2020.
04.
02
実は、伊達家が本当に藤原北家の末裔なのかどうかは、よくわかっていません。
でも、創建時不明なほどの古社で、地元の人からの絶大な信仰を得ていた鹽竈神社(仙台ではなく、海沿いの塩竈市にあり、やや南寄りながらも仙台の鬼門封じ)の祭神が、鎌倉時代辺りから行方不明状態だったので、4代綱村公が優秀なブレーンを集めて《解明》した祭神が、シオツチノオジ神・タケミカヅチ神・フツヌシ神の三柱で、現在もそのままです。
※ 真の御祭神は、明治時代に発見されました。発見される程度に、本当は代々の宮司が外側には口をつぐんでいた(知られると、瀬織津姫のように消されるから?)だけで、密かに言い伝えられていたという事なのでしょう
つまり、上記の三柱は、鹽竈神社の神様は、塩の作り方を教えてくれたという言い伝えから、それっぽい名前のシオツチノオジ神(神武に東の方に良い土地があると教えた神様)を持ってきて、残りの2柱は、藤原氏の祖と言われる鹿島神宮と香取神宮の武神を勧請した、ということです。(単に箔を付けたかったので、国譲りでの決め手となった神に藤原の系譜をくっつけたのですが、そんな事情は後世の殆どの人が知らなかったと思います)
真偽の程はともかく、藤原氏の祖神を祀るくらいに伊達氏には藤原北家の末裔の自覚があったのだし、ひょっとしたら、日光東照宮というものが出来て家康公が祀られるということがなかったならば、城下町の鬼門の守りの最有力は、伊達家祖神であるからという理由で、タケミカヅチ神かフツヌシ神であったのではないかと思います。
忠宗公がいずれ遷座するつもりの天神社の社殿をわざわざ修築しているのは、藤原北家の末裔・伊達家としては、絶対に管公の御魂に無礼を働いてはならなかったからです。
きっと、現在の地への社殿新築と遷座が完了するまでは、腫れ物のように扱っていたのではないかと思われます。
そして、鬼門の守りは東照宮の家康公にお任せするとして、天神社をどうするか?
私は、榴岡に遷座させたのは、なかなかナイスな選択だと思うんですよ。
元々そこにあったものを、無かったことには出来ませんから、何処かで丁重に祀り続けなければならない。そして、
スサノオ様が疫病神・牛頭天王と習合して絶大な信仰を集めたように、祟り神は誠心誠意お祀り申し上げれば、守護を下さる存在なのです。
鬼門に置くのは流石に怖いけれども、置く場所さえ間違えなければ、天神にまで上り詰めた管公は最強です。
だから、最適な場所に置けば良い。
現在、榴岡天満宮がある場所は、仙台城下町の6つのポイントのひとつで、仙台城から見て卯辰(東と東南東との間)の方角です。
八卦(はっけ)というものを、御存知でしょうか?当たるも八卦当たらぬも八卦のアレです。
八卦で言うと、天満宮の現在地は、仙台城から見て『震』という東の方角の範囲内で、対応する自然現象は
『雷』。
なのです。
偶然にしては出来すぎなので、わざと、でしょうね。
境内の桜の神木が寿命で、残念ながら伐採されてしまいましたが、この辺りは昔から桜の名所だったそうです。
桜は、サ(神)のクラ(坐)。雷公こと管公には、居心地の良い神社なのではないかと思います。
2度もご降臨(落雷)する程度には。
私は、仙台城下町の結界を考え始めた頃の政宗公は、まだ天下人の野望を諦めてはいなかったと思います。
的確に軍事的要所を抑えるという、実益を兼ねた呪術都市を創ろうとしたのですから。
でも、政宗公は鬼門の守りに、家康公の御魂を祀った。
これは、家康公を天下人と敬意を払い、家康公亡き後の徳川幕府と天下を守ってゆく意志が無ければ出来ないことです。
叛意を持ったままでは、管公も家康公も、鬼門に置く危険度は大差有りません。
東照宮の勧請を考えた頃の政宗公は、再び乱世を起こして自分が天下を取ることよりも、太平を望み、なかなかに難儀な領地を開墾し、豊かな国を築き、子孫に託すのだと、お心を決めていたと思います。
だから、政宗公は戦国時代のヒーローで、徳川の世にあっては仙台藩の名君たり得たのです。
家臣の末裔として、誇りに思い、感謝しつつ、この度の6話に渡る藤語りを終えたいと思います。
