fc2ブログ
2019. 11. 30  
私は、数多くの公務を行っていて下さる秋篠宮家に敬意を表し、日本の象徴たる皇統は皇嗣殿下から御子様の悠仁さまに繋がることを願い、今日はお祝いの言葉のみにさせて頂きます。

秋篠宮皇嗣殿下、54歳のお誕生日おめでとうございます。




2019. 11. 29  
もうこれ、故意に検索に引っ掛からないように権力が介入しているんじゃないかと思うくらい、なかなか出て来ないんですよね…

実は、現・上皇陛下以前に、もうひとり《平成天皇》がおわした、ということを。

国宝『石川年足墓誌』という銅板に、その旨記されています。
国宝ですよ?国宝
なのに、不自然なくらい、検索上位に出て来ない。……何コレ。この記事消される?私が消されたりしてな…

その名の通り、石川年足(いしかわのとしたり、688~762)の墓に納められていたものでした。
お墓が発見されたのは、江戸時代後期の文政3年(1820)。
中央貴族とは言え、奈良時代に活躍しそして没した人ですから、そのお墓も長い時間の経過と共に忘れられ、やっと江戸時代に発見されたのでしょう。木炭で囲われた木箱の中に、埋葬された人物について記した金銅板製の「墓誌」と人骨が納めてあったと伝えられています。

原文が見つからなかったので、yahoo知恵袋の蘇我氏に関するアンサーから書き下し文を抜粋しますが、

「武内宿禰の子、蘇我石川宿祢命の十世の孫にあたる従三位伍行左大弁石川石足の長子である御史大夫正三位兼行神祇狛・年足は、平成宮御宇天皇(淳仁天皇)の世、天平宝字六年(762)9月1日に75歳で、平城京の邸宅において亡くなった。
12月1日、摂津国嶋上郡白髪郷の酒垂山に墓をつくり葬る。儀形は百代、冠蓋は千年。
あたりは荒寂として松柏煙を含む。ああ、哀しいかな。」

つまり、もうひとりの平成天皇=第47代天皇・淳仁天皇

何だよ、淳仁天皇じゃん。平成天皇じゃないじゃん、と思われた方。
『△△宮御宇天皇』は『~のみやにあめのしたしらしめししすめらみこと』(長!)と読み、天皇の呼び方のひとつなんです。
にたようなものでは『△△宮治天下天皇』という呼称もあります。

例:天武天皇
『近江宮御宇天皇』、『近江宮治天下天皇』、『近江大津宮御宇天皇』、『近江大津宮御宇大倭根子天皇』
…とまあ、どんだけ褒めちぎりたいのかと。

ちなみに『天武天皇』は漢風諡号というもので、『淳仁天皇』もそうです。
淳仁天皇という呼び方の他に、『平成宮御宇天皇』という追号があるということです。

そして、淳仁天皇と追号したのは、なんと明治天皇であらせられる。

明治!?ちょっと待て、淳仁天皇って奈良時代の天皇でしょ!?
…って思いますよね。つまり、明治天皇が追号するまで、正史にまともな諡号が記されなかったという事です。まともじゃない諡号ならありました。

淡路廃帝(あわじはいたい)

すげぇ貶め方です。
この名を付けたのは、銅鏡に現を抜かした超絶悪女(不敬ですねすみません棒読み)孝謙上皇(天皇)=重祚して称徳天皇

銅鏡の件で苦言を呈した淳仁天皇に大激怒の逆ギレをして、淳仁天皇を淡路に配流(そして称徳と重祚)。淳仁天皇はそこで病死、とのことですが、当然に暗殺と見られます。

淳仁天皇は、苦言を呈したのもご自身の意志ではなく、実権を握っていた藤原仲麻呂の進言によるもので、さほど権力欲もな温和な人物だったようです。
人望もあったのか、或いは単に称徳天皇の治世がダメダメだったのか(銅鏡を法王>宗教的には天皇より上の位を与えちゃった)、配流されてからも復帰を望む貴族が淡路を訪れていたとのことです。(だから暗殺…)

が、配流やら左遷やらさせられた高貴な人は怨霊になるのがお約束。
何か悪い事が起こると、後ろめたい時の権力者(祟られる覚えが有る)はめっちゃ供養したり祀ったり、のちに追号して天皇の系譜に加えたりするのです。

淳仁天皇の没後も、飢饉で民が軍を興すやら、淡路の上空が暗くなって尋常ならざる暴風雨やら、周囲の人々が廃帝の祟りと震え上がることがあったのですけれども、悪女は気が強かった
或いは温和な淳仁天皇の人柄を、よく知っていたのか。
実際、淳仁天皇は、淡路に配流されても何の恨みも憎しみも残すことなく、身罷られたのですから…

