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2020. 07. 06  
私の不勉強故、それが太平洋側や瀬戸内海辺りもそうなのか否かはわかりませんが、でも確実に出雲近辺の海辺の人達には、海から浜に流れ着いたものを神聖視する信仰があります。

よく知られているのは、セグロウミヘビでしょうか。
少量の毒で人が死ぬほど物騒な蛇であるのに、邪悪な分類にはならず出雲大社では神の使いとされているほどです。

少なくとも、山陰~富山辺りまでは、北東の風(北風を含む場合もある)を『アイ(ノカゼ)』『アユ(ノカゼ)』等と呼び、豊漁をもたらす風の名前として、主に老年層の漁師たちに残されています。

『アイノカゼ』は、万葉集に詳しい人なら、御存知かもしれません。
奈良から越に赴いた大伴家持が、越国の『アイノカゼ』という言葉を、東風と勘違いして、5文字で歌に使うには語呂が良かったものですから、越のゆかしいことばとして気に入り、誤用のまま広まっちゃった言葉なんですね。

デジタル大辞典によると、

日本海沿岸で、沖から吹く夏のそよ風。あい。あゆ。あえのかぜ。《季 夏》

と、現代まで伝わって、間違った意味のまま現代まで夏の季語として伝えられているというのは、残念と言うよりほかありません。
実際には、

朝から吹く強い北東風で、その日は漁に向いていないが夜には収まり、翌日には

浜・浜近くの海=『ナダ』

には沢山の海藻や貝が打ち寄せられていて、魚も沢山集まってきていて大漁になる風として歓迎されている風の名前なのです。

この『アユ』『アイ』、その他変化した発音で呼ばれている風によって、日本海側には様々なものが打ち上げられる。

古代、身近なものにいちいち神を見出していた日本人ですが、一方で神はどこから来てどこへ帰るのか、という問いに対しては、『天』そして『遠い海の向こう=常世の国』という答えを持っていました。

だから、オオモノヌシは海を照らしながらやって来たのだし、スクナヒコナは海の向こうの常世の国に帰ったのだし、赤貝・蛤はオオナムチを蘇生させたキサカイヒメ・ウムカイヒメ(ウムギヒメ)という女神として信仰されていたのです。

出雲風土記にも、特産品として海の幸が沢山挙げられています。
ひょとしたら、《ケ(食)の神》としてのスサノオの神性は農耕神ではなく、始まりは海の幸の神だったのかもしれない、と私は思います。

古事記ではスサノオに殺された豊穣の女神・オオゲツヒメも、日本書紀で似たようなストーリーでツクヨミに殺されたウケモチも、ひり出したり吐き出したりした食べ物は、農作物に限らず、海の幸も含まれました。
ですから、食の神だから農耕神、という捉え方は軽率だったかもしれないと、自分でも反省するところです。

とすると、スサノオの御子神であるオオトシとウカノミタマは同じ母神から生まれた兄弟(or兄妹?)ですが、オオトシの《トシ》は実りを意味する言葉なので、こちらは高確率で農耕神ですが、ウカノミタマは対を成して海の幸の神であったかもしれません。

古事記にしろ日本書紀にしろ、内陸の人々の発想で編纂された書物です。
日本は、四方八方を海に囲まれた島国であるのに、その事を失念し、数多くの海の民の感性を置き去りにした解釈をしてきたのではないか、と思います。

そして、『アイ』『アユ』という風を指す言葉ですが、鳥取・島根に最も多く残っているサンプルを得られたのに、出雲地方以西には殆ど見られない言葉であることから、出雲の勢力である海の民が古代に使っていた言葉が、北上して広がった古語であると推測できます。

それほどまでに、出雲は海の民の国だった、ということです。

スサノオが、海の食の神の顔をもっているのならば、その妃神・クシナダヒメも、その食が打ち寄せられる、或いは漁師の船が持ち帰る『ナダ』という名を持つ《海の豊穣の女神》だったのではないかと思うのです。

(つづく)
2020. 07. 05  
今回の記事は、カテゴリ分けにとても悩みました。
無難に?神話のレベルで【神様】カテゴリにするか。古代史の記事として【歴史】にするか。

迷った末に、【歴史】カテゴリにして、遙かな昔、出雲には、《クシナダヒメ》のモデルになった女王がいた、というお話をすることにしました。

だって、私は《古代神話は日本の古代史を反映している派》ですから。

スサノオ様も、スセリヒメ様も、実在したんですから!!