でも、創建時不明なほどの古社で、地元の人からの絶大な信仰を得ていた鹽竈神社(仙台ではなく、海沿いの塩竈市にあり、やや南寄りながらも仙台の鬼門封じ)の祭神が、鎌倉時代辺りから行方不明状態だったので、4代綱村公が優秀なブレーンを集めて《解明》した祭神が、シオツチノオジ神・タケミカヅチ神・フツヌシ神の三柱で、現在もそのままです。
※ 真の御祭神は、明治時代に発見されました。発見される程度に、本当は代々の宮司が外側には口をつぐんでいた(知られると、瀬織津姫のように消されるから?)だけで、密かに言い伝えられていたという事なのでしょう
つまり、上記の三柱は、鹽竈神社の神様は、塩の作り方を教えてくれたという言い伝えから、それっぽい名前のシオツチノオジ神(神武に東の方に良い土地があると教えた神様)を持ってきて、残りの2柱は、藤原氏の祖と言われる鹿島神宮と香取神宮の武神を勧請した、ということです。(単に箔を付けたかったので、国譲りでの決め手となった神に藤原の系譜をくっつけたのですが、そんな事情は後世の殆どの人が知らなかったと思います)
真偽の程はともかく、藤原氏の祖神を祀るくらいに伊達氏には藤原北家の末裔の自覚があったのだし、ひょっとしたら、日光東照宮というものが出来て家康公が祀られるということがなかったならば、城下町の鬼門の守りの最有力は、伊達家祖神であるからという理由で、タケミカヅチ神かフツヌシ神であったのではないかと思います。
忠宗公がいずれ遷座するつもりの天神社の社殿をわざわざ修築しているのは、藤原北家の末裔・伊達家としては、絶対に管公の御魂に無礼を働いてはならなかったからです。
きっと、現在の地への社殿新築と遷座が完了するまでは、腫れ物のように扱っていたのではないかと思われます。
そして、鬼門の守りは東照宮の家康公にお任せするとして、天神社をどうするか?
私は、榴岡に遷座させたのは、なかなかナイスな選択だと思うんですよ。
元々そこにあったものを、無かったことには出来ませんから、何処かで丁重に祀り続けなければならない。そして、
スサノオ様が疫病神・牛頭天王と習合して絶大な信仰を集めたように、祟り神は誠心誠意お祀り申し上げれば、守護を下さる存在なのです。
鬼門に置くのは流石に怖いけれども、置く場所さえ間違えなければ、天神にまで上り詰めた管公は最強です。
だから、最適な場所に置けば良い。
現在、榴岡天満宮がある場所は、仙台城下町の6つのポイントのひとつで、仙台城から見て卯辰(東と東南東との間)の方角です。
八卦(はっけ)というものを、御存知でしょうか?当たるも八卦当たらぬも八卦のアレです。
八卦で言うと、天満宮の現在地は、仙台城から見て『震』という東の方角の範囲内で、対応する自然現象は
『雷』。
なのです。
偶然にしては出来すぎなので、わざと、でしょうね。
境内の桜の神木が寿命で、残念ながら伐採されてしまいましたが、この辺りは昔から桜の名所だったそうです。
桜は、サ(神)のクラ(坐)。雷公こと管公には、居心地の良い神社なのではないかと思います。
2度もご降臨(落雷)する程度には。
私は、仙台城下町の結界を考え始めた頃の政宗公は、まだ天下人の野望を諦めてはいなかったと思います。
的確に軍事的要所を抑えるという、実益を兼ねた呪術都市を創ろうとしたのですから。
でも、政宗公は鬼門の守りに、家康公の御魂を祀った。
これは、家康公を天下人と敬意を払い、家康公亡き後の徳川幕府と天下を守ってゆく意志が無ければ出来ないことです。
叛意を持ったままでは、管公も家康公も、鬼門に置く危険度は大差有りません。
東照宮の勧請を考えた頃の政宗公は、再び乱世を起こして自分が天下を取ることよりも、太平を望み、なかなかに難儀な領地を開墾し、豊かな国を築き、子孫に託すのだと、お心を決めていたと思います。
だから、政宗公は戦国時代のヒーローで、徳川の世にあっては仙台藩の名君たり得たのです。
家臣の末裔として、誇りに思い、感謝しつつ、この度の6話に渡る藤語りを終えたいと思います。
2020.
