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2023. 01. 20  
※ 大己貴=八島士奴美神だとすると~シリーズの最終話は明日の更新でup致します

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そして、タイトル通りです。

wikiからそのまま引用します。
この航空写真の下の文章
20230109shiogama

>1975年度(昭和50年度)撮影の国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
写真左には伊達家の守護神が祀られている鹽竈神社左右宮が仙台城に相対するように南南西を向けて置かれ、主祭神が祭られている鹽竈神社別宮は航海安全を背負うため仙台湾を背に北西に向いている[1]。写真右の志波彦神社は南東を向いている。(引用終わり。太字は私)

ちなみに[1]とは、 鹽竈神社御由緒「社殿の不思議」 というもので、何の書物かと思ったらそうではなく、志波彦神社・鹽竈神社公式HPの中に有るコラムなんです。

でも、wikiの方の書き込みは、ちょっと弄ってある。
公式HP「社伝の不思議」オリジナルの文章を引用しますが、

◇通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀っておりますが、鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに、門を入って右手に主祭神たる塩土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに立っております。
→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て、大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し、海上守護の塩土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。(引用終わり。太字は私)

多分、神社公式の方は、社殿の向きはかなり大雑把に南だの西だのと書いているので、「そんな伝承もある」程度の昔話的なことを書いちゃっただけなのでしょう。
遙拝するに当たって、社殿に真っ直ぐ向いていなければならないという決まりも特にないでしょうし、ここまで外れていると私みたいに素直じゃない人がちょっと疑って調べてみただけで、すぐに根拠ゼロとわかります。

つまり、航空写真を見つけた人が、正確には南向きじゃないし、南の方角に仙台城は存在しないことに気付いてしまい、wikiを編集する為に勝手に改編したんだと思います。
しかも、昔の航空写真を見付けてきて、わざわざ記述を変えるくらいの手段を執れる人なら、グーグルMAPでも使えばすぐに社殿の向きと仙台城の位置は全然一致していないことくらいわかるでしょうに、なぜ仙台城の守りにこだわるのかな?

実際の社殿の向きは、南より西にやや傾いている程度で、南南西と言ったところでしょうか。
そして、鹽竈神社から見て仙台城址(私は青葉城趾と今でも言いたくなる)は南西よりもやや西寄りで、西南西辺りの方角にあるんです。

個人的には、鹽竈神社→冠川神社→仙台城なら面白いと思ったんですけど、今の冠川神社は八坂神社の境内に合祀されているのでよくわかりませんね。
因みに、今の冠川神社はやや北にズレてしまうので、特にレイラインにはなっていません。

伊達氏が何故鹽竈神社の左宮と右宮を重んじたかというと、

1.武将達は、多分伊達氏に限らず鹿島神宮の神(タケミカヅチ神)と香取神宮の神(フツヌシ神)と八幡宮(八幡神。神功皇后の三韓征伐絡みっぽいけど謎)が好きだから。(鹿島香取は国譲りに貢献したことで尚武の神とされ、三韓征伐は伝説では成功している)
2.伊達氏が藤原北家の末裔を名乗っていたから、藤原(中臣)の祖神の鹿島神と香取神を崇めた。
3.常陸国伊佐郡で伊佐氏を名乗っていたから。(鹿島神宮は常陸国一之宮)

ただし、伊達氏が塩竈に持ち込んだのかどうかは不明です。
多賀城府の守りに鹿島神と香取神を元からあった鹽竈神社の祭神を消して上書きでもしたのが最初で、それ以前は志波姫・志波彦のヒメヒコ海神でしょう。
志賀島(しかしま/阿曇氏)とか、海人族絡みだと思っています。
※ カカでもハハでも蛇であるように、カとハは入れ替わります。ハ→ワも転訛します。シガとかシバとか濁る場合もよくあります
※ 海人族は海に限らず川にも入り込みます。川が続いていれば山地にも拠点を持ちます。例えば北上川とか