悪びれずに廃帝と呼び続け、明治天皇の治世に至るまで、淡路廃帝のままだったのです。

明治天皇が、慈愛に溢れた名君だった…のかは、私は存じませんが、相当数の《怨霊》と言われた方、或いは不遇な最期を遂げた方の名誉を回復し、尊く祀り、慰霊していらっしゃいます。
明治天皇は、将軍家からやっと権力を取り戻し、新体制の日本を作ろうとした御方ですから、今後に呪いや祟りといった憂いを残さぬように万全の対策を取るという、為政者としての責務と心得たのかもしれません。

斯くして、正史では『淡路廃帝』或いは単に『廃帝』と呼ばれ、歴代天皇の数にも入れられなかった悲劇の天皇は、『淳仁天皇』という漢風諡号で以て、《第47代天皇》に列されたのです。(当然に、後の代の順番は数字がずれました)

その淳仁天皇が、正史には残らずとも《平成宮御宇天皇》と追号されていた。

これが判明したのが、江戸時代。
国宝指定が昭和27年。

昭和天皇や、こちら方面の識者が、《平成宮御宇天皇》を知らなかったとは、とても思えないのですが?

知っていたはずなのに、昭和天皇が吐血し容体が悪化した1988年(昭和63年)9月には、元号は最終候補の3案に絞り込まれていた。そして、昭和の次の元号に平成を選んだ。

《平成宮御宇天皇》と、モロかぶりする平成を。

現在の皇室・天皇に、政治的な権利はありません。
決定するのは内閣であり、案を練るのは集められた識者達の会議であって、そこに現・上皇陛下の意志は反映されなかった…ということになっています。

平成は元号であると同時に、上皇陛下が崩御されたならば、平成天皇という諡号になるというのに。
何の意図を以て、誰が、《平成》を選んだのですか…?


2019. 11. 28  
伊達政宗が築いた城下町・仙台。
その城下町が、結界に守られた街って、御存知でしたか?

とにかく、こちらの本をお読み下さい!
25年にも及ぶ、稲辺勲氏の研究結果が記されています。
一個人の考察と謙虚でいらっしゃいますが、長い間地道に研究を続けた、とても偶然とは思えない素晴らしい発見だと思います。

部数残りわずかということですので、お早めにお求め下さい!(通販です)
再発行はしないそうで、本当に惜しまれます…

なお、2011年発行の旧版『星の街仙台』は、青葉神社(政宗公が祀られています)にありまして、私は何年も前に《何となく久しぶりにお参りがしたくなって》青葉神社に参拝した折に入手致しました。

講演会やブログは続いていらっしゃいますし、FBもありますので、ご覧下さい。
HPはこちらになります!


2019. 11. 27  
私は絵描きなので、何作か神様の絵を描いたことがあります。
お名前を存じている神様の絵もありますし、特にどの神様というわけではないのですが、インスピレーションしたお姿を描いたこともあります。

インスピレーションというのは、絵描きには特別に霊的なものではありません。文筆家でも音楽家でも、インスピレーションが無いと作品は生まれないんですから。
エジソン曰く、

Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.
天才とは、1%のひらめきと99%の汗である。(汗は努力と訳されることが多い)

つまり、1%の inspiration が無いと、99%の努力は無駄 ってことです。
※ 巷で言われている美談ではなかったらしいこの名言。

そのくらい、初めのアイデアがコケていると、いくら技があっても後が続かない。
インスピレーションが湧かない創作家は、何も出来ない。

私も、心惹かれるスセリヒメ様の絵を描きたい!と何度となく思ったのに、このインスピレーションの壁に阻まれました。

私の画風は、穏やかなものが殆どです。
悲しみや怒り、苦しみといったものをテーマにすることは、99.9%、無いです。
過去に、涙を伝わせて祈る乙女像を描いたことがありましたが、私が込めた想いはタイトル通りに祈りであり、涙による浄化、そして描いた私からの救済の願いでした。

今の私は、夫に救われ結婚してからは幸福に暮らしておりますが、幼い子供の頃から人を憎んだり恨んだり、その激しい怒りを原動力にしなければ命を繋ぐことが出来なかった半生を送ってきました。
その怒りは、私の視界が真っ赤に染まるようで、呪う私の心は真っ黒でした。

でも、その《赤》と《黒》を知っている私だからこそ、私は透き通るような祈りと救済を、あたたかい光のような絵を描きたい。
滅ぼされた出雲王朝の、最も高貴な女性であったスセリヒメ様の絵も、スサノオ様が『すがすがし』と仰ったような、誇り高くも清々しい、大らかに澄んだ女神様の絵にしたかったのです。

なのに、何度描こうとしても、描けない。
スセリヒメ様の美しい微笑が、私に届かないのです。

私の中に浮かぶイメージは《赤》……
けぶる《赤》の向こうに、スセリヒメ様のイメージが、ぼやけてしまう。

だから、私はインスピレーションに頼らずに、『このように笑っていて下さいますように』という願いを絵に描くことにしました。
スセリヒメは、オオナムチの危機に、『ヒレ』という不思議な布を持たせて彼の命を助けています。
ヒレとは、天女の羽衣のような、あんなかんじのものであるらしいです。
スセリヒメ様は、優れた巫女でもあったのでしょう。