04.
01
※ 前回『その4』は、2020/03/28 の記事になります。
藤原北家(ふじわらほっけ)とは、何か。
藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする、藤原四家の中でも最も栄えた家系です。
その系譜の中に、藤原時平(ふじわらのときひら)がいる。
菅原道真公を、讒言によって失脚させ太宰府配流へと追いやった主犯と言われる、
『あの』時平公です。
……ということにされているので、時平公ってめっちゃ腹黒い悪者のイメージですよね。
確かに、藤原氏にとって菅原道真公は邪魔な存在で、藤原氏以外の氏族の排斥活動の一環であったのでしょう。
でも、単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層、時平を含む藤原氏、源氏公卿、学者らの同意があった計画であったようです。
時平公は、才覚にも容姿にも優れ、好色でトラブルも起こしましたが、道真公配流後は意欲的に政治改革に着手した、非常に優秀な政治家でした。
それ故、時平公が辣腕を振るった醍醐天皇の治世は、延喜の治と呼ばれ、後世の理想とされた時代であったのです。
というと、老獪なイメージを私は勝手に持っていたのですが、時平公は39歳の若さで病死。
勿論、悪者のレッテルを貼られる程度に、日本三大怨霊・菅原道真公の祟りと伝えられております。
時平公の死後、その権力は弟の嫡流へ移り、時平公の系譜は中級・下級貴族へと没落の道を辿るのです。
藤原氏に限らず、没落した貴族が武士になるのは珍しくないので、『もし本当に伊達氏が藤原北家の末裔であったなら』、そのパターンなのかも知れません。
とは言っても、藤原北家の栄華自体が終わった訳ではありません。
近衛家と名を変えて五摂家に名を連ね、今でも政治家を輩出しているくらいですから。(苗字違うけど。母系繋がり???)
そうであっても。
藤原時平公に祟り、その怨霊を鎮めるために、天津神でもないのに天神とまで呼ばれるようになった管公を、仙台城の鬼門に置くなんて、
鬼門の守りどころか鬼門に金棒を持った鬼を置くようなもので、非常にヤバイ感じが満々です。
こりゃあ、是非とも取り替えたいと思うはずだよ……
(つづく)
藤原北家(ふじわらほっけ)とは、何か。
藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする、藤原四家の中でも最も栄えた家系です。
その系譜の中に、藤原時平(ふじわらのときひら)がいる。
菅原道真公を、讒言によって失脚させ太宰府配流へと追いやった主犯と言われる、
『あの』時平公です。
……ということにされているので、時平公ってめっちゃ腹黒い悪者のイメージですよね。
確かに、藤原氏にとって菅原道真公は邪魔な存在で、藤原氏以外の氏族の排斥活動の一環であったのでしょう。
でも、単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層、時平を含む藤原氏、源氏公卿、学者らの同意があった計画であったようです。
時平公は、才覚にも容姿にも優れ、好色でトラブルも起こしましたが、道真公配流後は意欲的に政治改革に着手した、非常に優秀な政治家でした。
それ故、時平公が辣腕を振るった醍醐天皇の治世は、延喜の治と呼ばれ、後世の理想とされた時代であったのです。
というと、老獪なイメージを私は勝手に持っていたのですが、時平公は39歳の若さで病死。
勿論、悪者のレッテルを貼られる程度に、日本三大怨霊・菅原道真公の祟りと伝えられております。
時平公の死後、その権力は弟の嫡流へ移り、時平公の系譜は中級・下級貴族へと没落の道を辿るのです。
藤原氏に限らず、没落した貴族が武士になるのは珍しくないので、『もし本当に伊達氏が藤原北家の末裔であったなら』、そのパターンなのかも知れません。
とは言っても、藤原北家の栄華自体が終わった訳ではありません。
近衛家と名を変えて五摂家に名を連ね、今でも政治家を輩出しているくらいですから。(苗字違うけど。母系繋がり???)