それ以前から存在したのはアラハバキ神でしょうか。志和姫様のような徹底的な排除がなされることなく、ひっそりとでも生き残っていてくれたのは幸いです。
志和のヒメヒコは、ヒメヒコだったから殊更に排除されたのでしょう。特にヒメ(姉妹)はヒコ(兄弟)に神聖な力を与える存在であるという信仰があった所為か、姫神の方がより執拗に迫害される傾向にあったようです。

因みに、どうしても鹽竈神社の左宮右宮がどこかを向いていることにしたいのであれば、それこそ鹿島神宮・香取神宮の辺りじゃないでしょうか?
私はちゃんと計測できるような技術が無いので、そうなんじゃないかなぁと思いつつ立証しておりません。

あと、伊達氏と言えば元は「いたて」と読んだそうなので、五十猛(射楯神/いたてのかみ)つながりだったりすると個人的に萌えます。


そういう訳で、2023/01/19現在、Wikipediaの鹽竈神社に嘘が書いてあります。
私はwikiの編集をしたことは無かったのですが、これは見過ごすのイヤだなあと思って編集を試みたものの、何故か出来ませんでした。
ちょっとの修正だから、特にアカウントを作らなくてもいいかなと思ったのですが、文字が打てません。

アカウント作れば良かったのかな?でも、今後Wikipediaを弄りたいと思うほど、何か専門的な知識を持っている訳ではないし……

気が向いた方、鹽竈神社は仙台城を向いていると伝えられるが実際には向いていない、程度の事を書き加えて下さると嬉しいです。

2022. 05. 23  
私の産土神社は、多分津島神社です。
私は父の転勤でたまたま愛知県津島市にて生を受けて、幼稚園年少まで津島市にある社宅に住んでいました。
津島市もいくつか村を合併した歴史があるようだけれども、通っていた幼稚園の場所から想定するに、社宅は津島神社の近くであるようだし、七五三(3歳)は津島神社で御加護を頂いたし、その後長年東北住まいの割に何故か出雲贔屓でスサノオ様とクシナダヒメ様とスセリヒメ様を推しているし、もう産土神社は津島神社でいいと思います。

で、私が津島神社にお参りしたのは、今のところそれが最後です。
実は人混みに揉まれながら父の抱っこか母のおんぶで初詣に行ったのかも知れませんが、いかんせん幼かったので記憶にない。
そんな津島神社が、

嵯峨天皇宣わく『素尊は則ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり』

とかいう何やらカッコいいことになっていたというのは、大人になってから知ったのでした。
上記は津島神社の非公式の資料もしくは口伝なのでは、…というのを何処かで読んだのですが、案外堂々としていたんですね。

tsushimajinja
いやもう、誇らかに日本惣社て書ちゃってるスサノオ様のプロマイドじゃん。

(つづく)
2021. 05. 23  
由緒

 養老2年(718年)の頃に多賀城に鎮守府将軍として大野東人が着任しておりましたが、東人は蝦夷の勢力による反抗・反乱に悩まされていました。蝦夷勢力の反乱を沈めるには神々の助けを借りるしかないと考えた東人は、霊験あらたかである紀州牟婁郡に鎮座する熊野本宮神の東北への勧請願いを時の天皇である元正天皇に奏上しました。元正天皇もこの東人の願いを聞き入れ、蝦夷勢力鎮圧のために紀伊国國造や県主に対して東北へ熊野神の分霊社を建立することを命じました。

 元正天皇の命を受けた紀州名草藤代県主である従三位中将・鈴木左衛門尉穂積重義と湯浅県主である正四位下・湯浅権太夫玄晴は、熊野神の御分霊をお守りしながら、家臣数百名を連れて船団を組み東北の地へと旅立ちました。4月19日に紀州を出港し、5ヶ月後の9月9日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)に上陸しました。初めて熊野本宮神の御分霊が上陸された鮪立地区には、現在も業除神社(ごうのけじんじゃ)という神社が鎮座しています。

