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2020. 06. 17  
※ 今回も、【皇室】カテゴリではなく、【祟り・呪い】のカテゴリに分類致します。

※ 今回が最終回となります。

※ 前回、前々回に引き続き申し上げますが、私は昭和帝・香淳皇后陛下・上皇后陛下には敬意を寄せておりますが、正І田І美І智І子氏・今上І徳І仁・小І和І田І雅І子氏には、払う敬意を持ち合わせていませんので、美І智І子ファン、今上夫妻ファンの方は読まないことをお勧めします。

※ 注意喚起しましたので、以下を読んで気分が悪くなっても、当方は一切の責任を負いませんので、重ねて読まないことをお勧めします。

大丈夫な方は、《続きを読む》からどうぞ。

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2020. 06. 16  
※ 今回も、【皇室】カテゴリではなく、【祟り・呪い】のカテゴリに分類致します。

※ 前回に引き続き申し上げますが、私は昭和帝・香淳皇后陛下・上皇后陛下には敬意を寄せておりますが、正І田І美І智І子氏・今上І徳І仁・小І和І田І雅І子氏には、払う敬意を持ち合わせていませんので、美І智І子ファン、今上夫妻ファンの方は読まないことをお勧めします。

※ 注意喚起しましたので、以下を読んで気分が悪くなっても、当方は一切の責任を負いませんので、重ねて読まないことをお勧めします。

大丈夫な方は、《続きを読む》からどうぞ。

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2020. 06. 15  
※ 【皇室】カテゴリとどちらにしようか迷いましたが、【祟り・呪い】のカテゴリに分類致します。

※ 私は、昭和帝・香淳皇后陛下・上皇后陛下には敬意を寄せておりますが、正І田І美І智І子氏・今上І徳І仁・小І和І田І雅І子氏には、払う敬意を持ち合わせていませんので、美І智І子ファン、今上夫妻ファンの方は読まないことをお勧めします。

※ 注意喚起しましたので、以下を読んで気分が悪くなっても、当方は一切の責任を負いませんので、重ねて読まないことをお勧めします。


大丈夫な方は、《続きを読む》からどうぞ。
2020. 02. 27  
仁明天皇は、『明仁』の逆。

でも、これは呪いではない、と私は断言できます。
じゃあ何か?

多分、『偶然』です。

昭和帝の皇后・良子様はなかなか男子の御子に恵まれず、大正天皇が廃した側室の制度を復活して親王を設けるべきだ、という動きは実際にあったのです。

でも、昭和帝は良子様おひとりを大切になさり、「私には弟たちがいるから気にすることはない」と良子様を労り、側室を取りませんでした。
(その昭和帝も、まさかその弟たちの血統が全て途絶えることになるとは、その時には思っていなかったことでしょう)

そんな昭和帝と良子皇后の間に生まれてきたのが、明仁親王(当時)です。

称号は繼宮(つぐのみや)、お印は榮(えい)
これだけで、どれほど昭和帝がお喜びであったのか解るというものです。

(えい)の意味がわからず調べたのですが、栄えるの『栄』の旧字体(つまり本来の字)です。

お印の意味としては、『草花が盛んに茂る様子』を表し、『榮』という漢字をそのままにデザインされ、他の皇族方のような具体的な植物の名やデザインではないのです。

まさに天皇彌榮(すめらぎいやさか)なのです。

それほど我が子の誕生を喜んだ昭和天皇が、『明仁』という名を呪って付ける訳がありません。
いにしえに、『火明』(ほあかり)が日の明かりを指し、それが太陽の意味であったように、日本の国を太陽のように照らすすめらぎであれと、『明』の字を選んだのだと私は思うのです。