そうであっても。
藤原時平公に祟り、その怨霊を鎮めるために、天津神でもないのに天神とまで呼ばれるようになった管公を、仙台城の鬼門に置くなんて、
鬼門の守りどころか鬼門に金棒を持った鬼を置くようなもので、非常にヤバイ感じが満々です。
こりゃあ、是非とも取り替えたいと思うはずだよ……
(つづく)
2020.
03.
28
政宗公は、探していたと思います。天神社に代わる鬼門封じを。
強力な鬼門封じに相応しいのは、天神社以外で何かありはしないかと。
ほかの武将がどうだったのかは存じませんが、伊達家は本拠地を何度も移す度に、ご縁のある神社も遷座させて一緒に連れて来ています。
仙台城を含む六芒星と亀甲紋も、そのような寺社がメインです。例えば、
大崎八幡宮:もとは坂上田村麻呂が創建したものを、室町時代に大崎氏が祀るようになり(それで名前が大崎八幡宮)、大崎氏滅亡後は岩出山に居城を構えた伊達氏が、旧領の羽前国米沢で代々崇敬していた成島八幡宮を合祀して、仙台に遷座。
愛宕神社:こちらも米沢→岩出山→仙台と共に渡り歩いて現在地に遷座。
東昌寺:鎌倉時代に伊達政依によって陸奥国伊達郡桑折(現在の福島県北部)に建立した、伊達家最初の菩提寺→米沢→岩出山→仙台。(のちに土地を譲り東側に移り、青葉神社創建。祭神は伊達政宗と愛姫)
また、星には含まれませんが、北の玄武として配置した亀岡八幡宮も、伊達家の守り神として一緒に渡り歩いた神社です。
つまり、これらは伊達家が仙台の城下町に配置しても、お江戸に怪しまれる要素のない寺社なんです。
また、意味は真逆になりますが、元々仙台に存在していた天神社も、手厚く祭り社殿を立派にした所で、何も不自然ではありません。
でも、政宗公としてはせめて鬼門からは天神社を移し祀り奉りたかったのだし、また星の結界を完成させるためには、『さいごのひとつが足りない』という状況だったのです。
私としては、仙台には出雲系の神社が少ないので、ひとつくらいでっかい神社を建ててスサノオ様を祀って下されば、絶対に足繁く通ったと思うし、具体的には政宗公にとっての憧れの武将で、文通もしていたという織田信長公が崇敬していらした津島神社を是非とも勧請して頂きたかった…!とも思ったのですが、絶対に無理だったでしょうね。
わざわざ新しい神様を勧請してきて神社を建てるというのは、当然にご利益を期待しているからで、天下人寸前まで上り詰めた勇ましい武将が祀った勇ましい神を新たに招くとなると、徳川家が天下を治める世となったのに、まだ反旗を翻し天下人を狙うのか?と疑われても仕方が無いです。
そして、考えに考えた政宗公の没年は1636年ですから、その時には東照宮を勧請することに決めており、遺言してあったと思います。
政宗公の遺志を受けて、2代目忠宗公が徳川家光公に勧請させて欲しいと申し出たのでしょう。
仙台東照宮の創建は、1654年。で、政宗公の死から18年が経過。
因みに、榴ヶ岡天満宮(当時は天神社)は、東照宮創建のために、一時的にその東側に遷座され、現在地への遷座は1667年で既に3代綱宗公の御代です。
時系列を辿ると、新たな天満宮創建よりも東照宮を鬼門封じに置くことを優先した、ということだけはわかるんですけど。
でも、東照宮を勧請したいと申し出た2代忠宗公自身が、わざわざ天神社を1640年に修築してるのに?何故に遷座??