ただし、複数人
と、私は思っています。
例えば、ヤマタノオロチで考えると解りやすいです。条件を並べますが、

毎年越からやって来る
八頭八尾のばかでっかい蛇っぽいやつで
目はホオズキのように赤く腹もただれて赤く
毎年ひとりずつ娘を食らう


これ、全部クリアしなきゃならないと思うから、諸説分かれる上に纏まった結論にならないんだと思います。

私は、全部を一度に全部をクリアする必要は無い、と思っています。

つまり、答えは複数ある。

私の考えるヤマトノオロチの原形は、斐伊川です。
高台から見る斐伊川は、何股にも分かれて流れ、ヤマトノオロチとは斐伊川の化身以外の何ものでもない、と現地に暮らす人に言われると重みが違います。

昔から斐伊川は、生活用水、灌漑用水、水運等々、様々に活用されていて、出雲風土記には斐伊川の恵みばかり書かれていますが、実はかなりの暴れ川でした。
何度濁流に飲まれても、何度生活の場が流されても、出雲の人々は斐伊川と共に生き続けた。

大いなる恵みの川の神の裏の顔、それがヤマタノオロチの原形なのだと思います。

そう。原形です。

ヤマタノオロチの正体については、越の豪族が攻めてきた説、毎年実りの季節に越から盗賊団がやって来る説、タタラ製鉄によって川に流出する赤い土砂説。
色々あるんですが、

どれも正解かもしれないですよ?

斐伊川が暴れ川なのは、土砂災害で杉林が崩れたと老年層が語る程度に今でもある程度その性質はあるようですが、平野が広く稲作が進んでいた越の方が灌漑技術が進んでいて仕事に来ていた説が在る一方で、出雲が越の人々の植民地だった説もありますので、何らかのいざこざはあったことでしょう。

でも、越から何かが攻めてきた、というのと、タタラ製鉄による赤い川、というのは、それぞれ時間軸が違うと思うのです。
古墳時代には確実にタタラ製鉄が始まっていて、タタラ製鉄が出雲で盛んになる時には、力関係は 出雲>越だったでしょうから。

多分、神話は長く語り継がれるうちに、どんどん新しい要素が上書きされるのだと思います。
出雲国風土記にて、オオクニヌシが越の八口を平定してきた、とサラッと書かれている程度に、越には平定する理由のある何かがあった(少なくともオオクニヌシにとっては)のでしょうし。

※ タタラ製鉄は、遺跡として残りにくい(そこで製鉄が終わるとぶっ壊して移動するらしい)のですが、弥生時代の『鉄製品の加工場』跡は見つかっているので、実はタタラ製鉄ももっと昔まで遡れるかもしれません。発掘が待たれます。

時代と共に、新しい要素が加わって、複雑な神話になってゆく。
ヤマタノオロチ神話にもそういう性質があって、スサノオと呼ばれる英雄も海神・太陽神・農耕神・食の神、と多彩な顔を持ち、スセリヒメも何代にも渡って十種神宝の比礼を受け継いだ巫女姫の像が重なっている。
そのように、私は思っています。

だから。

スサノオ様のお妃、クシナダヒメ様もそうであろうと思い立ったのです。

私は何となく、言い易いので櫛名田比売(クシナダヒメ)様と呼ばせて頂いておりますが、奇稲田姫(クシナダヒメ)という表記と発音もあるのは、当然に知っています。

古代は二重に続く母音は省略される傾向にあり、だから

kushiinada → kushnada

と変化したものであり、名田/ナダ は、稲田/イナダ の略であろうという説に、納得していました。
クシナダヒメ様が、稲田の姫神であり、アシナヅチ・テナヅチ夫妻神は昔の有力豪族を象徴しており、8人姉妹の末娘のクシナダヒメが、末子相続の後継者であり、斐伊川の神に仕え稲田の豊饒を祈る巫女でもあり、その神格化と重なったのだろうと、疑った事もありませんでした。

……《アユノカゼの文化史》という本で、漁労を営む出雲の老年層の人々が、港・浜・浜に近い海を『ナダ』と呼ぶ事を知るまでは。

(つづく)
2020. 07. 01  
私は、日本神話には実際の古代史が反映されている派なので、今回は【歴史】カテゴリの記事として書くことにしました。

私が以前から気付いていたのは、スサノオ、クシナダヒメ、スセリヒメ、オオナムチが、全員末子、だという事です。

末子相続は、別に出雲に限らず広く存在した風習です。
長じた者は外に出て行き独立し、残った末子が跡を継ぐ、ということです。

実は、天津神サイドも、途中から末子相続です。

女神アマテラス(長女)→ アメノホヒ(五皇子の長男とされているが、いっぺんに生まれたっぽいので不明)→ ニニギ(ひとりっ子or次男で推定末子)→ ホオリ(別名ヒコホデミミは、何故か神武帝と同名。3~4兄弟の末子)→ ウガヤフキアエズ(ひとりっ子)→ 神武帝 (4兄弟の末子

という具合なのです。
そして、その配偶者もまた、

女神アマテラス:夫無し。しかし誓約でごまかされる程度に、スサノオ(末子)と姉弟なのは嘘で、実はスサノオの妻のひとりであったかもしれない。その場合、スサノオの正妻・クシナダヒメがスサノオと出会った頃はまだ童女(古事記。日本書紀では少女)というかなり年若い妻であったことから、スサノオの末子(後継者)はクシナダヒメの子であり、女神アマテラスの子は庶子(つまり傍系)である可能性が高い

アメノホヒ:正妻(?)は、タクハタチヂヒメ。タカミムスヒ神の娘or孫。或いはオモイカネ神の妹。誕生順は不明。

ニニギ:正妻(?)は、カムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ)。父のオオヤマツミはかなり子沢山だが、アタという薩摩西部の地名を冠しており、イワナガヒメ・コノハナチルヒメと3姉妹の末の妹であり、アタ地方の跡取り娘=末子と思われる。

ヒコホデミミ:正妻(?)はトヨタマヒメ。父は竜宮に住まうワタツミ神。タマ=玉=真珠説を取れば、豊かな玉に神霊が依り憑く巫女ということになり、山幸彦=陸地(農耕)の権力者が海の民と婚姻したとも取れる。トヨタマヒメには妹がいるので、末子ではない。

ウガヤフキアエズ:正妻(?)はタマヨリヒメ。この名を持つ女神は多数見受けられ、神霊が依る巫女という属性を持つ女性を広く指す呼称かもしれない。このタマヨリヒメは、ワタツミ神の娘で、トヨタマヒメの妹(つまりウガヤフキアエズの叔母)なのだが、ウガヤフキアエズと結婚し子を設ける。タマヨリヒメはワタツミの四兄妹の末子で跡取り娘であったと思われ、神武帝の系譜は、二代続けて海の民と婚姻し絆を深めただけではなく、末子の姫を妻とすることで、その背後の権力を継承し、勢力拡大したことになる。

神武帝:皇后はヒメタタライスズヒメ。オオモノヌシorコトシロヌシの娘で、2代天皇の綏靖天皇(末子で皇位を継承した)の母。父親については、オオクニヌシが幽世に去ってからも奇魂・幸魂であると名乗ったはずのオオモノヌシが生きているのなら、元からオオクニヌシとは別神と考えるべきだと思う。そして、コトシロヌシも、逆手を打って入水(おそらく死亡)したコトシロヌシと同一なのかは不明。ヒメタタライスズヒメには妹(イスズヨリヒメ。こちらはいくつかの資料がコトシロヌシの娘ということで一致)がいるので末子ではないが、単にコトシロヌシ(だと私は個人的に思う)の娘で婚姻可能な年齢の姫が、ヒメタタライスズヒメしかいなかった(出雲の正当な継承権を持つ最年少)、とも取れる。

綏靖天皇:2代天皇。初代・神武帝の末子。皇后は皇太后・ヒメタタライスズヒメの妹(つまり綏靖天皇からみると叔母)のイスズヨリヒメ。イスズヨリヒメは、コトシロヌシの末子と思われる。

安寧天皇:3代天皇。2代天皇の子(ひとりっ子か。他に名前が見えない)。皇后は、コトシロヌシの孫・鴨王(かものおおきみ。別名・天日方奇日方命)の娘・ヌナソコカワツヒメ。

懿徳天皇:4代天皇。3代天皇の2兄弟の末っ子。もしくは3兄弟の2番目。皇后はアマトヨツヒメ。3代皇后・ヌナソコカワツヒメの孫である皇女。

※その後、末子相続ではなくなり、コトシロヌシの血筋にこだわらなくなる。

と、ズラッと並べてみましたが、一見してすぐに判ることは以下です。

1.後継者が女子である場合、外部の男が入り婿する形で、妻の背後の勢力の長・王になるシステムである。(ニニギ・ウガヤフキアエズ・綏靖天皇)

2.皇統にコトシロヌシの血筋の娘を迎えまくっている。(古事記ではオオモノヌシの娘とされる場合もある)ことから、オオクニヌシの次の正当な出雲王はコトシロヌシで、コトシロヌシが出雲の末子だったことは明白。先代旧事本紀で、敗走したタケミナカタがコトシロヌシを兄と言っているのは間違い。(タケミナカタは有力な武将であっても末子ではない)

3.神武帝が出雲を攻略した後も、それを維持するのはなかなか難儀していたことが窺える。出雲が反逆しない為に、神武・綏靖・安寧・懿徳と、4代にも渡って皇后をコトシロヌシの血筋から迎えているのは、それが敗戦国・出雲を鎮める一番の融和策だったから。

4.神武帝の皇后・ヒメタタライスズヒメが未亡人となった=夫が無い状態になった(神武の異母兄に無理矢理妻とされた時期もあるが)ことと、4代懿徳天皇の皇后の名がアマトヨツヒメ、であることから、魏志倭人伝の言う、『年長大』であるも夫はいない女王・卑弥呼と、その後男王が統治するも国が乱れたので卑弥呼の血統である台与を《共に》女王に立てて国を鎮めた、という記述を根拠の一つにしているのが、邪馬台国畿内説である。

5.上記の説通りだとすると、神武はよくわからないけれども、皇太后・ヒメタタライスズヒメ=卑弥呼が女王であり、
ヒメタタライスズヒメ生存中の天皇は対外的には王と認識されていなかったことになってしまうとか、
女王は出雲系なのが必須条件になるんだけどいーんですか?


……と、ざっと挙げてみただけで、これだけツッコミどころがあるのは面白いです。
私は出雲贔屓なので、邪馬台国に関してはほぼ素人で、畿内なのか北九州なのか、どちらかの説に与する意見は全く持ち得ないのですが。

ただ、仮に邪馬台国が畿内にあった場合、皇統がこれだけコトシロヌシの血筋の皇后を迎えたということは、

ヒメヒコ制、もしくは夫婦統治

だったのでしょうか?
ヒメヒコ制については、手っ取り早くwikiにリンクを貼って置きますので、興味のある方はお読み下さい。

私は、邪馬台国はヒメヒコ制、出雲もひょっとしたら夫婦統治だった可能性も考えています。
出雲については、いつかまたの機会に。
2020. 05. 22  
日本民族は縄文時代からの流れをスムーズに受け継いでおり、そこに他民族の大規模流入や征服はありませんでした。

対して、朝鮮半島では、様々な民族による大規模流入が、難民、植民、征服などの様々な形で、幾度も幾度も、繰り返されたのです。

特に、征服された民族の男性は集中的に殺され、そのY染色体が激減、時にはほぼ消滅します。
女性は生かされても戦利品扱いです。征服者の男に蹂躙されて、征服者の遺伝子を持つ子供を産まされるのです。

例えば、現在進行形で、中国が長きに渡ってチベットにしているのは、そういうことです。

恐らく、チベット民族としての遺伝子は、かなりY遺伝子を中心に破壊されており、中国語教育によってチベット語を話せない人々を量産しました。

中国は宗教を否定していますから、チベット密教の僧侶も弾圧を受け、亡命政府のダライ・ラマ14世はもうかなりのご高齢であり、亡くなられたならばチベット人はチベット人としてのアイデンティティを失うことでしょう。
それは、名前だけチベットと残っても、民族としては滅ぶという事です。

だから、私は親チベットの人間として、ただのひとりの人間として、決して中国を許さない。

数多の民族が移動を繰り返し、戦乱を繰り返したのが、当たり前の大陸の歴史です。
でも、もうそんな野蛮が常識としてまかり通る時代はとうに終わった。

終わったはずなのに、チベットやウイグルでは惨劇が続き、《野蛮が常識としてまかり通る時代》を長きに渡って経験した朝鮮半島では、朝鮮民族が朝鮮民族として成立するまでに、13世紀までかかったという、日本にしてみれば信じられないほどの新しい時代まで、耐え難きを耐えなければならない時代がずっと続いていたのです。

何故、13世紀なのか。
元王朝の侵略です。

元寇で日本に押し寄せたのは、騎馬民族のモンゴル人が主体ではなく、海を知る朝鮮人が多数であり、指揮官さえ朝鮮人がいました。
そうなるほどに、虐殺や蹂躙の果てに朝鮮半島はモンゴル民族に支配され、元々半島に住んでいた人々の遺伝子も変えられたのです。

だから、現在の日本民族と朝鮮民族は、遺伝子が大きく隔たり、言語も離れているのです。

だから、韓国語で万葉集が読めるわけがない。
記紀が読めるわけがない。


現在彼の地にやっと安住を許された朝鮮民族と、古代の朝鮮の人々とは、かなり遺伝子が異なっています。

現代の朝鮮人が、新羅や百済の末裔を名乗れるような遺伝子の持ち主なのか、私には判りません。
でも、恐らく、末裔を名乗るには《遠すぎる》と思います。だから、

動乱の歴史の向こう側にある《古代朝鮮語》が、どのような言葉であったのかも、本当は、わからない。

ごく浅い歴史しか持てなかった《現在の朝鮮民族》は、長い歴史を持つ日本に非常なるコンプレックスを持ち、中国の夏王朝よりも古い歴史を捏造し、戦後からずっと反日教育を続けています。

何度日本と条約を結んでも、政治的合意をしても、何度でも反故にして日本を責め続けます。

中国は大国に過ぎて、逆らうのは怖い。
だから、縄文から連続した長い歴史を持つ、世界で最も長く続く王朝を持つ、朝鮮に限らず大陸の民族からみれば『信じられないほど平和であり続けた日本』は、かなり平和ボケしたお人好しの国であり、八つ当たりをするには格好の相手なのです。

だから、私は、朝鮮半島という地に同情はしても、そこにある国と真に友好国になることは、不可能だと思っています。

個人単位で、友人になることも、愛し合うことも出来るでしょう。
お互いの国の芸能人に熱狂したり、日本女性が韓国コスメで綺麗になりたいと思う事もあるでしょう。

でも、民族同士としては、国同士としては、友好的な協力関係に至ることは、永遠に無いでしょう。

あまりにも不幸な歴史を持つ土地故に、彼らは屈辱を晴らすための怒りと恨みを、終わらせることが出来ないのです。

彼らが何と非難しようと耳を貸さず、理不尽を毅然と拒否し、かと言って火花を散らす喧嘩はせずに、無視をして静かに棲み分けることを、友好を諦めるしか無い事もあると、日本民族は、日本という国は、知るべきです。

これにて、日本と朝鮮との、近くて遠い藤語りを、静かに、終えたいと思います。
2020. 05. 21  
日本語と朝鮮語は、見かけよりもずっと遠い。

逆に、何だこりゃ読めねえと思っても、現代日本語と古典は同言語であり、違う地方の人間が方言全開で言葉が通じなくても、双方とも間違いなく日本語です。

そんな、ガラパゴス的な言語を持った日本には、何万年も前にアフリカを出発した人々が、様々な遺伝子の変異を経て、様々な経路でやってきて、緩やかに混血を繰り返して縄文人になって以来、言語を覆すような他民族の流入は、一度たりとも無かったということです。

弥生人と呼ばれるような遺伝子を持った渡来人は、実はさほど多く来てはいませんし、征服もしていません。
にもかかわらず、縄文時代の縄文人と、現代の日本人の遺伝子がやや離れたものとなったのは、弥生時代に発達した稲作が関係しています。

縄文時代から日本でも稲の栽培は行われていましたし、粟などの穀物も、狩猟・採集生活と共に為されていました。
でも、早期に農耕によってもたらされる穀物、特に米が主食になるほど発達したのは、気候が温暖な九州や関西です。
※ 因みに、日本の米は、これも遺伝子的に江南からもたらされたもので、おそらく縄文時代に海を渡ってきた海人族によるものでしょう。朝鮮のものではありません

一方、東日本・北日本での稲作は大きく遅れ、日本列島の南部・西部のようには伝播も発展もしない時期が長く続きました。
そして、稲作が軌道に乗り、狩猟・採集の生活から稲作を中心とした農耕がメインとなると、何が起こるか。

人口爆発です。

稲作は、狩猟・採集を中心とした文化よりも、はるかに数多くの人間を養えるだけの食料をもたらします。
渡来人が流れ着くのも、南部・西部です。その遺伝子もその地で混血が為されました。

東日本・北日本ではさほど人口が伸びない一方で、弥生時代、古墳時代、と続いてゆく人口増加は、始めは少数であった渡来人の遺伝子と、その増加を共にしたのです。
そうして形成されたのが、縄文人からやや隔たってしまった今の日本民族の遺伝子です。

私見ですが、沖縄人が本土の日本人よりも縄文的な遺伝子が強いのは、沖縄が小さな島々で形成されており、平野が少なく、漁業などの狩猟や陸地での採集文化が多く残った=農耕による人口爆発が起きなかったから、と解釈しています。
※ アイヌについては、縄文人と遺伝子は近いのに、何故縄文文化を受け継がず、言語的にもかけ離れているのは何故なのか、本当に彼らは日本の先住民族と言えるのか、専門家には程遠い私には、とんとわかりません

そして、現代の出雲出身者の遺伝子も、関東の人々の遺伝子よりも、縄文人に近く、東北人と似ているのです。
これも、古代出雲の土地の平野の少なさに起因すると私は見ています。故に、

出雲では縄文的な文化が長く残り、平野に恵まれた地域よりも大規模な海人族の集団がいたはずで、スサノオはそのような海人族の系譜であったと思います。

だから、当然に、記紀の時代の新羅の辺りは勿論、朝鮮半島のあちこちに何度も渡っていたことでしょう。

牛頭山と牛頭天王スサノオが何の関係が無くとも、海人族なら当然です。

半島を居心地が悪いと言って日本に戻り(やって来たんじゃなくて、半島から戻ってきたんだよ!)、持ち帰った木の実を日本の各地に撒いた、というのも、非常に縄文文化的なエピソードです。

ちなみに、この日本書紀の異文は、結構あからさまに新羅をdisっているのですが、これは記紀編纂当時、日本に朝貢していた新羅が無断で朝貢先を唐に乗り替えて事後報告という、非常に不快な相手となっていた為、唐に提出する歴史書・日本書紀としては新羅を格下に扱うエピソードを入れたかった、という事情もあるでしょう。

尚、スサノオが日本を緑の国にしたというのは、スサノオが自分のあちこちの体毛を抜いて様々な木に変える異伝もあります。
現代語訳しますが、

>杉と樟(くすのき)、この二つの木は舟をつくるのによい。桧は宮をつくる木によい。槇(まき)は現世の国民の寝棺を造るのによい。そのための沢山の木の種子を皆播こう

と、やはり船材を真っ先に挙げ、ほかの重要な木も御子神たちに託したのです。

(つづく)
プロフィール

chikaru414

Author:chikaru414
日本の神話と神社仏閣、それにまつわる歴史が好きです。
スサノオ様、スセリヒメ様はじめ出雲の神様と水神様推し。
定義山西方寺を崇敬。伊達政宗公を尊敬する伊達家家臣末裔です。透明水彩絵師。

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