧神社』(かちときのかんやしろ)があって、そのなかにミツハノメノカミ(水の女神様)がいらっしゃるんですけど、こちら平成18年遷宮遷座です。
>【御神徳(ごしんとく)】
全ての御業を勝ち盡し、大勢に力の限り物事を極めると云う
吉報を齎(もたら)す御神徳の在る神々です。
(公式HPより引用)
参拝者の全ての御業に勝利させねばならぬ所為でありましょう、これでもかと、節操もない感じに沢山の神様が詰め込まれる感じに祀られていらっしゃいます……
というわけで。
みなさん、インチキチャネラーに騙されないようにご注意を。
高次の存在にアクセス出来る人は確かにいるのでしょう。
でもそれはごく僅かで、そのような方は、高次の神の秘め事を、簡単に明かすことはしないはずですから。
そして、この記事を書いているうちに、この仙台愛宕神社について、面白いことを知りましたので、後日記事にしたいと思います。
そちらは【伊達政宗の結界の街】のカテゴリで書きますので、お楽しみに!

2019.
12.
27
昨日の記事でも、動揺しまくった文章を書いたのですけれども、私は出雲の神様が大好きで、きっと歴史上に実在した人がモデルになり、神として祀られているのだろうと思っていました。
ところが、昨日ネットサーフしていた所、
富當雄(とみまさお)氏、斎木雲州氏による、富氏(向氏)の口伝
の記事に辿り着いてしまい、ショックで、実際寝込みました。詳しくは、
昨日の記事(←リンク張りました)に書きましたので、神話や古代史に詳しい方、どうか助けて下さい!
平に伏してお願い申し上げます。
ところが、昨日ネットサーフしていた所、
富當雄(とみまさお)氏、斎木雲州氏による、富氏(向氏)の口伝
の記事に辿り着いてしまい、ショックで、実際寝込みました。詳しくは、
昨日の記事(←リンク張りました)に書きましたので、神話や古代史に詳しい方、どうか助けて下さい!
平に伏してお願い申し上げます。

2019.
12.
26
すみません!いきなり泣き付きます!!
富當雄(とみまさお)氏、斎木雲州氏による、富氏(向氏)の口伝についてのことです。
4000年もの間、続いてきたという門外不出の口伝。
大国主の子孫を名乗る富氏が、どうやって出雲に辿り付いたかは脇に置き、スサノオ様は徐福で、出雲族にとっては征服者で、それで大国主と事代主は死んだ、という話についてです。
津島神社が産土神で(元はスサノオ様ではなく牛頭天王だったようですが)、スサノオ様は勿論のこと、クシナダヒメ様、オオナムチ様&スセリヒメ様夫妻といった出雲の神様(と、繋がりのある歴史上の人物)が大好きな私は、元から謎が多い出雲神話なのに、それさえも粉々にする内容に、足元が崩れ落ちそうな思いでおります。
私はただ神社仏閣が好きで、一般的な日本人の多くがそうであるように、神社に初詣に行くし人生が終わったら寺の墓に入る程度の人間なのですけれども、正直こんなに衝撃を受けるほど、出雲の神様を心の支えにしていたとは、自分でも思っていませんでした。
その口伝を(門外不出なのに?)書籍にしたという
『[新装版]謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史』
『出雲と蘇我王国―大社と向家文書』
これらは、未読です。
読まなくても、amazonのレビューや、この本を読んだ方のブログやサイトを見れば、衝撃的な事がこれでもかとネタバレされていて、私はこれ以上は怖くて、実際の本を買って読む勇気が出ません。
スサノオ様が、出雲の神様(祖神・モデルになった出雲の王)ではなく、出雲王朝を滅ぼすに至った征服者だったなんて。
その事について、30ページも費やされて、怨嗟の口伝が記されているなんて。
クシナダヒメ様は、徐福よりも200年ほど前の人物で、スサノオ様の妃になるはずもなかっただなんて。
私は元々、穏やかな国譲りなどある訳がない、きっと戦争があったのだし、『天ノ逆手を打って隠れた』という事代主は、天孫族を呪って死んだ、出雲サイドの神(のモデルとなった人物)だとは、思ってはいたのですけれども……
その戦争はもっと残酷であったという口伝を、今の世に至るまで、恨み呪いながら伝え続けていた人々が、実際に居るなんて。
誰か、覆せる人は、いらっしゃいませんか?
