2021.
01.
27
大津いじめ訴訟の判決は、「被害生徒を支えられなかった両親の過失」を指摘して、一審での賠償額を約1/10にして確定しました。
私は、この判決は非常に不当であり理不尽だと思っていますが、今回タイトルに入れた「我が子を支えられなかった親に罪があるのか?」に関しては、「ある」と思っています。
誤解無きように言い直しますが、両親が別居するなど(その「など」の部分に当たる詳細を私は知りませんが)被害者を支える家庭環境を整えていなかったのは、親の力不足であり身勝手であるという点で「罪はある」と思いますが、自殺の直接的な原因は執拗且つ凄惨な暴力(いじめ、という実に軽い言葉の実態)であって、そもそも
加害少年らが暴力を振るわなければ被害者は自殺などしなかった。
のであって、《この事件》の裁判で両親の過失を加害少年らの罪の相殺の理由にするのは甚だしい理不尽だと断言します。
両親の過失については、非常に難しい問題だとも思います。
何故なら、真っ当な家庭で育った子供でも、親に何ら相談することなく命を絶つ事はあり得るからです。
また、子供が親に打ち明けて、親が子供を守るために尽力してもなお、自殺は有り得るのです。
上記太字にした2パターンのどちらも、結果的に『親は子供を守れなかった』のであり、結果的には力不足であった、ということです。
でも、私はそのことで責める人間になりたくはありません。きっと、お子さんを自死で亡くした親御さんが一番、「どうして守り切ってやれなかったのか」と自責して苦しんでいらっしゃるでしょうに、赤の他人が更に打ちのめす必要が何処にあるというのでしょうか?
もし、大津いじめ訴訟の事件で被害者となった少年が、投身自殺を試みるも一命を取り留めていたなら、
両親「どうして自殺しようなんて思ったの!?どうして頼ってくれなかったの!?」
少年「だって、お父さんもお母さんも、僕を助けてくれなかったじゃないか!!」
という事になったかもしれません。
或いは、自死を選択するほどの人間ならば、既に全てを諦めていて、理由を問われても黙秘するかもしれません。
でも、私も人の子の親のひとりですから、《子供の頃の視点》と《親としての視点》の両方を持っています。
だから、子供が不満に思うような親でも、親なりに一所懸命であった、または短い時期でも努力をした時期がある、という構図はこの世界にはありふれたものだと言うことも知っています。
私の親は、私を日常的に殴る蹴るする典型的な毒親でしたが、彼らは私を愛そうとした形跡はあるのに、不幸にもそれを全うする能力が欠如していました。
例えて言うなら、頑張って勉強しても赤点とか、頑張ってレベルの高い大学に合格するも付いていけなくて中退とかいう感じでしょうか。
私は、今でも自分の親の暴力を赦しては居ませんが、彼らの無能については憐れだと思っていますし、仕方の無いことだったと思います。
そんな劣悪環境で育ち、初めて自殺を考えたのが7歳で、結果的に自殺にならず未遂で3回救急車に乗った私の実感ですが、人間は、『自分で自分を支える気力体力があるうちは』、または自力では崩れ落ちてしまっても『誰かが自分の命を繋ぎ止める力を持っているうちは』、自殺などしません。
逆に言えば、『自分で精一杯頑張ってもダメ』で、『周囲の人間が全力で支えても力が及ばなかった』場合は、誰もが一所懸命だったのに死んでしまうのです。
それほどに、
殴る蹴るなどの物理的な暴力や、誹謗中傷などの精神的な暴力の力は、本当に、忌々しいほどに、あまりにも大きい。
だから、加害者の罪よりも被害生徒の親の過失を裁いた今回の判決は、残酷であり理不尽なのです。
もし、大切な人を自死で失った方がこの記事を読んでいたなら、お願いします。
どうか、もうご自分を責めないで下さい。
精一杯力を尽くしても届かないということも、報われないことも、この世界にはたくさんあるのです。
誰の所為でなくても、悲劇が起こることも、あるのです。
守り切れなかったとしても、あなたがそのひとを愛した事実は、決して無駄なことではなく、消えてしまうこともないのです。
だから、
遺された方々に、どうか救いがありますように。
この世界を去った御魂が、どうか安らかでありますように。
私は、この判決は非常に不当であり理不尽だと思っていますが、今回タイトルに入れた「我が子を支えられなかった親に罪があるのか?」に関しては、「ある」と思っています。
誤解無きように言い直しますが、両親が別居するなど(その「など」の部分に当たる詳細を私は知りませんが)被害者を支える家庭環境を整えていなかったのは、親の力不足であり身勝手であるという点で「罪はある」と思いますが、自殺の直接的な原因は執拗且つ凄惨な暴力(いじめ、という実に軽い言葉の実態)であって、そもそも
加害少年らが暴力を振るわなければ被害者は自殺などしなかった。
のであって、《この事件》の裁判で両親の過失を加害少年らの罪の相殺の理由にするのは甚だしい理不尽だと断言します。
両親の過失については、非常に難しい問題だとも思います。
何故なら、真っ当な家庭で育った子供でも、親に何ら相談することなく命を絶つ事はあり得るからです。
また、子供が親に打ち明けて、親が子供を守るために尽力してもなお、自殺は有り得るのです。
上記太字にした2パターンのどちらも、結果的に『親は子供を守れなかった』のであり、結果的には力不足であった、ということです。
でも、私はそのことで責める人間になりたくはありません。きっと、お子さんを自死で亡くした親御さんが一番、「どうして守り切ってやれなかったのか」と自責して苦しんでいらっしゃるでしょうに、赤の他人が更に打ちのめす必要が何処にあるというのでしょうか?
もし、大津いじめ訴訟の事件で被害者となった少年が、投身自殺を試みるも一命を取り留めていたなら、
両親「どうして自殺しようなんて思ったの!?どうして頼ってくれなかったの!?」
少年「だって、お父さんもお母さんも、僕を助けてくれなかったじゃないか!!」
という事になったかもしれません。
或いは、自死を選択するほどの人間ならば、既に全てを諦めていて、理由を問われても黙秘するかもしれません。
でも、私も人の子の親のひとりですから、《子供の頃の視点》と《親としての視点》の両方を持っています。
だから、子供が不満に思うような親でも、親なりに一所懸命であった、または短い時期でも努力をした時期がある、という構図はこの世界にはありふれたものだと言うことも知っています。
私の親は、私を日常的に殴る蹴るする典型的な毒親でしたが、彼らは私を愛そうとした形跡はあるのに、不幸にもそれを全うする能力が欠如していました。
例えて言うなら、頑張って勉強しても赤点とか、頑張ってレベルの高い大学に合格するも付いていけなくて中退とかいう感じでしょうか。
私は、今でも自分の親の暴力を赦しては居ませんが、彼らの無能については憐れだと思っていますし、仕方の無いことだったと思います。
そんな劣悪環境で育ち、初めて自殺を考えたのが7歳で、結果的に自殺にならず未遂で3回救急車に乗った私の実感ですが、人間は、『自分で自分を支える気力体力があるうちは』、または自力では崩れ落ちてしまっても『誰かが自分の命を繋ぎ止める力を持っているうちは』、自殺などしません。
逆に言えば、『自分で精一杯頑張ってもダメ』で、『周囲の人間が全力で支えても力が及ばなかった』場合は、誰もが一所懸命だったのに死んでしまうのです。
それほどに、
殴る蹴るなどの物理的な暴力や、誹謗中傷などの精神的な暴力の力は、本当に、忌々しいほどに、あまりにも大きい。
だから、加害者の罪よりも被害生徒の親の過失を裁いた今回の判決は、残酷であり理不尽なのです。
もし、大切な人を自死で失った方がこの記事を読んでいたなら、お願いします。
どうか、もうご自分を責めないで下さい。
精一杯力を尽くしても届かないということも、報われないことも、この世界にはたくさんあるのです。
誰の所為でなくても、悲劇が起こることも、あるのです。
守り切れなかったとしても、あなたがそのひとを愛した事実は、決して無駄なことではなく、消えてしまうこともないのです。
だから、
遺された方々に、どうか救いがありますように。
この世界を去った御魂が、どうか安らかでありますように。

2021.
01.
26
先日の、大津いじめ訴訟の最高裁判決は、裁判官には人の血が通ってないのかと思うほど、人間の命を軽んじる判決でした。
ネットのニュース記事よりも、ヤフーニュースにコメントしていた前田恒彦氏(元特捜部主任検事)が、この事件と裁判の全体像を解りやすくまとめていたので、以下に引用します。
(以下引用)
同級生3名から手足を縛られ、口を粘着テープで塞がれ、トイレなどで殴られ、口にハチの死骸を乗せられるなど数々の被害を受けてきた中学2年の男子生徒が、自宅マンションから飛び降り、自殺した事件です。
学校側は何ら適切な対応をせず、担任教師も「あまりやりすぎるなよ」と黙殺し、学校・教育委員会ともども様々な隠ぺい工作に走り、加害者に至っては「単なる遊びの一環で、いじめに当たるとは思っていなかった」と弁解しました。
遺族が加害者3名を刑事告訴しようとしたものの、警察は受理を渋りました。家庭裁判所の審判も、ほかの被害者に対する暴行事件などと合わせてようやく2名が保護観察となっただけで、1名は処分なしで終わっています。
2012年に遺族が民事訴訟を提起した理由は、わが子が自殺に追い込まれた真相を知り、誠意ある謝罪の言葉を聞きたかったからでした。しかし、遺族の思いは、いまだ実現されていない状況です。
(引用終了)
そして、賠償金額については、共同通信のQ&Aによると、
Q.二審はどんな判決だった?