 その後、熊野本宮神は大野東人や地元の人々に迎えられました。熊野本宮神の仮宮に供物を清めてお供えし、どこに熊野本宮神が鎮座されたいのかを占うために湯立神事を行ったところ「磐井郡鬼首山(現在の室根山)は日本武尊が皇業を始めた地なので、そこに祀ってほしい」という託宣があったので、鈴木家の家臣団や白馬17頭に乗った地元の長たちは熊野本宮神の御分霊とともに室根山へと向かいました。現在の室根山8合目に鎮座する室根神社では、御祭神として熊野本宮神(伊弉冊命)や熊野新宮神(速玉男命・事解男命)など熊野の神々をお祀りしています。

 こちらの瀬織津姫神社は、熊野本宮神の仮社殿を設けて供物を塩水で清めて捧げ、熊野本宮神の託宣を受けた場所に瀬織津姫神をお祀りした神社なのだそうです。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による大津波で被災し、1300年の歴史を持つ神社も流失しました。現在の社殿は広島県呉市の宮大工の方が寄進された総ケヤキ造りの一間社流造の御本殿で、室根神社より御分霊を受けて、2012年に元の鎮座地より内陸側に400メートル離れた場所に建立されました。

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以下Wikipedia 瀬織津姫より引用

熊野神社を遡り調べると熊野権現は瀬織津姫なりという説がある。大和政権がエミシ征伐の際、熊野権現を守り神とし北へ向かった。制圧した後、気仙沼市唐桑町に瀬織津姫神社、熊野神社などが鎮座した。東日本大震災の津波により流されたが、現在は再建されている。

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私見

つまり、唐桑には瀬織津姫神社も瀬織津姫も残ったものの、熊野本宮神(現在の祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも呼ばれる。須佐之男命ということになっているが、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係するとの説もあるが、やはりその素性は不詳)は現在の室根神社の地に祀られたものの、現在の室根神社本宮の祭神は伊弉册命(イザナミ神)であり、家都美御子大神ではない。瀬織津姫の名も無く消失している。
※ 室根神社新宮は後年祀られたもの。(速玉男命、事解男命)

せめて家都美御子大神にしておけば、一応熊野本宮神として筋が通るのに、わざわざ女神のイザナミ神を被せてきた辺り、この地にやって来た熊野の神は瀬織津姫だったのだろうと思う。

業除神社についてはこちらが詳しい。室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること (2011/09/29)


2021. 05. 20  
ちょっとある調べ物をしていて、『総社』というものに行き着いた私。

総社にはその国(この辺りを言うなら陸奥国)の神社の神様を集めまくった所なのですが、それでも一応『主祭神』がいらっしゃるのです。
つまり、その国で最も重要な神、っていうことですよね。

因みに、岡山県にある備中国総社宮(びっちゅうのくにそうしゃぐう)では、

主祭神:大名持命
     須世理姫命


なんです!
よっしゃー!よくやってくれました備中国!!

でも、何で備中国(岡山県西部)なんでしょうね?出雲じゃなくて。
因みに、出雲国の総社は松江市の六所神社なのですが、六所という程度に主祭神は

伊弊諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
月夜見尊(つきよみのみこと)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
大己貴尊(おおなむちのみこと)

という六柱のラインナップ。
不敬ですが、

……なんじゃこりゃ。

出雲というとスサノオ様の英雄譚が有名で、あとは日本一の色好み大国主命ですよね。
男女神で主祭神にするなら、クシナダヒメ様やスセリヒメ様が相応しいというものです。
あと、出雲には結構イザナミ神が信仰されているので、そのパートナーとしてはイザナギ神でしょうか。

なのに、堂々と天照大神が紛れ込んでいて、どさくさに紛れて出雲ではあまり信仰されていないイザナギ神や謎のツクヨミ神を詰め込んで、出雲の土着の女神を封じている感が満々です。
※ 流石にスサノオ様とオオナムチ様は無視出来なかったと見える

男女対の神って、それだけでパワーが段違いなんです。
だから、お上としては、あまり自分の方に都合がよろしくない土地の神は、男女神で祀られたくないし、迫害する場合には女神がターゲットになる。

有名なのが瀬織津姫、出雲ならスセリヒメ、宮城~岩手近辺では志波姫です。

それで、私は志波彦様と志波姫様を出会わせて差し上げたくて仕方が無いのですが、……ちゃんと、いらっしゃいましたね。
名前変えてますけど、上手く隠して男女神のまま残してくれたのか。
それとも、違う名前を被せて封じてしまったのか。

陸奥総社宮(むつそうしゃのみや/むつそうじゃぐう)の主祭神は、

八塩道老翁神
八塩道老女神


です。
なんて読むのでしょうか。
わかりませんが、八塩道老翁神の方は、塩竈神社別宮で《表の祭神》として出されている塩土老翁神(シオツチノオジ)の真似でしょう。

でも、本来の塩竈神社の祭神は男女対の神です。
過去に堂々とそんなお札やら掛け軸やらが出回っていたんですから、確実に女神は存在したんだし、その腕に子を抱いていて安産の御利益で有名な程度に老女ではなかったはずなのですが、どうも志波姫神は姥神(うばがみ)信仰に追いやられる形で老婆にされている形跡が他の神社にもあります。

現在、いちど塩竈神社から追い出された志波彦神と志波姫神は、志波彦神だけが《志波彦大神》として丁重に、塩竈神社境内の志波彦神社に祀られていらっしゃいます。
でも、志波姫神をその名のままに祀っている神社は存在せず、行方不明の状態です。

八塩道老翁神と、八塩道老女神。
この二柱の神が、密かに志波彦神と志波姫神として祀られていてくれればいいな…と心から思います。

多分、そうなんじゃないかな、とも思うのは、この二柱が主祭神というのは宮城県神社庁の正式な情報なのに、総社のHPには記載がないのです。
つまり、表に出したくない名前なのでしょう。

実は、かつて祭神に関するページはあったのですが、現在はこんなことになっちゃってるんですよね。

このページには、御祭神だけではなく年間の祭事も載っていたようなのですが、コロナ禍で実施出来なくなってしまったので削除したのかなぁとも思ったのですが、祭事のご案内ページはちゃんと存在するんですよね。

ねぇ。陸奥総社宮様。
どうしてなのかなぁ?


2021. 05. 19  
所在地
鳥取県日野郡日野町板井原996番(日野郡根雨町大字板井原字大西)

社格  村社

祭神
大己貴命、須勢理姫命

歴史:鳥取県神社誌より
創立年代不詳。
往古より山王権化と称し、産土神として崇敬す。
寛文7年6月藩主池田氏社領高五斗八升四合先規に従ひ寄附せらる。
明治元年神社改正の際板井原神社と改称、村内久津懸谷鎮座の久津懸大明神を合祀す。
同5年、村社に列す。
同6年、板井原神社と改称す。
大正10年10月31日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

補足:鳥取県神社誌より
建造物  本殿、拝殿、神楽殿、祭器庫
境内坪数=550坪   氏子数=75戸

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夫妻神で祀られている神社があったとは!
しかも、出雲よりだいぶ内陸の鳥取県に、ひっそりと。

※ 大抵はスクナヒコナ神も一緒。
※ というか、スクナヒコナ神が御一緒していても、この夫妻神が二柱だけで祀られている所は本当少ない。
※ そしてご夫妻だけというのは春日大社 夫婦大国社しか無いと思っていた。

尤も、春日大社の夫婦大国社は、オオナムチ命ではなく大国主命なんですけど。

私、今でも判らないんですよね。本当に
オオナムチ=オオクニヌシ なのかどうか。

理ヒメと須理ヒメと和加須世理ヒメが、全て同じ女神様なのかどうか。


プロフィール

chikaru414

Author:chikaru414
日本の神話と神社仏閣、それにまつわる歴史が好きです。
スサノオ様、スセリヒメ様はじめ出雲の神様と水神様推し。
ホlツlマlツタヱ・富l家l伝承・徐l福l伝l承・日lユl同l祖l論・アlイlヌl先l住l民族説お断り。

定義山西方寺を崇敬。秋篠宮家と伊達政宗公を尊敬する伊達家家臣末裔です。
透明水彩絵師。

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