富氏の口伝によると、出雲族は『風葬』(遺体を籠に入れて木に吊し、白骨になってから土に埋める)であったので、大規模な墳墓は出ない、それゆえ古墳では証明できない、らしいのですが……
ちなみに、上記の1冊目については、著者の吉田氏が、勝手にシュメール文明云々ほか、自説を取り込んで書いてしまった為に、その時点でトンデモ本認定している人は多いようですが、スサノオ様と大国主&事代主が敵同士だったという口伝について、『間違っている』或いは『信憑性は薄い』と言える人はいらっしゃるのでしょうか?
そもそも『スサノオ』 『大国主』という呼び名さえ、奈良時代まで存在すらしていなかった、という口伝に、私は茫然としています。
誰か、助けて下さい。
お願いします……
富當雄(とみまさお)氏、斎木雲州氏による、富氏(向氏)の口伝についてのことです。
4000年もの間、続いてきたという門外不出の口伝。
大国主の子孫を名乗る富氏が、どうやって出雲に辿り付いたかは脇に置き、スサノオ様は徐福で、出雲族にとっては征服者で、それで大国主と事代主は死んだ、という話についてです。
津島神社が産土神で(元はスサノオ様ではなく牛頭天王だったようですが)、スサノオ様は勿論のこと、クシナダヒメ様、オオナムチ様&スセリヒメ様夫妻といった出雲の神様(と、繋がりのある歴史上の人物)が大好きな私は、元から謎が多い出雲神話なのに、それさえも粉々にする内容に、足元が崩れ落ちそうな思いでおります。
私はただ神社仏閣が好きで、一般的な日本人の多くがそうであるように、神社に初詣に行くし人生が終わったら寺の墓に入る程度の人間なのですけれども、正直こんなに衝撃を受けるほど、出雲の神様を心の支えにしていたとは、自分でも思っていませんでした。
その口伝を(門外不出なのに?)書籍にしたという
『[新装版]謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史』
『出雲と蘇我王国―大社と向家文書』
これらは、未読です。
読まなくても、amazonのレビューや、この本を読んだ方のブログやサイトを見れば、衝撃的な事がこれでもかとネタバレされていて、私はこれ以上は怖くて、実際の本を買って読む勇気が出ません。
スサノオ様が、出雲の神様(祖神・モデルになった出雲の王)ではなく、出雲王朝を滅ぼすに至った征服者だったなんて。
その事について、30ページも費やされて、怨嗟の口伝が記されているなんて。
クシナダヒメ様は、徐福よりも200年ほど前の人物で、スサノオ様の妃になるはずもなかっただなんて。
私は元々、穏やかな国譲りなどある訳がない、きっと戦争があったのだし、『天ノ逆手を打って隠れた』という事代主は、天孫族を呪って死んだ、出雲サイドの神(のモデルとなった人物)だとは、思ってはいたのですけれども……
その戦争はもっと残酷であったという口伝を、今の世に至るまで、恨み呪いながら伝え続けていた人々が、実際に居るなんて。
誰か、覆せる人は、いらっしゃいませんか?
富氏の口伝によると、出雲族は『風葬』(遺体を籠に入れて木に吊し、白骨になってから土に埋める)であったので、大規模な墳墓は出ない、それゆえ古墳では証明できない、らしいのですが……
ちなみに、上記の1冊目については、著者の吉田氏が、勝手にシュメール文明云々ほか、自説を取り込んで書いてしまった為に、その時点でトンデモ本認定している人は多いようですが、スサノオ様と大国主&事代主が敵同士だったという口伝について、『間違っている』或いは『信憑性は薄い』と言える人はいらっしゃるのでしょうか?
そもそも『スサノオ』 『大国主』という呼び名さえ、奈良時代まで存在すらしていなかった、という口伝に、私は茫然としています。
誰か、助けて下さい。
お願いします……

2019.
12.