天神社自体は伊達氏が仙台を本拠地とする前からあって、仙台城の前は同地の国分氏居城の鬼門封じだったのに…
訳わからんわ!!!
と、私は結構長い間、頭を抱えていた訳です。
でも、榴岡天満宮の落雷について調べているうちに、「あ」と思ったんです。
気付いてしまえば、何てコレわかりやすい理由?
仙台城下町の人々には、管公が日本三大怨霊の一柱であっても、祟られる理由はありません。
学問の神様で、子宝の神様で(管公は子沢山で、12人説、14人説、23人説)、道中安全の神(行きたくなかったのに決まっているけど、太宰府への長い旅路を無事に辿り着いた)として、素朴に信仰していたはずです。
だから、氏子たちは火災と消失を悲しみつつも、落雷は雷公様のご降臨という奇跡と思い、ありがたく手を合わせることが出来た。
要するに、祟りとか祟り神とかいうものは、祟られる理由がある者の後ろめたさや恐怖によって発生する。
そして、伊達家には、管公に祟られる理由があったんです。
だって。伊達家って。
藤原北家の末裔を名乗っているんですもん。
(つづく)
強力な鬼門封じに相応しいのは、天神社以外で何かありはしないかと。
ほかの武将がどうだったのかは存じませんが、伊達家は本拠地を何度も移す度に、ご縁のある神社も遷座させて一緒に連れて来ています。
仙台城を含む六芒星と亀甲紋も、そのような寺社がメインです。例えば、
大崎八幡宮:もとは坂上田村麻呂が創建したものを、室町時代に大崎氏が祀るようになり(それで名前が大崎八幡宮)、大崎氏滅亡後は岩出山に居城を構えた伊達氏が、旧領の羽前国米沢で代々崇敬していた成島八幡宮を合祀して、仙台に遷座。
愛宕神社:こちらも米沢→岩出山→仙台と共に渡り歩いて現在地に遷座。
東昌寺:鎌倉時代に伊達政依によって陸奥国伊達郡桑折(現在の福島県北部)に建立した、伊達家最初の菩提寺→米沢→岩出山→仙台。(のちに土地を譲り東側に移り、青葉神社創建。祭神は伊達政宗と愛姫)
また、星には含まれませんが、北の玄武として配置した亀岡八幡宮も、伊達家の守り神として一緒に渡り歩いた神社です。
つまり、これらは伊達家が仙台の城下町に配置しても、お江戸に怪しまれる要素のない寺社なんです。
また、意味は真逆になりますが、元々仙台に存在していた天神社も、手厚く祭り社殿を立派にした所で、何も不自然ではありません。
でも、政宗公としてはせめて鬼門からは天神社を移し祀り奉りたかったのだし、また星の結界を完成させるためには、『さいごのひとつが足りない』という状況だったのです。
私としては、仙台には出雲系の神社が少ないので、ひとつくらいでっかい神社を建ててスサノオ様を祀って下されば、絶対に足繁く通ったと思うし、具体的には政宗公にとっての憧れの武将で、文通もしていたという織田信長公が崇敬していらした津島神社を是非とも勧請して頂きたかった…!とも思ったのですが、絶対に無理だったでしょうね。
わざわざ新しい神様を勧請してきて神社を建てるというのは、当然にご利益を期待しているからで、天下人寸前まで上り詰めた勇ましい武将が祀った勇ましい神を新たに招くとなると、徳川家が天下を治める世となったのに、まだ反旗を翻し天下人を狙うのか?と疑われても仕方が無いです。
そして、考えに考えた政宗公の没年は1636年ですから、その時には東照宮を勧請することに決めており、遺言してあったと思います。
政宗公の遺志を受けて、2代目忠宗公が徳川家光公に勧請させて欲しいと申し出たのでしょう。
仙台東照宮の創建は、1654年。で、政宗公の死から18年が経過。
因みに、榴ヶ岡天満宮(当時は天神社)は、東照宮創建のために、一時的にその東側に遷座され、現在地への遷座は1667年で既に3代綱宗公の御代です。
時系列を辿ると、新たな天満宮創建よりも東照宮を鬼門封じに置くことを優先した、ということだけはわかるんですけど。
でも、東照宮を勧請したいと申し出た2代忠宗公自身が、わざわざ天神社を1640年に修築してるのに?何故に遷座??