スセリヒメ様の若き日を描こうと、私は羽衣を纏って微笑む姫神のラフ(下描きの前の大雑把なアイデア図)を描き始めました。
鉛筆で描きながら、色は青系を基調にしようと思いました。
清涼な《青》という色は、私が絵を描くときにはよく使う色で(身に着けるものに青系が多い訳ではない)、お気に入りの青系の絵の具はガンガン無くなります。

スサノオ様がすがすがしいと言った国。
古代においては、陸には整備された道がある訳でもなく、海路がメインでした。
私は出雲を訪れたことはありませんけれども、きっとスサノオ様やスセリヒメ様が臨んだ海も、きっと美しかっただろうと。

私が、その女神を描きながらふと思ったのは、『この女神様は…水神?』

出雲の水の女神と言えば、大歳神の妃神・天知迦流美豆比売でしょうか。
アマシルチカルミズヒメ、と読まれていることが多いですが、アマ《チカル》ミズヒメという説もあって、私は後者の呼び方が好きで、だからこのブログのIDも、chikaruなのですが…

私が、今自分が描いている女神は、水の女神様のようだ…と思った、その瞬間でした。
ビリビリッと、大きく紙が裂けたのは。

驚いて、茫然とすらしました。
ラフ画は、水彩紙ではなく安いコピー用紙を使うので、薄いですからたまに消しゴムの力加減を間違えて、小さくビリッと破けることはあるのですが、こんなに大きく、絵の中央が一気に裂けたことは、初めてでした。

まるで、スセリヒメ様が、それは私ではない!と叫んだかのように……

チカルヒメは、スセリヒメ様の兄である大歳様の妻神様ですから、お嫌いではないと思います。
でも、今日になってふと気付いたのです。

スセリヒメ様が憎んだ、出雲大社にあっては、スセリヒメよりも丁重に、オオクニヌシの妻神として祀られているタギリヒメ……彼女は、水神です。

タギリヒメは出雲王朝を滅ぼした一族ですから、私がタギリヒメを描く訳がありません。
でも、私は破れてしまったとは言え、優しい波動を持つこの水の姫神の絵もまた、何かの意味があるはずだと思って、後日また続きを描いてみようと思います。

そして、スセリヒメ様が、どのような女神として描かれるのを望んでいらっしゃるのか、私が絵描きとしてスセリヒメ様にして差し上げられることはないかと、もういちど考えようと思いました。

違う、とおっしゃるのなら、スセリヒメ様のお心に叶う絵が、ほかにあるということです。
その時を、待とうと思います。
スセリヒメ様が私に下さるインスピレーションから完成する絵が、きっと一番美しいのですから。


2019. 11. 26  
おどろおどろしい話が続いてしまったので、明るい話題で行きたいと思います。

私は先日(11/23)『ズバリ、イザナギとイザナミは離婚したのか?』というタイトルで、離婚していないという答えを出したのですが、その記事で述べた理由以外にも、リアリティのある理由があるんです。

という訳で、タイトルの《二柱神社》
ふたはしらじんじゃ、と読みます。イザナギ・イザナミ夫妻をお祀りする神社です。

結論は先に。良縁に霊験あらたかでいらっしゃいます。

この神社、こぢんまりとした神社で、かつてはそんなに流行っていた(?)わけではないのですが、昔は初詣と言えばとにかくでっかい有名どころがよい的な時代から、自宅近くの氏神(?)様にお参りを……という流れの時代になり、そして以前は田舎だったこの辺りも、近くに地下鉄が通るようになってマンションが建ち並んだりして、お参りする人が増えて、金銭的にも潤ったと見えて社務所も綺麗に新しくなりました。

そして、上記の良縁がご利益ありだよ!…という噂が立ったのは、もう、20年以上前かなあ?記憶が曖昧ですが、当時のJKの間で、
『二柱神社のブレスレットをつけたら恋が叶った!!』
と言われ始めたことがきっかけとされています。

そのブレスレットというのは、実は当時は特に恋愛仕様ではなく、魔除けか厄除けの御守りとして売られていたパワストブレスだったので、何故にJKが買ってみたのか理由は謎なんですけど。
緑とピンクの2色が有って、多分ピンクの方がローズクォーツ(恋愛向きのパワスト)辺りで、それで買ったのかも知れませんね。

では、私の実体験=縁結びが叶ったお話を。

私はこちらで、2度『誠実な再婚相手と巡り会って、幸せになりますように』という願い事をしています。
私がバツ2で再婚とかいう懲りない話じゃないです。(私は現在の夫と恋愛中からずっと誠実な恋人→妻をやっています)