26
三貴子のうちの一柱とされながら、不自然なほどに記録が少ないツクヨミ・ツキヨミ。
でも、影が薄いながらも、天皇に祟る程度には、アクティブな所もある神様なんですよね。
謎の多い神に惹かれがちな私も、詳しく知りたいと思う神です。
でも、スピ系でも新興宗教がらみでもなく、学術的なアプローチをしている本で、現在入手可能なのは、私が調べた限りではこの1冊のみです。
amazonの評価を見ると、見事に☆1~5まで散けています。
つまり、学術的にアプローチしようにも、手札があまりにも少なくて、著者の推理に寄る所がどうしても多くなってしまう。
だから、斬新で新鮮な切り口と思う人と、信用に値しないと思う人に分かれるのでしょう。
でも、学術的なアプローチをしているツクヨミ神の本がこれしかない程度に、戸矢氏は証拠の少なさというハンデと限界を承知の上で、敢えてツクヨミ神の謎に向き合ったのだと思います。
私は個人的には、☆4つくらいでしょうか。
内容的には、可能性はあると思うし面白い考察ではあるけれども、著者の推論に推論を重ねる箇所が多くなり、説得力に欠けます。
でも、戸矢氏の限界を承知した上での可能な限りの誠実な考察という態度に、敬意を表したいと思います。
この本は、月読命と天武帝の深い関わりについて考察しています。
もし、この推理が当たっているとすれば、妻の推古天皇が男神・アマテラスを女神に変えることくらい、やっちゃうよなーと思います。
三種の神器のうち、八尺瓊勾玉だけは宮中に置かれているとされているが、それは表向きであって、八尺瓊勾玉もまた、宮中にあるのはレプリカであろうという考察は、面白い。
勾玉の主要な産地は何処であるか?ということを考えると、天皇家は勾玉という神宝の正当な後継者ではない、可能性は確かに高い。
八尺瓊勾玉が元々はどこの神宝であったか?という著者の推理が当たっていれば、勾玉もまた天皇家に祟るのに決まっていますから。
個人的には、一度読んでみては?と思う本です。
でも、影が薄いながらも、天皇に祟る程度には、アクティブな所もある神様なんですよね。
謎の多い神に惹かれがちな私も、詳しく知りたいと思う神です。
でも、スピ系でも新興宗教がらみでもなく、学術的なアプローチをしている本で、現在入手可能なのは、私が調べた限りではこの1冊のみです。
amazonの評価を見ると、見事に☆1~5まで散けています。
つまり、学術的にアプローチしようにも、手札があまりにも少なくて、著者の推理に寄る所がどうしても多くなってしまう。
だから、斬新で新鮮な切り口と思う人と、信用に値しないと思う人に分かれるのでしょう。
でも、学術的なアプローチをしているツクヨミ神の本がこれしかない程度に、戸矢氏は証拠の少なさというハンデと限界を承知の上で、敢えてツクヨミ神の謎に向き合ったのだと思います。
私は個人的には、☆4つくらいでしょうか。
内容的には、可能性はあると思うし面白い考察ではあるけれども、著者の推論に推論を重ねる箇所が多くなり、説得力に欠けます。
でも、戸矢氏の限界を承知した上での可能な限りの誠実な考察という態度に、敬意を表したいと思います。
この本は、月読命と天武帝の深い関わりについて考察しています。
もし、この推理が当たっているとすれば、妻の推古天皇が男神・アマテラスを女神に変えることくらい、やっちゃうよなーと思います。
三種の神器のうち、八尺瓊勾玉だけは宮中に置かれているとされているが、それは表向きであって、八尺瓊勾玉もまた、宮中にあるのはレプリカであろうという考察は、面白い。
勾玉の主要な産地は何処であるか?ということを考えると、天皇家は勾玉という神宝の正当な後継者ではない、可能性は確かに高い。
八尺瓊勾玉が元々はどこの神宝であったか?という著者の推理が当たっていれば、勾玉もまた天皇家に祟るのに決まっていますから。
個人的には、一度読んでみては?と思う本です。

2019.
12.