最大級の祝福の名が『繼宮明仁』であったのは、疑いようもないことです。

だから、偶然なのです。
昭和帝が、いずれ皇位を継ぐはずの孫に『徳仁』といういわく付きの名付けをした、という事以外は。

…否、理由は、『本Ӏ当ӀのӀ孫ӀでӀはӀなӀい』と昭和帝が思っていたから、なのでしょう。

『徳仁』の次に『文仁』が続き、1200年ほど前に『文徳天皇』という、徳と文が逆さまの不遇な天皇がいらっしゃり、その先代が仁明天皇であった、ということは、偶然です。…多分

多分、とさっきから私の歯切れが悪いのは、仮に、昭和帝がそこまで読んで、『徳仁』の次に生まれた男児の名を『文仁』に定めて、皇統を文仁親王の子孫に移そうとしたのであれば、それはかなり周到な呪であるからです。

でも、偶然でいいんですよ。どうせ同じことなのですから。

こんな言葉があります。

偶然の重なりを、必然と呼ぶ。

例えばタロットカードの占いは、その考えの基に成立している一種の呪術です。

やはり、『徳仁』の名は、祭祀も簡略化され周囲はスパイだらけだった昭和帝が、これだけは自らの意志で仕掛けることが出来た『呪』なのだと、私は思っています。

『徳』の呪が、文徳天皇のように望んだ跡継ぎを立太子させることは叶わなかった運命につながりその血統が女児で途絶えたのと同じように、その断絶が本来の天皇である『文』を呼び、天皇家の血統は徳仁という皇太子・『宮』(とうぐう)から移ろい、『篠宮』に引き継がれる。

このような《偶然》が連続したのであれば、それは天の意志です。

天の意志に逆らった時、…つまり、愛子さまを天皇に担ぎ、女性天皇容認から女系天皇へと、日本が愚かな選択をした時には、この国を守った2000年の祈りもまた、終焉を迎えるのです。

今上陛下、雅子妃、愛子さまを天皇にするのは諦めなさいませ
ただでさえ祭祀という祈りを疎かにしてきたあなた方は、本気でこの国を滅ぼすおつもりか。
2020. 02. 26  
その、文徳天皇とはどういう御方か。

827年生誕- 858年崩御。31歳(32歳ともいわれる)と、若くして亡くなった方です。
病弱で、会議等にもあまり出席できなかったと言われていますが、本当でしょうか?私は、怪しいと思っているんですけど。

何故なら、文徳天皇は、外戚(自らの祖父にして、第四皇子を産んだ后の父)の藤原良房の専横に、抵抗していたからです。
文徳天皇は、寵愛していた更衣・紀静子が産んだ第一皇子・惟喬親王を皇太子にと望んだのですが、良房の娘・明子が産んだ第四皇子・惟仁親王、(のちの清和天皇)が立太子することになってしまいました。

その後も良房との暗闘は続きますが、突然の病に倒れ、4日後に崩御。
脳卒中というのがどうして通説なのか、私には医学的なことはわかりかねますが、死に際の急変ぶりに、良房による暗殺説もあります。

天皇位にありながら、良房の圧力の前に、内裏の外れにある東宮や嵯峨上皇の離宮だった冷然院などに居住して、遂に一度も、内裏正殿を居住の間として生活を送ることはありませんでした。

そんな不遇な一生を送り、短い命を終えた天皇に贈られたのが、『文徳天皇』という『徳』が付く諡号です。

文と徳の組み合わせは、逆さまである上に、あまり縁起が良くないようだなぁ……くらいに私は思っていたのですが、さいごにWikipediaのページを開いてみた時に、

あまりの偶然に、ゾクリとしたのです。

だって、文徳天皇の一代前で実父でもある御方の名は、

仁明天皇。

徳仁・文仁兄弟の父・現在の上皇陛下の諱は、『明仁』という、仁明天皇の逆さま、なのです。

(つづく)
プロフィール

chikaru414

Author:chikaru414
日本の神話と神社仏閣、それにまつわる歴史が好きです。
スサノオ様、スセリヒメ様はじめ出雲の神様と水神様推し。
定義山西方寺を崇敬。伊達政宗公を尊敬する伊達家家臣末裔です。透明水彩絵師。

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