天神社自体は伊達氏が仙台を本拠地とする前からあって、仙台城の前は同地の国分氏居城の鬼門封じだったのに…
訳わからんわ!!!
と、私は結構長い間、頭を抱えていた訳です。
でも、榴岡天満宮の落雷について調べているうちに、「あ」と思ったんです。
気付いてしまえば、何てコレわかりやすい理由?
仙台城下町の人々には、管公が日本三大怨霊の一柱であっても、祟られる理由はありません。
学問の神様で、子宝の神様で(管公は子沢山で、12人説、14人説、23人説)、道中安全の神(行きたくなかったのに決まっているけど、太宰府への長い旅路を無事に辿り着いた)として、素朴に信仰していたはずです。
だから、氏子たちは火災と消失を悲しみつつも、落雷は雷公様のご降臨という奇跡と思い、ありがたく手を合わせることが出来た。
要するに、祟りとか祟り神とかいうものは、祟られる理由がある者の後ろめたさや恐怖によって発生する。
そして、伊達家には、管公に祟られる理由があったんです。
だって。伊達家って。
藤原北家の末裔を名乗っているんですもん。
(つづく)
2020.
03.
27
今回は『その3』なのですが、中三日空きましたので、『その2』は20/03/23、因みに『その1』は3/22になります。
という訳で。
前回は、2度も雷公が降臨(結果的には火事で災害になったのですが)するという栄誉のある強烈な天神社を、どうして鬼門の守りから外しちゃったの政宗公!!
…というところで終わりましたので、続きと参ります。
尤も、少なくとも2回目の落雷は、現在の位置に遷座してからなんですけどね。
有名な落雷と火災は寛政7年(1795)2月25日のことで、社殿だけでは済まずに鳥居まで焼ける大火事でした。
その後建て直したのが現在の社殿その他であるようです。
宮司さんが2度落雷したと仰っているのですからそうなのだと思いますが、もう1回がいつで、どのような被害であったのか、ぐぐっても見当たらなかったので、そちらの方はよくわかりません。
1795年に消失した資料に書いてあったものの、1度目の落雷については詳細は不明、というところなのだと思います。
私は、長い間わかりませんでした。
1回目の落雷がいつかということではありません。
どうして鬼門封じが天神社ではダメだったのか、ということです。
確かに、現在東照宮がある場所は、実際に家康公が来たことのある土地で、つまり「家康公ゆかりの地に東照宮を勧請したい」という理由付けはとてもナチュラルで、まさかそれを鬼門封じにしますなんて考えているなどとは疑われることはありませんでした。
実際、仙台城の鬼門封じは、現在の定禅寺通りの辺りにある寺社群がそれであるというのが、公式でした。
と、鬼門封じを公式情報として幕府に伝えなければならない程度に、各地の大名が《呪術都市》を作ることを幕府が警戒していたのが驚きです。
それに、東照宮の勧請は、当時の各藩武将達の間で流行?していまして、競うように東照宮を建てていましたから、伊達家もそうであっても何の不思議もありません。
そして、晩年の家康公の信頼を得ていた政宗公(信頼を得るまでには色々あった訳ですが)の跡継ぎ・忠宗公が、仙台にも是非東照宮を、と徳川幕府3代目・家光公に申し出た所、とても喜んでくれて費用まで出してくれたほどです。
だから、まあ鬼門封じを疑われない程度の理由付けとしては役に立ちましたけど、別に家康公ゆかりの地だとか理由を付けなくても、わざわざ天神社を遷座するという手間をかけなくても、現在榴岡天満宮がある場所に東照宮を勧請したとしても、家光公は普通に歓迎してくれたと思うんですね。
だから、実は、私の疑問は当初、『どうして鬼門封じを東照宮にこだわったの?』だったんです。
でも、よく考えたら、
ソレ順序が違う。
ことに気付いたんです。
仙台城と城下町の結界の計画は、初代政宗公とそのブレーンによるものです。