10年以上前になりますか…
私には、姐さんと慕う年上の友達がいまして、彼女はDV夫から逃れてふたりの子供を連れて実家に避難するも、元々実の母親との仲は円満でなく、肩身の狭い思いをしていました。
離婚が成立し、彼女には恋人が出来ましたが、その男は独身状態を謳歌するタイプで結婚には至らず破局という流れ。

今は20代で結婚すると早いね!などと言われ、バツイチでもないのに独身アラフォー女が婚活しあわよくば子供も欲しいとかいう時代ですが、私や彼女は『30歳は中年』という昭和の価値観を子供時代に刷り込まれている世代。
彼女も、自分の年齢や連れ子がいることなどを理由に、もう再婚する機会なんて訪れないと、溜め息混じりに諦めた口調で言うのでした。

そこで私が思いだしたのが、二柱神社
小雪の舞う、寒い日でございました…1月だったでしょうか、2月だったでしょうか。私は神社に誠心誠意参拝し、絵馬も奉納しました。

そして、彼女は年内のうちに新彼氏が出来て、再婚しました。

いや、すげえぇぇぇ!!と驚きましたね。拝みに行った私が言うのも何ですが、まじ奇跡!と思いました。
彼女の子ども達は難しいお年頃だったのですけれども、新しい父親によく懐いて、私は心から一家を祝福しました。

そして、再婚成就秘話その2、行きます。
やはり、この友人も、元からパワハラ夫なのに、中学生の子供がいる40代の女に迫り倒されて不倫という、話を聞いた私が遠い目になる泥沼離婚。

彼女は子供もなく、やはり30代後半でしたので、再婚なんて無理、私は独り身のまま孤独死するんだ……などと言って、幸福の全てを諦めていました。
が。かつて二柱神社から奇跡を頂いていたワタクシ、また神社に走りましたよね。

同じように、真摯に祈って絵馬を書きました。
今度は2年近くかかりましたけれども、男性と出会う機会のない彼女に、婚活中の男性を紹介してくれる人がいて、彼は大層彼女を気に入って、ほどなく結婚に至りました。

声を大にして言おう。
二柱神社すごい!!

そして、恋愛&結婚だけじゃないところもすごい。
例えば、不登校のお子さんがいたり、子育てに悩む親御さんが、二柱神社を訪れ、次々に救われていくのだそうです。

私も、長男が、小学校で担任教師主導のイジメという、悲惨且つ許し難き事態に陥ったとき、二柱神社を頼り、今度はご祈祷をして頂きました。
その後、その担任教師は教頭と校長からガッチリ絞られ、長男は中学受験に成功して学区内のいじめっ子との縁もスッパリ切れました。

子育て相談も二柱神社にどうぞ!!
良縁についてなのか子育てについてなのか、全国からご祈祷を希望する方がいらっしゃるそうなので、お悩みの方は是非。
仙台は、新幹線に乗れば東京から2時間かからない、案外便利な場所にありますので。

ただし。
これは書いておかなければならない後日譚がございます。

再婚成就した友人のうちひとりは、その後離婚しました。
私はこれを、イザナギ・イザナミ夫妻神の所為だと思ったことは、一度たりともありません。

この記事を読んで下さった皆さんに、心から伝えたいと思います。

神様は、真摯に祈り願えば、幸福に繋がる機会を下さいます。
神様が授けて下さった幸福を、御縁を維持したりもっと大きく育てられるかは、人間次第であるという自由も一緒に神様は許して下さっているのです。

※ かく言う私も、友達からプレゼントされたパワストで彼氏が出来たものの、マンネリ感が出て来た辺りで別の女に心変わりされたことがある…

ありきたりの言葉ですが、日々感謝の心を忘れずに生きていきましょう。
感謝出来ることそのものが、幸福なことなのですから。


2019. 11. 26  
魏志倭人伝、といえば邪馬台国と卑弥呼。
今日はこちら(詳しい考察をなさっておいでです)から一部の原文と日本語訳を引用させて頂きました。

~原文~
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

~書き下し文~
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。」

~私なりのざっくり訳~
『その国は、元は男の王だったけど、7、80年前に分裂して長い戦争状態が続いた末に、ひとりの女性を共通の王としてまとまることにした。女王の名は卑弥呼。卑弥呼は呪術を使って国民を操った。既におばあちゃんなお年頃。独身だが弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見た者は少なく、婢千人をその身辺に侍らせ、ただ一人の男子が食事を届け、女王の言葉を伝えるのに居処に出入りした。宮殿の卑弥呼の居室・物見櫓・城柵が厳重に設けられ、つねに兵士が守衛していた。』(おしまい)

えぇと、所々太文字にしたの、気付きましたでしょうか?
卑弥呼には弟がいて、政治の補佐をしていたとのことですが、卑弥呼は『お告げをする』のが役割であって、その姿を人前に現すことはないという事は、実際に政治をしていたのは、『男弟』です。

……おかしい、よね?
下女が千人も居るのに、卑弥呼に食事を届けるのは、男子ひとりだけ。
この男子は、卑弥呼の言葉を伝える為に卑弥呼の居場所に出入りしていた、ということから、その唯一の男子は『男弟』に特定されます。
そして、(多分卑弥呼に誰も近付けないように)周囲は厳重に守護させていた。

……おかしい、よね?