25
以前、スセリヒメ様の絵を描きたいと、ラフを描いていたときに、突然ビリッと大きく絵の真ん中が裂けたことがあります。(リンク先の記事参照)
スセリヒメ様が、『それは私じゃない!』と拒否したかのように……
こんなに大きく、絵の真ん中を切り裂くように破れたことは、これが初めてでした。
私は水の青じゃない!私は水の女神じゃない!と、スセリヒメ様が叫んだような気がしました。
私は透明水彩絵描きですが、青系は、澄んだ清らかな美しさを表現するのにとても向いています。
でも、スセリヒメ様が拒んだかも知れないと思うと、《青》をメインには出来ないし、《水》も描いてはならないと思いました。
その時には行き詰まってしまって、創作活動をしている人なら解って頂けると思うのですが、まずはインスピレーションが降りてこないと何も創れません。
それは、無理矢理自分でひねり出すものではないので、時を待つことにしました。
上記のリンクの記事から、1ヶ月近く。
あっ、とヒントに巡り会ったのです。
私は古典は苦手で、大まかなエピソードは知っていても、オオクニヌシとスセリヒメが交わした歌のやり取りは、大雑把に読み流していました。
スセリヒメの嫉妬に困ったオオクニヌシが、大和に逃れようと旅支度をした場面で、オオクニヌシ→スセリヒメ様へと詠んだ、
開き直りなのかご機嫌取りなのかよくわかんない歌です……と、ブチ切れそうになる私。
私のスセリヒメ様を苦しめた挙げ句に、また余所の女の所に逃げようとは、たかが婿の分際が許し難き屈辱!!
と思う時の私の心境って、スセリヒメ様の乳母とか侍女頭みたいなワナワナ感です。(一層オオクニヌシが逃げそうな雰囲気)
スセリヒメ様→オオクニヌシへの返歌は、内容も把握していたんですけど、オオクニヌシの歌は省いて紹介されることが多く、私はちゃんと読まないままでいました。迂闊にも。
万葉仮名は是非とも遠慮したいので、書き下し文と訳文だけを以下に。
(書き下し文)
ぬばたまの 黒く御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも これは適さず
辺つ波 そに脱き棄て
そに鳥の 青き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此適はず
辺つ波 そに脱き棄て
山県に 蒔きし あたね舂き 染木が汁に 染め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此し宜し いとこやの 妹の命(以下略)
(訳文)
黒い衣を 丁寧に装い 沖の水鳥がはばたいて胸を見るように 袖を上下して見ても これは似合っていない
浜辺の波が引くように 脱ぎ捨てよう
かわせみの羽のような 青い衣を 丁寧に装い 沖の水鳥がはばたいて胸を見るように 袖を上下して見ても これも似合っていない
浜辺の波が引くように 脱ぎ捨てよう
山の畑に蒔いた茜をつき その染汁で染めた衣を 丁寧に装い 沖の水鳥がはばたいて胸を見るように 袖を上下して見たところ これは似合っている
愛しい妻よ(以下略)
…というわけで、
ホント昔の人って、例え話が多くて何言ってるのか解らんわ!
上の歌は、どうやらオオクニヌシが女性を『衣』に例えているらしいのです。つまり、
黒い衣を着てみたが、しっくりこない。捨てよう。
青い衣を着てみたが、これもしっくりこない。捨てよう。
茜の染料で染めた衣を着てみたら、これは似合っている。愛しい妻よ。
ねえ。オオクニヌシ様。
かわせみの羽のような青い衣の女って、絶対ヌナカワヒメだろ。そして捨てるとか言っといて、別れる気さらさら無いだろ。
※ ヌナカワヒメは翡翠の産地の姫。昔の《青》は寒色系一般です。今でも『青菜』というように。
そして、諸説有り状態のようですが、『あたね』=『茜』(あかね)であるらしいのです。
※ 蓼(たで)で染めた藍色の衣、という説もある
茜色(あかねいろ)ってわかりますか?