仙台に東照宮を勧請したいと徳川家光公に申し出たのは、2代伊達忠宗公なのですが、天神社を現在地に移し(榴ヶ岡天満宮)、鬼門封じは《別の寺社》に取り替えよう考えていたのは、政宗公の可能性が高い。
漠然と別の寺社、と言いますのは、まず結界6ポイントの要・仙台城築城年が1601年。
対して日光東照宮が建てられたのが1617年。(家康公は1616年没)
仙台城築城が16年も先んじていて、始めから結界の構想に、東照宮を勧請しようという発想を入れるのは時系列的に無理なんです。
だから、天神社を鬼門封じから《外したい》という発想の方が先だった、ということになります。
(つづき)
という訳で。
前回は、2度も雷公が降臨(結果的には火事で災害になったのですが)するという栄誉のある強烈な天神社を、どうして鬼門の守りから外しちゃったの政宗公!!
…というところで終わりましたので、続きと参ります。
尤も、少なくとも2回目の落雷は、現在の位置に遷座してからなんですけどね。
有名な落雷と火災は寛政7年(1795)2月25日のことで、社殿だけでは済まずに鳥居まで焼ける大火事でした。
その後建て直したのが現在の社殿その他であるようです。
宮司さんが2度落雷したと仰っているのですからそうなのだと思いますが、もう1回がいつで、どのような被害であったのか、ぐぐっても見当たらなかったので、そちらの方はよくわかりません。
1795年に消失した資料に書いてあったものの、1度目の落雷については詳細は不明、というところなのだと思います。
私は、長い間わかりませんでした。
1回目の落雷がいつかということではありません。
どうして鬼門封じが天神社ではダメだったのか、ということです。
確かに、現在東照宮がある場所は、実際に家康公が来たことのある土地で、つまり「家康公ゆかりの地に東照宮を勧請したい」という理由付けはとてもナチュラルで、まさかそれを鬼門封じにしますなんて考えているなどとは疑われることはありませんでした。
実際、仙台城の鬼門封じは、現在の定禅寺通りの辺りにある寺社群がそれであるというのが、公式でした。
と、鬼門封じを公式情報として幕府に伝えなければならない程度に、各地の大名が《呪術都市》を作ることを幕府が警戒していたのが驚きです。
それに、東照宮の勧請は、当時の各藩武将達の間で流行?していまして、競うように東照宮を建てていましたから、伊達家もそうであっても何の不思議もありません。
そして、晩年の家康公の信頼を得ていた政宗公(信頼を得るまでには色々あった訳ですが)の跡継ぎ・忠宗公が、仙台にも是非東照宮を、と徳川幕府3代目・家光公に申し出た所、とても喜んでくれて費用まで出してくれたほどです。
だから、まあ鬼門封じを疑われない程度の理由付けとしては役に立ちましたけど、別に家康公ゆかりの地だとか理由を付けなくても、わざわざ天神社を遷座するという手間をかけなくても、現在榴岡天満宮がある場所に東照宮を勧請したとしても、家光公は普通に歓迎してくれたと思うんですね。
だから、実は、私の疑問は当初、『どうして鬼門封じを東照宮にこだわったの?』だったんです。
でも、よく考えたら、
ソレ順序が違う。
ことに気付いたんです。
仙台城と城下町の結界の計画は、初代政宗公とそのブレーンによるものです。
仙台に東照宮を勧請したいと徳川家光公に申し出たのは、2代伊達忠宗公なのですが、天神社を現在地に移し(榴ヶ岡天満宮)、鬼門封じは《別の寺社》に取り替えよう考えていたのは、政宗公の可能性が高い。
漠然と別の寺社、と言いますのは、まず結界6ポイントの要・仙台城築城年が1601年。
対して日光東照宮が建てられたのが1617年。(家康公は1616年没)
仙台城築城が16年も先んじていて、始めから結界の構想に、東照宮を勧請しようという発想を入れるのは時系列的に無理なんです。
だから、天神社を鬼門封じから《外したい》という発想の方が先だった、ということになります。
(つづき)
2020.