A.大阪高裁は(被害者の)両親にも過失があったと認め、一審判決の賠償額約3750円を約10分の1の400万円に減額し、元同級生2人に計約400万円の支払いを命じた。
…という情報をふまえ、私なりに要約すると、
1.いじめ、という軽い言葉で片付けられた数々の暴力行為の末に自死した13歳中学生に対する責任について、加害者は400万円を2人で分割して計200万円を支払えばチャラ。
2.一審で4000万円近かった賠償額を二審は1/10にした=自殺した13歳少年を支えられなかったその両親の過失として、最高裁もそれを支持した。
という、遺族を責めて加害者を擁護する理不尽に身の毛がよだつような判決で確定した、ということです。
何だ。これは。
子供の自殺は親の責任なのか?
確かに、自殺した子の両親は別居しており、家庭環境は凡そ良いとは言えなかった。
しかし。それでも。
これからも長く生きていける人生があったはずの、たったの13歳の少年が死んだ。なのに息子を失った両親を責めて、散々暴力を振るってそこまで追い込んだ加害者の罪の重さは相殺されて、少年の命の値段は400万円だと言うのか?
親が別居していたところで、いじめ(嗚呼心底イヤだこの軽い言葉)が無ければ、いたいけな少年は死なずに済んだのに。
例え間接的にでも、
この少年を殺したのは誰だ?
バカでもわかる。殺したのは3人の塵野郎(うちひとりは加害認定されなかった)であって、両親ではないことくらい。
未成年だろうが社会の塵(ゴミ)と呼んでいい、こんな人間は。
加害少年は、転校先でもやらかしており、自分の暴力が人ひとりの命を奪った事に対して、反省の心などひとかけらも持ち合わせていない。
日本の社会は、こんな人でなしを《保護》する方を優先するのか。
子供の自殺に親の責任を問うのか。
私は、この最高裁の判決に怒りを覚えると共に、判例として今後踏襲される可能性を、非常に危惧しています。
こんな判決は、二度とあってはなりません。
ネットのニュース記事よりも、ヤフーニュースにコメントしていた前田恒彦氏(元特捜部主任検事)が、この事件と裁判の全体像を解りやすくまとめていたので、以下に引用します。
(以下引用)
同級生3名から手足を縛られ、口を粘着テープで塞がれ、トイレなどで殴られ、口にハチの死骸を乗せられるなど数々の被害を受けてきた中学2年の男子生徒が、自宅マンションから飛び降り、自殺した事件です。
学校側は何ら適切な対応をせず、担任教師も「あまりやりすぎるなよ」と黙殺し、学校・教育委員会ともども様々な隠ぺい工作に走り、加害者に至っては「単なる遊びの一環で、いじめに当たるとは思っていなかった」と弁解しました。
遺族が加害者3名を刑事告訴しようとしたものの、警察は受理を渋りました。家庭裁判所の審判も、ほかの被害者に対する暴行事件などと合わせてようやく2名が保護観察となっただけで、1名は処分なしで終わっています。
2012年に遺族が民事訴訟を提起した理由は、わが子が自殺に追い込まれた真相を知り、誠意ある謝罪の言葉を聞きたかったからでした。しかし、遺族の思いは、いまだ実現されていない状況です。
(引用終了)
そして、賠償金額については、共同通信のQ&Aによると、
Q.二審はどんな判決だった?
A.大阪高裁は(被害者の)両親にも過失があったと認め、一審判決の賠償額約3750円を約10分の1の400万円に減額し、元同級生2人に計約400万円の支払いを命じた。
…という情報をふまえ、私なりに要約すると、
1.いじめ、という軽い言葉で片付けられた数々の暴力行為の末に自死した13歳中学生に対する責任について、加害者は400万円を2人で分割して計200万円を支払えばチャラ。
2.一審で4000万円近かった賠償額を二審は1/10にした=自殺した13歳少年を支えられなかったその両親の過失として、最高裁もそれを支持した。
という、遺族を責めて加害者を擁護する理不尽に身の毛がよだつような判決で確定した、ということです。
何だ。これは。
子供の自殺は親の責任なのか?
確かに、自殺した子の両親は別居しており、家庭環境は凡そ良いとは言えなかった。
しかし。それでも。
これからも長く生きていける人生があったはずの、たったの13歳の少年が死んだ。なのに息子を失った両親を責めて、散々暴力を振るってそこまで追い込んだ加害者の罪の重さは相殺されて、少年の命の値段は400万円だと言うのか?
親が別居していたところで、いじめ(嗚呼心底イヤだこの軽い言葉)が無ければ、いたいけな少年は死なずに済んだのに。
例え間接的にでも、
この少年を殺したのは誰だ?
バカでもわかる。殺したのは3人の塵野郎(うちひとりは加害認定されなかった)であって、両親ではないことくらい。
未成年だろうが社会の塵(ゴミ)と呼んでいい、こんな人間は。
加害少年は、転校先でもやらかしており、自分の暴力が人ひとりの命を奪った事に対して、反省の心などひとかけらも持ち合わせていない。
日本の社会は、こんな人でなしを《保護》する方を優先するのか。
子供の自殺に親の責任を問うのか。
私は、この最高裁の判決に怒りを覚えると共に、判例として今後踏襲される可能性を、非常に危惧しています。
こんな判決は、二度とあってはなりません。