っていうか、ズバリ言おうか。

これ…卑弥呼死んでるよね?

だって、相当ばあさんだっていうのに、千人も居る下女に世話をさせることもなく、実際の卑弥呼を知るのは男弟のみ。

長く内乱が続いた末に、わざわざ男ではなく女の王を立てた、ということは、巫女の力に頼ったということで、だから弟は王になれないんです。
なりたくても、なれないんですよコレ。

おい…男弟。

お前のねーちゃんもっと前に死んでただろ。


2019. 11. 25  
天孫族が、出雲に攻め入ったのは、古事記によると、高天原に住む天照大御神が「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」と言ったことに端を発していて、要するに私には意味不明です。

だって、葦原中国を栄えさせたのは、スサノオ様からオオクニヌシに引き継がれた、出雲一族じゃないですか。何でアマテラスの子のものという発想に?
父・イザナギに、お前は天を治めなさいと言われたんだから、おとなしく高天原を治めていればいいのに、地上まで欲しいってジャイアンか。

とにかく、現在残されている神話は天皇家の正当性を暗に語りたい訳ですから、歴史的にはどうして神武帝に繋がる一族が、出雲王朝に攻め入ったのか?
単に露骨に勢力範囲を広げたかったのか、或いは大国主の覇権を引き継ぐ《大義名分》があって攻め入ったのか?

よく出て来るのが、出雲大社に大国主の妻神として、スセリヒメよりも堂々と祀られている(スセリヒメはすぐそばにほかの姫神も祀られている)タギリヒメが、《大国主の末子》=事代主を産んでいたから、というものですね。

でも、この話ってどっから来たんだろう?コトシロヌシの母って、神屋楯比売命(『古事記』)か、高津姫神(『先代旧事本紀』)なんですけど。
後者のタカツヒメ(?)なら、タギツヒメの別名であるらしいんですけど。タギリヒメ(別名タゴリヒメ)じゃない……
その辺すっ飛ばしますが、その末子とされるコトシロヌシって、本当に天孫サイドなのか?っていうのが、疑問なんです。

神話では、《国譲り》を迫られたオオクニヌシは、自分には決められないから息子に聞いてくれ、と答えます。
そりゃ、神話の中ではオオクニヌシはひとりしかいない=スセリヒメの婿です。
王はオオクニヌシでも、出雲の正当な継承者はスセリヒメであって、婿の一存ではいわかりましたと言える訳がない。出雲はスセリヒメもしくは、次の《出雲の末子》のものなんですから。

そして、オオクニヌシ言うところの息子というのが、コトシロヌシです。
なんと、神武帝の皇后・媛蹈韛五十鈴媛命の父、ということになっています。
この辺りから、天孫サイドに産まれた、オオクニヌシの末子、という説が出てくるのでしょう。

でも…
ちょっと、待って?

コトシロヌシは、国譲りを迫られて、
「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。(wikiより引用)

天の逆手(あまのさかて)って、よく知られているのが、死人がやるって言う、掌じゃなくて手の甲で拍手するやつです。
指先が下説もあるし、古事記では後ろ手に手を打つパターンもあるそうです。
かなり不吉です。

反対の説としては、
栄手(さかて)で、栄えあれと繁栄を祈るというもの。めでたい時に打つ手打ち(手締め) を意味するという解釈です。(一本締めとか三本締めとか)

でも、後者の説を此処で取るのは苦しい。
神仏に関して、逆の動作をするっていうのは、呪いなんですよ……

しかも、コトシロヌシは《隠れてしまった》。

これ…絶対、死んでるでしょ…
亡くなることを、お隠れになるって言うアレでしょ…
文面からだと海に入水自殺だけど、自殺でも他殺でも、とにかくコレ死んでる。
逆手を打って呪って死んだんだよ…((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

そして、「大国主」が名前ではなく称号であるように、「事代主」もそうなのだと思います。
宣託の神。
人間の場合は、シャーマンの要素があったり、祭祀に関わる者の称号もしくは役職名なのでしょう。

一番はじめに国を譲れと脅迫(多分)されたことから、このエピソードのコトシロヌシが末子だというのなら、出雲王朝サイドの末子(古事記での母神は、素性の知れない謎の女神なので、天津神系ではないんじゃないか)の可能性が高いです。

大国主の出雲での息子はもうひとりいて、建御名方神(タケミナカタ)といい、実在の人物であったなら武将であり、出雲を渡すまいと戦争になるも敗走し、現在は諏訪大社に祀られています。
有名な神社の有名な神様なのに、日本書紀にその名はありません。コトシロヌシが承諾し、『隠れて』終わりです。

日本書紀の記述は、《国譲り》に関してはアッサリとしています。
でも、古事記のコトシロヌシは、おとなしく『承諾した』けれども、逆手を打って、呪って隠れた……

媛蹈韛五十鈴媛命の父・コトシロヌシは、出雲のコトシロヌシとは別人。

出雲の正統な継承者・コトシロヌシは、

呪って死んだのではないですか…?