やや朱色寄りの鮮明な赤なのです。
茜の染めは、染め方によって、薄ければオレンジっぽく、濃ければ黒みを帯びた深い赤になります。
茜で染めた赤い織物。
それは、卑弥呼が魏王に献上した品でもあるのです。
きっと、鮮やかな赤だったことでしょう。
茜の染色には手間がかかり、量産できるものではなかったはずで、美しく、貴重品であるからこそ、魏王への贈り物に相応しかったのです。
茜は世界におおまかに4種あるそうですが、《日本茜》は、キッチリ染まれば美しく耐久性もあり、優れた染料なのですが、とにかく染めにくいので、のちには紅花や蘇芳に取って代わられました。
ひと頃は日本茜の染め物が絶えてしまい、江戸時代に徳川吉宗が復興させたのだとか。
劣化しにくい赤、というのは貴重です。例えば紅花の赤はとても美しいですが、耐光性の欠片もありません。すぐに色褪せます。
絵の具も、赤い色は耐光性の弱い色が多いので、だんだんと退色しにくい材料に取り替えられていった歴史があります。
私は、蓼(たであい、あいたで、という植物)で染めた藍色説は、取りません。
美しい色ではありますが、スセリヒメ様が拒んだ青で、そしてスセリヒメ様がオオナムチ(オオクニヌシ以前)と出会った若い頃のお召し物としては、地味だと思います。
ここは、万葉仮名をどう読み解くかということではなく、
私が茜色という鮮やかな赤に「あっ!」と思った、この感覚を、信じたい。
鮮やかで高貴な赤。
それは、なんて、スセリヒメ様の衣に相応しいことでしょうか。
私が描くスセリヒメ様の絵は、茜の衣を纏った、美しく誇り高いスセリヒメ様なのだと、そう思いました。
この結論は、歴史的なアプローチとしては甘いですし、万葉仮名という古典の理解としても定説ではありません。
ただに、私の絵描きとしてのインスピレーションです。
必要としているときに必要な情報に出会った、絵描きとしては、それが全てですから。
私はこれから、茜色の、幸福に微笑むスセリヒメ様の絵を描きます。
スセリヒメ様が、『それは私じゃない!』と拒否したかのように……
こんなに大きく、絵の真ん中を切り裂くように破れたことは、これが初めてでした。
私は水の青じゃない!私は水の女神じゃない!と、スセリヒメ様が叫んだような気がしました。
私は透明水彩絵描きですが、青系は、澄んだ清らかな美しさを表現するのにとても向いています。
でも、スセリヒメ様が拒んだかも知れないと思うと、《青》をメインには出来ないし、《水》も描いてはならないと思いました。
その時には行き詰まってしまって、創作活動をしている人なら解って頂けると思うのですが、まずはインスピレーションが降りてこないと何も創れません。
それは、無理矢理自分でひねり出すものではないので、時を待つことにしました。
上記のリンクの記事から、1ヶ月近く。
あっ、とヒントに巡り会ったのです。
私は古典は苦手で、大まかなエピソードは知っていても、オオクニヌシとスセリヒメが交わした歌のやり取りは、大雑把に読み流していました。
スセリヒメの嫉妬に困ったオオクニヌシが、大和に逃れようと旅支度をした場面で、オオクニヌシ→スセリヒメ様へと詠んだ、
開き直りなのかご機嫌取りなのかよくわかんない歌です……と、ブチ切れそうになる私。
私のスセリヒメ様を苦しめた挙げ句に、また余所の女の所に逃げようとは、たかが婿の分際が許し難き屈辱!!
と思う時の私の心境って、スセリヒメ様の乳母とか侍女頭みたいなワナワナ感です。(一層オオクニヌシが逃げそうな雰囲気)
スセリヒメ様→オオクニヌシへの返歌は、内容も把握していたんですけど、オオクニヌシの歌は省いて紹介されることが多く、私はちゃんと読まないままでいました。迂闊にも。
万葉仮名は是非とも遠慮したいので、書き下し文と訳文だけを以下に。
(書き下し文)
ぬばたまの 黒く御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも これは適さず
辺つ波 そに脱き棄て
そに鳥の 青き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此適はず
辺つ波 そに脱き棄て
山県に 蒔きし あたね舂き 染木が汁に 染め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此し宜し いとこやの 妹の命(以下略)
(訳文)
黒い衣を 丁寧に装い 沖の水鳥がはばたいて胸を見るように 袖を上下して見ても これは似合っていない
浜辺の波が引くように 脱ぎ捨てよう
かわせみの羽のような 青い衣を 丁寧に装い 沖の水鳥がはばたいて胸を見るように 袖を上下して見ても これも似合っていない
浜辺の波が引くように 脱ぎ捨てよう
山の畑に蒔いた茜をつき その染汁で染めた衣を 丁寧に装い 沖の水鳥がはばたいて胸を見るように 袖を上下して見たところ これは似合っている
愛しい妻よ(以下略)
…というわけで、
ホント昔の人って、例え話が多くて何言ってるのか解らんわ!