03.
23
国分氏の先代城の鬼門封じは天神社であったのですが、何故か伊達家は2代忠宗公~3代綱宗公の時代に、その場所に東照宮を建立し、天神社は当時の別の軍事的要所で、実は仙台城建築の候補でもあった高台(今は周りに高い建物が多くてあんまり高台感がしないのですが)遷座してしまったのです。
つまり、仙台城の鬼門封じを、天神社(天満宮)から東照宮へと、変更したということです。…何故に?
そして、遷座された榴岡天満宮ですが、太宰府からも京都からも離れておりますけれども、ある意味ガチな神社です。
何しろ、日本各地にある天満宮・天神社の中で、唯一、落雷しているのです。2回も。
これ、いにしえの天皇家なら、管公の祟りじゃあ~~~~!!!と、恐れまくりもうひとつ新たに天満宮を建立しそう(管公が無実の罪で配流先で亡くなった後、藤原菅根が落雷で死亡。2度目は平安京内裏の清涼殿に落雷、燃え広がって7名の死者)ですが、
仙台人は祟りを思い付くほど後ろ暗い所などありません。
神社を崇敬していた人々は、落雷で社殿や貴重な資料や宝物が焼けて失われてしまったことを悲しみつつも、
おらが町の天神社に、二度も雷公が降臨なさった!!
※ 菅原道真公は、上記の平安時代の落雷事件により、死して天神(雷の神)になったと伝えられています
という、素晴らしいポジティブシンキングで、天神社を再建したのでした。
これほどパワフルな天神社を(昭和30年代までそう呼ばれていたらしく、天満宮の名は新しい)、
どうして鬼門封じから外して遷座し、東照宮に変えちゃったんですか?政宗様!
(『その3』につづく)
つまり、仙台城の鬼門封じを、天神社(天満宮)から東照宮へと、変更したということです。…何故に?
そして、遷座された榴岡天満宮ですが、太宰府からも京都からも離れておりますけれども、ある意味ガチな神社です。
何しろ、日本各地にある天満宮・天神社の中で、唯一、落雷しているのです。2回も。
これ、いにしえの天皇家なら、管公の祟りじゃあ~~~~!!!と、恐れまくりもうひとつ新たに天満宮を建立しそう(管公が無実の罪で配流先で亡くなった後、藤原菅根が落雷で死亡。2度目は平安京内裏の清涼殿に落雷、燃え広がって7名の死者)ですが、
仙台人は祟りを思い付くほど後ろ暗い所などありません。
神社を崇敬していた人々は、落雷で社殿や貴重な資料や宝物が焼けて失われてしまったことを悲しみつつも、
おらが町の天神社に、二度も雷公が降臨なさった!!
※ 菅原道真公は、上記の平安時代の落雷事件により、死して天神(雷の神)になったと伝えられています
という、素晴らしいポジティブシンキングで、天神社を再建したのでした。
これほどパワフルな天神社を(昭和30年代までそう呼ばれていたらしく、天満宮の名は新しい)、
どうして鬼門封じから外して遷座し、東照宮に変えちゃったんですか?政宗様!
(『その3』につづく)