2019. 11. 24  
「オオクニヌシと名乗っていたのは5~6人いたんじゃないかなあ」(水木しげる先生)

…であって欲しい、その方が私に都合がいい、それはスセリヒメの為、と先日書きました。

つまり、もしスセリヒメと恋愛結婚をした《大国主その1》と、出雲を滅ぼした一族の姫=タギリヒメに『末子』を産ませた説がある《大国主その2》が、別人であったとしたら?

世代が異なり、スセリヒメは『正妻でありながら夫と祖国を奪われた妃神』、ではなくなる、ということです。

よく知られている、オオナムチと駆け落ちをしたスセリヒメは、ヤガミヒメが怖がって子供だけ置いて逃げ去り、大国主(オオナムチ)まで逃げたくなるほど嫉妬深かった、と貶められていますが、一夫多妻に否定的な、一途で気位の高い奥さんではあったのでしょう。

私は、憎み呪うスセリヒメとシンクロした、という体験をひとつ前の記事で書きましたが、上記の考察が当たっているとなると、私の心霊体験は本当のスセリヒメ様とは無関係だった、ことになります。

私は、それでもいいんです。私の望みは、スセリヒメ様の魂が、幸福に安らっていてくれることなのですから。

出雲王朝が滅ぼされた(国譲り、なんてあってたまるか。戦争を仕掛けてきたのに決まっている)頃には、偉大なるスセリヒメは子孫に位を譲っていただろうし、或いは身罷っていたかもしれない。
そうであっても、出雲を守ってきた祖霊神として、滅ぼした国のタギリヒメは、許し難き憎い女ではありましょうが、リアルタイムで夫と祖国をダブルで奪われるよりは、幾分ましです。

ただ、気になる問題が、もうひとつあります。それは、
スセリヒメも複数人存在していた可能性、です。

『先代旧事本紀』では須世理姫、『出雲国風土記』では和加須世理比売命、と一貫した呼び方です。
でも、古事記では、須勢理毘売命、須勢理毘売、須世理毘売、と3つの名が存在するのです。

おそらく『須勢理毘売命』と『須勢理毘売』は、末尾にミコトを付けたか付けなかったかで大差無い=同一だと思いますが、問題は

『須勢理毘売』と『須世理毘売』が別人だとしたら?

黒澤一功氏が大国主は5人説を唱えていますが、同時に『須勢理毘売』と『須世理毘売』が別人とも読んでいて、母子ほど歳が違う、と断じています。
黒澤氏はとにかく出雲の王も大国主も邪馬台国も卑弥呼も全部朝鮮王族説なので、全面的に信じると日本の神話や古代史の枠から外れてしまうのですが、スセリヒメ複数説は、日本の中にもあるのです。

つまり、スサノオの8人の子供は誰か、ということです。
こちらの記事からの引用になりますが、

~出雲国風土記~
(スセリヒメ以外は記紀に登場しない)

青幡佐久佐日古命(アオハタサクサヒコ): 意宇郡大草郷(八重垣神社)、大原郡高朝山 。
都留支日子命(ツルギヒコ): 島根郡山口郷 (布自伎美神社)。
国忍別命(クニオシワケ):島根郡方結郷 (方結神社)。
磐坂日子命(イワサカヒコ): 秋鹿郡恵曇郷(恵曇神社)。
衝桙等乎而留比古命(ツキホコトオルヒコ): 秋鹿郡多太郷 (多太神社)。
八野若日女命(ヤノノワカヒメ): 出雲郡八野郷(八野神社)。
和加須世理比売命(ワカスセリヒメ):神門郡滑狭郷(那売佐神社)

~八坂神社の八柱御子神~
(全て記紀に登場する)

八島篠見神(やしまじぬみのかみ)
五十猛神(いたけるのかみ)
大屋比売神(おおやひめのかみ)
抓津比売神(つまつひめのかみ)
大年神(おおとしのかみ)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
大屋毘古神(おおやびこのかみ)
須勢理毘売命(すせりびめのみこと)

……という訳で。
『和加須世理比売命』と『須勢理毘売命』がもし別神だとすると、ひとりも一致しないという凄まじい謎が発生してしまうのです。

何かもう…遠い目です……
私は学者じゃないし、東北住まいで出雲も京都も遠くて、神社巡りも無理ですし。

果たして『スセリヒメ』は、何人いらっしゃるのでしょうか。
そして、その御霊は安らかでいらっしゃるのでしょうか。

どなたか、何か御存知の方、メッセージを頂けたなら幸いです。


2019. 11. 24  
私は、自分のことを特に霊能者だとは思いません。
普通の人でも、『ちょっと不思議な体験』くらいはするでしょう?