上の歌は、どうやらオオクニヌシが女性を『衣』に例えているらしいのです。つまり、
黒い衣を着てみたが、しっくりこない。捨てよう。
青い衣を着てみたが、これもしっくりこない。捨てよう。
茜の染料で染めた衣を着てみたら、これは似合っている。愛しい妻よ。
ねえ。オオクニヌシ様。
かわせみの羽のような青い衣の女って、絶対ヌナカワヒメだろ。そして捨てるとか言っといて、別れる気さらさら無いだろ。
※ ヌナカワヒメは翡翠の産地の姫。昔の《青》は寒色系一般です。今でも『青菜』というように。
そして、諸説有り状態のようですが、『あたね』=『茜』(あかね)であるらしいのです。
※ 蓼(たで)で染めた藍色の衣、という説もある
茜色(あかねいろ)ってわかりますか?
やや朱色寄りの鮮明な赤なのです。
茜の染めは、染め方によって、薄ければオレンジっぽく、濃ければ黒みを帯びた深い赤になります。
茜で染めた赤い織物。
それは、卑弥呼が魏王に献上した品でもあるのです。
きっと、鮮やかな赤だったことでしょう。
茜の染色には手間がかかり、量産できるものではなかったはずで、美しく、貴重品であるからこそ、魏王への贈り物に相応しかったのです。
茜は世界におおまかに4種あるそうですが、《日本茜》は、キッチリ染まれば美しく耐久性もあり、優れた染料なのですが、とにかく染めにくいので、のちには紅花や蘇芳に取って代わられました。
ひと頃は日本茜の染め物が絶えてしまい、江戸時代に徳川吉宗が復興させたのだとか。
劣化しにくい赤、というのは貴重です。例えば紅花の赤はとても美しいですが、耐光性の欠片もありません。すぐに色褪せます。
絵の具も、赤い色は耐光性の弱い色が多いので、だんだんと退色しにくい材料に取り替えられていった歴史があります。
私は、蓼(たであい、あいたで、という植物)で染めた藍色説は、取りません。
美しい色ではありますが、スセリヒメ様が拒んだ青で、そしてスセリヒメ様がオオナムチ(オオクニヌシ以前)と出会った若い頃のお召し物としては、地味だと思います。
ここは、万葉仮名をどう読み解くかということではなく、
私が茜色という鮮やかな赤に「あっ!」と思った、この感覚を、信じたい。
鮮やかで高貴な赤。
それは、なんて、スセリヒメ様の衣に相応しいことでしょうか。
私が描くスセリヒメ様の絵は、茜の衣を纏った、美しく誇り高いスセリヒメ様なのだと、そう思いました。
この結論は、歴史的なアプローチとしては甘いですし、万葉仮名という古典の理解としても定説ではありません。
ただに、私の絵描きとしてのインスピレーションです。
必要としているときに必要な情報に出会った、絵描きとしては、それが全てですから。
私はこれから、茜色の、幸福に微笑むスセリヒメ様の絵を描きます。

2019.
12.
24
さて、今夜からクリスマスです。
…というと、「?」と思う人も結構いらっしゃると思うのですが、
クリスマスイブ=クリスマスの夜でございます。
ユダヤやローマや教会の暦が、日没から1日が始まるということで、24日没~25日没まで、がクリスマス当日となります。
日没は、地平線(水平線)の彼方に陽が落ちたら、と私は思っていたのですが、一番星が見えたら説もあるようです。
私は、案外キリスト教に縁があります。
例えば、夫とは宗教曲(当然にキリスト教の)を歌う合唱団と出会ったのですし、3人の子供たちは全員キリスト教系の幼稚園にお世話になったのですし、そもそも夫自身もキリスト教系の幼稚園出身(子供たちとは違う園)だったりします。
合唱団では、ミサ曲その他、これでもかと歌わされましたので(歌わされた、とウッカリ書く程度に、厳しい合唱団だった)、当然に、ラテン語の読み方、歌うときの発音、それ以上にもっと大切なこととして、その歌詞に込められた意味も教わりました。
最大限に、その曲に込められた意味を、心を、歌ってきたつもりです。
つもり、というのは、結局は私が、キリスト教の唯一なる絶対神に縋る理由を、全く必要としていない、神社の神やお寺の仏様に当たり前に手を合わせる、ありがちな日本人であるからでしょう。
八百万の神という多様性、初期の仏教がどのようなものであったかは私が不勉強故に知らないのですが、仏様の在り方もまた多様で、インドの神様を天部などに取り込んでいたりします。
そういう、多様性の共存や、モノにさえ魂が宿るという感覚が当たり前で、そうでないのは息苦しいのだと思います。
……というのが、漠然とした理由なのですが、本質的に
無理!その思考回路は絶対に無理!!理解不能!!!
と叫んだ理由がありまして。
それはまさに、クリスマスというやつなのでございます。
Merry Christmas ! と人々が陽気に叫ぶアレです。
ここで使われる Merry は、特に捻りもせずに『陽気な・浮かれた・楽しい』という意味です。
その辺が、私には違和感でした。
イエス・キリストは、自らをユダヤの王・神の子等と詐称したという罪で囚われの身となり、王冠ではなく茨の冠を被せられ、棘のついた鞭で打たれ、処刑場に至る道のりでは人々に石を投げられ、そして十字架に磔にされて死んだ…という、悲劇の人です。
イエス・キリストは、彼が愛した人間たちに殺されたのです。
Stabat Mater(スターバト・マーテル)という宗教曲があるのですが、これは『母が立っていた』という意味で、タイトルであると同時に、歌詞の冒頭でもあります。
Stabat mater dolorosa 悲しみの母は立っていた
iuxta Crucem lacrimosa, 十字架の傍らに、涙にくれ
dum pendebat Filius. 御子が架けられているその間
その後に続く歌詞も、マリアというひとりの母親の、胸が張り裂けんばかりの悲しみが続きます。
こんな死に方をした人が、生まれたとされた日、それがクリスマスです。
なのに、そんな人のお誕生日に、何故にうかれまくって、楽しく Merry Christmas ! なの!?
キリスト教徒は、全員脳味噌が誤作動してるのか!?
夫:『どうせ復活したんだから、いいんだよ』
……は い?
ちょっと待て。今、何つった???
私:『生き返ったから、死んだのは別にオッケーで、Merry Christmas ! なのかよ!』←思わず叫ぶ
夫:『そうなんじゃない?』←けろっと、サラッと
私:『そーゆーもん!?』
夫:『死んだのは一時的なことで、しかも死ぬことで人間の罪を背負ってくれたっていうありがたいことで、また神として天に上っていったんだから、無問題なんだよ』
夫が通っていた幼稚園は、キリスト教の教えについてはかなり厳格で、サンタはいないとか、無邪気な幼児がショックのあまりにギャン泣きしそうなことを、容赦無く教えてくれた幼稚園です。
そこで育った夫が言うんだから、多分本当にそうなんでしょう……
そう。
唯一絶対の神が、死ぬ訳がない。
三位一体であるからして、人間として生まれたイエス・キリストは、神の子であると同時に、そもそもが神なのです。
でも。
私には、そこが理解不能なのです。
どうしても、共感出来ない。
仮の姿とは言え、人ひとりが、拷問を受けた末に磔にされて、死んだのに。その十字架の下に母マリアは立ち尽くし、涙を流したのに。
なのに、その非道い人間の仕打ちは、生き返ったら帳消しだというのか?
奇跡だ、救い主だと浮かれ、その誕生の日は、Merry Christmas なのか?
その時、私は心から思ったのです。きっと私には、一生理解不能だと。
あれほど宗教曲を誠心誠意歌った私だけれども、絶対にキリスト教徒にはなれないと。
尤も、敬虔なキリスト教徒は、クリスマスイブには厳粛なミサに出席し、お祭り騒ぎとは無縁のようですが。
私は毎年、家族でクリスマスケーキだけは頂く、年が明けたら初詣に行く、ありがちな日本人のままでいたいのです。
…というと、「?」と思う人も結構いらっしゃると思うのですが、
クリスマスイブ=クリスマスの夜でございます。
ユダヤやローマや教会の暦が、日没から1日が始まるということで、24日没~25日没まで、がクリスマス当日となります。
日没は、地平線(水平線)の彼方に陽が落ちたら、と私は思っていたのですが、一番星が見えたら説もあるようです。
私は、案外キリスト教に縁があります。
例えば、夫とは宗教曲(当然にキリスト教の)を歌う合唱団と出会ったのですし、3人の子供たちは全員キリスト教系の幼稚園にお世話になったのですし、そもそも夫自身もキリスト教系の幼稚園出身(子供たちとは違う園)だったりします。
合唱団では、ミサ曲その他、これでもかと歌わされましたので(歌わされた、とウッカリ書く程度に、厳しい合唱団だった)、当然に、ラテン語の読み方、歌うときの発音、それ以上にもっと大切なこととして、その歌詞に込められた意味も教わりました。
最大限に、その曲に込められた意味を、心を、歌ってきたつもりです。
つもり、というのは、結局は私が、キリスト教の唯一なる絶対神に縋る理由を、全く必要としていない、神社の神やお寺の仏様に当たり前に手を合わせる、ありがちな日本人であるからでしょう。
八百万の神という多様性、初期の仏教がどのようなものであったかは私が不勉強故に知らないのですが、仏様の在り方もまた多様で、インドの神様を天部などに取り込んでいたりします。
そういう、多様性の共存や、モノにさえ魂が宿るという感覚が当たり前で、そうでないのは息苦しいのだと思います。
……というのが、漠然とした理由なのですが、本質的に
無理!その思考回路は絶対に無理!!理解不能!!!
と叫んだ理由がありまして。
それはまさに、クリスマスというやつなのでございます。
Merry Christmas ! と人々が陽気に叫ぶアレです。
ここで使われる Merry は、特に捻りもせずに『陽気な・浮かれた・楽しい』という意味です。
その辺が、私には違和感でした。
イエス・キリストは、自らをユダヤの王・神の子等と詐称したという罪で囚われの身となり、王冠ではなく茨の冠を被せられ、棘のついた鞭で打たれ、処刑場に至る道のりでは人々に石を投げられ、そして十字架に磔にされて死んだ…という、悲劇の人です。
イエス・キリストは、彼が愛した人間たちに殺されたのです。
Stabat Mater(スターバト・マーテル)という宗教曲があるのですが、これは『母が立っていた』という意味で、タイトルであると同時に、歌詞の冒頭でもあります。
Stabat mater dolorosa 悲しみの母は立っていた
iuxta Crucem lacrimosa, 十字架の傍らに、涙にくれ
dum pendebat Filius. 御子が架けられているその間
その後に続く歌詞も、マリアというひとりの母親の、胸が張り裂けんばかりの悲しみが続きます。
こんな死に方をした人が、生まれたとされた日、それがクリスマスです。
なのに、そんな人のお誕生日に、何故にうかれまくって、楽しく Merry Christmas ! なの!?
キリスト教徒は、全員脳味噌が誤作動してるのか!?
夫:『どうせ復活したんだから、いいんだよ』
……は い?
ちょっと待て。今、何つった???
私:『生き返ったから、死んだのは別にオッケーで、Merry Christmas ! なのかよ!』←思わず叫ぶ
夫:『そうなんじゃない?』←けろっと、サラッと
私:『そーゆーもん!?』
夫:『死んだのは一時的なことで、しかも死ぬことで人間の罪を背負ってくれたっていうありがたいことで、また神として天に上っていったんだから、無問題なんだよ』
夫が通っていた幼稚園は、キリスト教の教えについてはかなり厳格で、サンタはいないとか、無邪気な幼児がショックのあまりにギャン泣きしそうなことを、容赦無く教えてくれた幼稚園です。
そこで育った夫が言うんだから、多分本当にそうなんでしょう……
そう。
唯一絶対の神が、死ぬ訳がない。
三位一体であるからして、人間として生まれたイエス・キリストは、神の子であると同時に、そもそもが神なのです。
でも。
私には、そこが理解不能なのです。
どうしても、共感出来ない。
仮の姿とは言え、人ひとりが、拷問を受けた末に磔にされて、死んだのに。その十字架の下に母マリアは立ち尽くし、涙を流したのに。
なのに、その非道い人間の仕打ちは、生き返ったら帳消しだというのか?
奇跡だ、救い主だと浮かれ、その誕生の日は、Merry Christmas なのか?
その時、私は心から思ったのです。きっと私には、一生理解不能だと。
あれほど宗教曲を誠心誠意歌った私だけれども、絶対にキリスト教徒にはなれないと。
尤も、敬虔なキリスト教徒は、クリスマスイブには厳粛なミサに出席し、お祭り騒ぎとは無縁のようですが。
私は毎年、家族でクリスマスケーキだけは頂く、年が明けたら初詣に行く、ありがちな日本人のままでいたいのです。