正夢とか、枕元に亡くなった親類縁者が立ったとか、心霊スポットで見てしまったとか、全くありませんという人もいるかも知れませんが、この程度の事なら誰にでも有り得ることであって、私もそんな一般人だという事です。

そんな私が、スセリヒメ様という姫神が、どうにもこうにも気掛かりで仕方がない、この女神様は《特別に》気になって、心を痛めてしまう。
夫の不実と祖国の喪失という悲劇を、どれほど無念に思ったのかと思うと、本当にこの誇り高き女神が不憫でならない。

……という、ほかの人に話せば「それ神話でしょ?」と呆れられそうな状況に陥ってしまったのです。
そんなある日、夢を見ました。

スセリヒメの夢です。…と言っておきますが、今でも夢だったのか現実だったのかよくわからない、あまりにも鮮烈な出来事でした。

スセリヒメ様の言葉が伝わってきました。でも、声ではありませんでした。思念でそう解ったというか…
というのは、私は憑依されたかのように、ほぼ彼女とシンクロしている状態だったからです。

(あなたなら、わかるでしょう)
(憎い)
(あの女が、憎い)

わかるも何も、私は彼女と心を共有していて、私の心は今までの人生で経験したことが無いほどの、業火のように激しい怒りを感じていました。
狂気のようでいて、狂うことすら許されない現実を、目の当たりにするしかなかった苦しみ。
嫉妬と、認めたくない敗北感。
《裏切られた》絶望。
なのに絶望のままではいられなかった、恨み。呪い。

私は、その心に自分自身が呵まれながら、愕然としました。
こんな苦しみが、悲しみが、憎しみが、この世にはあったのか。

彼女は、あの女が…と言っていましたが、言葉にならずとも、胸の内にどす黒い炎のように渦巻いていた嫉妬の中には、確かに《私を裏切った夫》に対する愛憎、《私から夫を奪った女》に対する、凄まじい憎悪を感じました。

これは、出雲の後継者という政治的な誇りよりも、《ひとりの女性としての心》だったように思います。

彼女とのシンクロは、この時1回だけで、それ以外に彼女から何かメッセージをもらったことは、10年ありません。

そして、このような霊的体験をしたときには、注意深く、謙虚でならなければならないと、私は思っています。

つまり、『私は神である』と言って現れた存在が、本当に神なのかどうか、あなたには確実に判断することが出来るのですか?ということです。(彼女は名乗りませんでしたが。ただ私がその時スセリヒメ様だと思ったのです)
神仏は、信じる者の前にしかその姿を現さない存在であると同時に、たかが人間の前に本当に現れるのは、非常に稀な存在でもあります。

だから、私は心を寄せたスセリヒメ様が、その胸の内を私と分かち合う形で、とてもリアルに体験させてくれたという可能性を胸に抱きつつ、ひょっとしたらその辺に漂っていた女の霊が、スセリヒメを気に掛ける私に引き寄せられてきて、悪夢のような嫉妬と憎悪に引き摺り込んだだけかもしれない、という一抹の疑いもまた、持っていなければならないのです。

疑うことは、本当に私を頼って下さったスセリヒメ様を傷付けてしまったのかもしれないと心を痛めつつも、私は霊的に高い能力を持つ特殊な人間ではないという立場をわきまえて、《神の名を語るもの》を即座に信じるのは傲慢であり危険だということも、忘れてはならないと思います。

ただ、私の中に、ひとつの感情が残されました。

タギリヒメに対する憎しみです。
タギリヒメ・タギリビメ・多紀理毘売……

この名を見ると、凄まじい憎悪を覚えるのです。
許せない。私はこの女だけは許せない、と。

スセリヒメ様が許せないと思うのも、タギリヒメを大嫌いだと思うのは、ごもっともなことです。
なのに、何故《私が》、憎らしい、許せない、と思うのかが、わからない……

スセリヒメ様が、私の心の中に、ご自身の心の欠片を残していかれたのでしょうか。
だとすると、まだスセリヒメ様の御霊は救われずに苦しんだままだという可能性が残されます。

今、スセリヒメ様の魂は、何処にどのようなお心でいらっしゃるのでしょうか。


2019. 11. 24  
いや、封印された女神なら瀬織津姫でしょ!!
と言われそうですが、これだけメジャーになってしまったら封印も何も無いのでは?

確かに、私が10年以上前に日本の神話・古代史・神社・祝詞といった分野にむやみにのめり込んでいた時期、瀬織津姫はマイナー中のマイナーな女神様でした。
書籍も3冊しかなかった。(円空と瀬織津姫・上下巻、エミシの国の女神)

『神職が一番はじめに覚える《大祓詞》に、昔から堂々と記されていた女神で、神主なら誰でも知っている。どの辺封印されてたって言うんだ!』
という反論を見かけたことがありますが、逆に言えば神職くらいしか知らなかったんですよね。

昔はどうだったか知りませんが、神社でご祈祷を受けるときに唱えられるのは大が抜けた《祓詞》という短い祝詞で、一般人は《大祓詞》という祝詞の中でも最大パワーの祝詞の中身なんて知らなかったのだし、広く日本全国の神社で祀られていた瀬織津姫の名が、時の権力者の命令で別神に取り替えられて、それは明治まで続いたという異様。

一体、瀬織津姫とはどういう存在なのか?
権力者達は、一体何を知っていて、何を隠している?

多くの考察がありますが、謎のまま。
でも、今はかなり多くの人が瀬織津姫に関心や信仰を寄せているのですから、私は瀬織津姫を好きですけれど、さほど心配はしていないのです。

…と言う訳で、表題の『封印された女神・スセリヒメ』

『古事記』では須勢理毘売命、須勢理毘売、須世理毘売、
『先代旧事本紀』では須世理姫、
『出雲国風土記』では和加須世理比売命(わかすせりひめ)

スサノオの娘で、末っ子。出雲は末子相続であった(というか、日本に留まらずアジアのあちこちでそうだった)ので、出雲王朝(敢えて王朝と主張したい)の正当な継承者

女性であっても、末子であれば継承者。
ただし、女性である場合は、婿を取ってその婿を王に立てる模様です。
でなければ、スセリヒメの婿に過ぎないオオナムチが、『大国主』という偉大な王の称号を手にすることが出来るはずがない。
スサノオも、クシナダヒメを正妻として娶り、王になっています。(クシナダヒメも、8人姉妹の末娘)

スセリヒメは、濁点が付いてスセリビメなのかもしれませんが、古代の発音がどうであるのか私は知らないので、スセリヒメと呼ばせて頂きます。

スセリヒメ……すせりひめ。何と美しい名前でしょうか!
名は体を表すとばかりに、彼女はそれは美しい姫であったそうです。

一夫多妻制の時代だというのに、嫉妬の過ぎる女の誹りを受けていますが、私はその非難を跳ね返したい。
だって、彼女は出雲王朝の正統な後継者なのですから。
スサノオの娘だというだけで既に高貴な姫であるのに、スセリヒメは女王に匹敵する姫なのです。

オオクニヌシがよそに出掛けていって作った現地妻とは、格が違う!
…のに、オオクニヌシがスセリヒメを十分に大切にしていなければ、屈辱の怒りを露わにするのも当然です。

ほかに現地妻or妾を作っても、クシナダヒメを大切にし、仲睦まじくしていたとみられるヒーロー・スサノオ様を見習って欲しいものです。
…見習って、欲しかった。という、あまりにも遠い過去形。

私は、スセリヒメの魂が、今でも苦しんだままなのではないかと、ずっと気掛かりなのです。
夫はあちこちに現地妻を作りまくり、その現地妻・タギリヒメの国が出雲の継承権ありと難癖をつけて攻め入ってきた。───そして、出雲王朝は、滅ぼされた。

スセリヒメが、どれほど悲しんだのか、どれ程怒り恨んだのか。
死してもなお、出雲大社に大国主の妃として、出雲を滅ぼした国の現地妻・タギリヒメと共に祀られているという屈辱。

ほかの神社でも、オオクニヌシはスセリヒメではなく、タギリヒメと一緒に祀られていることが多いのだそうです。
こんな屈辱が、残酷が、許されるのか。

少なくとも、私は許せないのです。
今、スセリヒメの魂が、心安らかに救われている……という確信を得るその日まで。

タイトルに、《封印された女神》と書きました。
スセリヒメは、出雲の正統な継承者にしてオオクニヌシの正妃であるというのに、母神が誰であるのか、子供を設けることが出来たのかさえ不明…というよりも、伝承がないので子は産めなかったと考える人も多いようです。

でも、私は誰か判らなくとも母神が存在するように、《意図的に書かれなかった》だけで、子供もいたのではないかと思います。


プロフィール

chikaru414

Author:chikaru414
日本の神話と神社仏閣、それにまつわる歴史が好きです。
スサノオ様、スセリヒメ様はじめ出雲の神様と水神様推し。
ホlツlマlツタヱ・富l家l伝承・徐l福l伝l承・日lユl同l祖l論・アlイlヌl先l住l民族説お断り。

定義山西方寺を崇敬。秋篠宮家と伊達政宗公を尊敬する伊達家家臣末裔です。
透明水彩絵師。

↓応援ぽちっとよろしくお願いします!

FC2 ブログランキング

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキング

リンク
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR